03 孤独

 視界のすべてが黒くて、白かった。奥行きすらも見えない黒の中では、自らの手足すら見えるはずがない。瞬きをする目蓋の裏で白く光る閃光だけが唯一、黒以外の色だった。

 どこだろう、とは思わなかった。

 ここは、「孤独」だ。

 初めて見る夢であるはずなのに、サトルはなぜかこの場所を知っていた。

 何もない場所に立ち尽くしたままサトルは動かなかった。動いたところで何もない。「孤独」とはそういう場所だ。ならば目が覚めるのを待つしかない。


「使いすぎ、か」


 奇妙に精神が空間に同調していく感覚にサトルは呟いた。「孤独」という空間の性質に飲まれるのではない。押し潰され、塗り潰されていくのでもない。自己を保ったままそれを受け入れ、近づいてゆく感覚。「孤独」という空間そのものに寄り添い、ひとつになっていく。身の内が不思議なほど凪いでいた。

 ――夜の海のようだ。

 漠然とそう思った。

 満月の白い光に照らされた、凪いだ海。

 それは何者をも受け入れ、何者をも拒絶する故郷なき者たちの故郷だ。

 夜の海はサトルにとって唯一の帰る場所であり、「帰りたい」と思う場所だった。

 彼女にとっても海はまた、故郷だった。

 

『――――、――――』


 誰かを呼ぶ声が聞こえた。


『――――、――――』


 何を言っているのかは聞き取れないが、その声は温かい。いつの間にか「孤独」の中は柔らかな光で照らされていた。光の奥で何かが動いている。


『何だい、父さん』


 温かな声に応じる、温かな男の声。

 それは昔、〈万年筆〉を得たときに聞いた、冷たい男の声に似ていた。


『お前に、これをやろう。父さん――お前のじいさんから貰って使っていたんだが……もう、私は物を書くのも辛くてな。使いやすい万年筆だし、今度はお前が使ってくれ』


 見えてきたのは、病室のような白い部屋だった。窓の外には葉がほとんど落ち切った木の枝だけが見えている。陽の光が差し込んでいるその場所を見て、なぜかサトルは「寒い」と感じた。

 真っ白なベッドに上半身だけを起こした男が、こちらに向かって骨と皮ばかりの手を差し出している。そのやせ細った手の上には見慣れた万年筆があった。

 ――これは、記憶だ。

 サトルは直感した。

 ほかの誰でもない。遺品リリクトの所有者であった男の記憶。それが今、「孤独」の闇の中、サトルの眼前に映し出されていた。


『……いいの? 本当に』

『ああ。父さんだって、孫のお前まで使ってくれたら、喜ぶだろうしな』


 温かな記憶だ。

 「孤独」の中に差し込む、一筋の光明。

 視界に広がるそれにサトルは「男もきっと同じだったのだろう」と思った。

 遺品リリクトの持ち主は、生まれながらに複数の能力を持った異能力者だったと、サトルは組織に入ってから聞いた。だからこそ彼は他人に拒絶され、孤独のうちに生涯を送ったのだとも。ならばこの孤独の中にあって、あのやせ細った男は――彼の父親は、まさしく一筋の光明だったろう。

 サトルは「孤独」を知っている。

 仲間と別たれてから、それはずっとサトルの側にあった。

 それを怖いと思わないのは、「怖い」という感情自体を理解していないからだ。感情を理解していたならば、生き抜くことはできなかっただろう。貧民街でよく見た、孤独に泣き、壊れていく人間のひとりになっていたかもしれない。そうならなかったことが幸なのか不幸なのかは、サトルにはよくわからないが。

 彼の父がガサガサに渇いた唇の端を痛々しく釣り上げた。その笑顔には死相がありありと浮かび、それでもその冷たさに負けない温かさが内側から溢れ出していた。

 その強さの根源にあるものは何なのだろう。こちらを向きながら、こちらには向けられていない笑顔を見つめながら、サトルはぼぅ、と考えた。

 ふと、頭上から暗い光が差した。

 仄かに温かさを纏った、目の前の光よりも暗いそれに、サトルは迷わず手を伸ばした。

 そこに、現実があるからだ。


 見えたのは白く浮かぶ天井だった。

 周囲はやんわりと暗く、囲ったカーテンの外側で微かな話し声が聞こえる。うまく働かない頭に内容は入ってこないが、声の主がフミトキとマモルだということはわかった。何を話しているのだろう、と思ったところでカーテンが僅かに開いた。マモルが顔を覗かせる。


「おはよう」


 それだけ言って一度顔を引っ込め、次に出てきたのはフミトキの顔だった。にこやかに笑っている。裏側に冷たいものを感じないあたり、単純に機嫌が良いようだ。


「おはよう。カーテン、開けるよ」


 サトルがそれに頷くと、間もなく視界が開けた。金属とプラスチック、硬い布が擦れる音。その向こう側でマモルがピシリと脚を揃えて立っているのが見えた。フミトキの手前、いつものように体を傾けて立つわけにはいかないからだ。サトルは上半身を起こそうと、横になっていたベッドに手を突いた。

 左の掌から肘にかけてが、鋭く痛む。


「ああ、無理をしないの。ちゃんと起こしてあげるから」


 歪んだ顔に気づいたフミトキが流れるようにサトルの背を支え、細すぎる体を起こす。彼の手が最後に少し背を撫でた。背骨の凹凸の感覚が硬く掌に残るのに、今度はフミトキの顔が歪む。サトルはそれに気づいたが、あえて何も言わなかった。長々と説教されるのが目に見えていたからだ。


「手を出して」


 その様子にため息をついたフミトキが言った。大人しくしたがったサトルが、包帯の巻かれた左手を差し出す。その手をやんわりと左手でとったフミトキがそっと包帯を外していく。

 下はひどいものだった。

 指先から肘には無数に水ぶくれができ、赤く腫れ上がっていた。所々、皮が破れて鮮明な赤が見えているところもある。ボコボコとした皮膚の上で漏れ出した血清やらタンパクといった液体がぬらぬらと光っている。「通りで痛いわけだ」と思った。包帯が外され、外気に晒された腕はすう、と冷え、動く空気の気配を感じ取った傷口がヒリヒリと痛みを訴えた。

 他人事のように自分の腕を見つめるサトルに今度はマモルがため息をついた。どうにもこの部下は痛みというものへの反応が鈍い。正常に痛覚が機能しているにも関わらずこうも鈍いのは、これまでの経験ゆえ、としか考えられなかった。


「まったく、無理をして……」


 心配そうに眉を下げたフミトキが右手を自身の懐にやった。スーツの内ポケットを探り、取り出したのは銀色の懐中時計。伸びた細い鎖がサラリ、と音を立てた。親指で上部を押すと蓋が開く。時計盤の針は天辺に仲良く揃い、じっと止まったままだった。


遺品リリクト――刻渡り〈リック・ケーア〉」


 淡く光った銀時計の中で止まっていた針がクルクルと回り出す。通常の何倍もの速度で時間を進める時計。それに呼応するように、サトルの左腕の傷はするすると回復に向かい、やがていつもの白く滑らかな皮膚を取り戻した。カチリ、と針がまた天辺で止まる。時計が纏っていた銀色の光が、パン、と音を立ててはじけた。見届けたフミトキが時計を元の場所に仕舞う。右手でサトルの腕を撫で、満足そうに笑った。


「キレイに治ったね。よかったよかった」


「女の子の体に傷が残ったら大変だ」と悪戯っぽく言ったフミトキに、マモルが複雑そうな顔をしたのをサトルは見た。大方、「表の世界で生きられない女に、傷も何もないだろう」と言ったところか。


「で、サトルちゃん。君が戦った異能力者のことだけど」


 真面目な声でフミトキに促され、サトルはベッドの上で背筋を伸ばした。腿の上で手を重ね、真っ直ぐにフミトキを見つめて口を開く。


「……〈茶瓶ティーポット〉の使用者のことですね」


 フミトキが静かに頷くのを見て、サトルは記憶を辿った。

 掲げられた白いティーポット。そこから溢れた大量の湯。自在に行く手を塞いできた水流……。


「使用者は白人の女性です。守屋モリヤ長良ナガラは『アイラ』と呼んでいました。能力は、温度も含めて『中の水を自在に操る』と言ったところかと。ただし、容量に限度はない」

「温度も操れる、か。まあ、ティーポット自体がお湯を入れてお茶を煎れるものだから、不思議ではないね」

「厄介なのは、遠隔攻撃・近接攻撃のどちらにも対応できるところ、か」


 マモルの言葉にサトルが頷いた。

 見えないところにいる標的ターゲットに攻撃できる手段。

 奇襲をかける際にこれほど役に立つものはない。

 黒狗を使って標的に気づかれることなく遠隔から攻撃する、というのは任務の際のサトルの常套手段であった。相手に気取られる心配が無いため、余計な戦闘を避けることができ、かつ相手を逃すことがない。

 だからこそ、わかる。


「際限なく水を入れておくことができるとしたら、どんな距離でも攻撃可能です。極端な事を言えば、地球の裏側にいたって場所さえわかれば攻撃できる」


「それは厄介だねえ」と暢気な声でフミトキが言った。それを聞いたサトルが、思わず彼を見る。

 フミトキは笑っていた。それも、至極楽しそうに。

 その顔を見てサトルは「あの時、二人を殺していれば」という言葉を飲みこんだ。フミトキには何か策がある。それを悟ったからだ。

 

「まあ、ここにいれば大丈夫だよ。ギルドの人間はここを襲うことはできない。彼らは、だからね。一般人に手を出すことはできないのさ」


「善い人間」を殊更に強調してフミトキが言った。

 政府や国際機関と連携し、異能力者と一般人を繋ぐという役割の元で活動している、国際的異能力者集団・ギルド。彼らは、異能力者にその能力の使い方を指導するだけでなく、「異能力で一般人を助ける」ための仕事を斡旋し、嫌煙されがちな彼らを何とか世界に溶け込ませるよう心血を注いでいる。「殺し」や「戦い」とは無縁の組織。

 そんな彼らが、何も知らない一般人を襲撃などできるはずもない。そしてこのビルの地上階にいるのは、ほとんどがその「何も知らない一般人」だった。

 すなわち、居場所がわかったところで、ギルドの人間がここを襲撃することはできない。

「そういうことか」とサトルが納得したのを確認し、フミトキが布団の上に重ねられた彼女の手に自身のそれを重ねた。そっと撫で、柔らかく握る。


「君はちゃんと任務をこなした。ギルドの人間はまったくの予定外。殺す必要は無かった。取り逃がしたことも別に気にしなくていい。君がちゃんと帰ってくること。それが大切なんだよ」


 フミトキの柔らかく温かく響いた。守るように包まれた自身の手を見つめて、サトルは胸の奥が温かくなるのを感じた。ほんのりと温かく、きゅっと締め付けられるような、そんな感覚。しかし、不快ではない。慣れない感覚に戸惑うサトルの様子を見て、フミトキが「顔を上げてごらん」と言った。

 そろり、と上がったサトルの顔。驚いたのはマモルだった。

 フミトキは「やっぱり」と呟く。

 サトルは、笑っていた。

 ほんの僅かだが口角が上がり、周囲の空気が少しだけほぐれている。

 それはマモルが初めて見た、サトルの感情らしい感情であった。


「今、何を感じたか。教えてくれるかい、サトルちゃん」


 小さな子どもにするように微笑みながらフミトキが言った。

 少し考え、サトルが言葉を紡ぐ。


「体が、少し温かくなりました。胸のあたりが締め付けられるような感じがして、体からなぜか力が抜けました。何かから、解放されたような……」


 言葉を尽くして伝えようとするも、なかなかうまくいかない。自分の中で起こった変化をサトルはうまく言葉にできなかった。しかしフミトキは何も言わず、ただたどたどしく続けられるサトルの言葉に耳を傾ける。やがて言葉が途切れたところで、彼は笑みを深くした。


「それはね、『安心』っていうんだ。あとは『嬉しい』かな」

「安心、嬉しい……」

「うん。君が前に私の執務室で感じたのと、反対の感情だよ」


 その言葉にサトルが目を見開いた。

 マモルも思わずフミトキを見る。


「君が前に感じたのは、『不安』だ。『怖い』と言い換えてもいい」


「ちゃんと知っていたよ」というようにフミトキの手がもう一度サトルの頭を撫で、離れていった。ニコニコと笑いながら、彼はマモルを振り返る。


「感情というものは貧民街では邪魔なものだったんだろう。感情が生まれれば、そこから情も生まれるからね。情なんてものは、生き残るためには不要だ。本来、感情が生まれ育つ多感な時期にそんな場所で育ち、その上異能力が、まだ未熟な精神を食い荒らしてしまった。〈万年筆〉は私の〈懐中時計〉と同じで精神を糧にする、そのせいで、感情が生まれにくい土壌になってしまっていたんだね」

「では、なぜ今」

「大きな要因は環境だ。人に囲まれ、守られ、教育され……人間がただ自分を傷つけるだけの敵ではないとサトルちゃんは学んだんだ」


 フミトキの言葉はサトルの胸の中にストン、と落ちた。

 ここに来てから二年。サトルは様々なことを学んだ。戦闘の訓練だけでなく、生活の仕方など、人として生きるために必要なことはすべて、ここでマモルやフミトキ、ほかの幹部たちから学んだ。

 死んだ仲間たち以外はすべて敵だと思っていた。本当に自分のことを大切にしてくれる人間など存在しないと思っていた。ここの人間たちとて、使えなくなればあっさり捨てるのだろう、と。しかし、そうではなかった。

 気がつけば、自分は大切にされていた。守られていた。

 自分に感情が芽生えたと、喜んでくれる人たちに。


「……マモルさん」

「なんだ」

「ありがとうございます」


 おずおずと頭を下げたサトルにマモルは少し驚いたあと、「おう」と言って笑った。そして下がったサトルの小さな頭を撫でた。慈しむように柔らかく撫でるその手はとても心地良く、サトルはまた体がほんのりと温かくなるのを感じ、目を閉じた。







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