02 優しさ

 向かってきた水がサトルの目の前で、透明な何かに遮られて割れた。

 それだけではない。

 割れた先から音を立て、水流が急激に凍っていく。数秒後にはすっかり凍り付き、何かのオブジェのように月明かりを受けて輝いた。

 中心で氷が、まるで檻のように球体を成している。その檻から踏み出したサトルの足に、意思を持ったように外套が絡みついた。

 トン、と軽く地面を蹴る。

 柔らかく浮き上がった体は、そのまま倉庫の屋根の上に着地した。

 そんなサトルを砂色の外套を着た男とロングスカートの女が、信じられないものを見るような目で見ていた。足に絡みついていた外套が解ける。


「……お前が『月下の悪魔』か」

 

 それは疑問ではなく、確認だった。

 口を開いた男は漆黒の瞳でサトルを射抜く。

 その顔と砂色の外套が、頭の中でリストの中の人物と重なった。

 〈外套〉の使用者であり、ギルド日本拠点の幹部のひとり――守屋モリヤ長良ナガラ

 やはりいたか、とサトルは小さくため息を吐いた。「日本拠点の幹部の中で攻撃系の異能力を持つのはこの男くらいだから、来るとしたらコイツだ」というマモルの言葉も、逃げる最中に立てた自らの推測も、見事に当たっていたというわけだ。

 何も答えないサトルに焦れるように、男が体を左に傾けて右脚を揺らし始めた。苛立つと貧乏揺すりをするたちらしい。ついでに言えば、短気だ。

 

「だったら?」


 その答えに、男――ナガラは思い切り眉根を寄せた。次の瞬間にはサトルの目の前に移動している。〈外套〉の力だった。


遺品リリクト――鎧〈ルストン〉……!!」


 流れるように振り抜かれた脚を屈んで避ける。そのまま、上げられている脚の下をすり抜けた。相手が上で小さく声を上げたのが聞こえた。その僅かな間に、もう一度脚に外套を巻き付ける。ひとつ屋根を蹴り、大きく距離を取る。

 〈外套〉の異能力は、身体能力の強化。

 サトルにとってはだ。汎用性は高いが、上限はある。彼女はそれを熟知していた。

 いつも見ている黒外套の背中を思い浮かべる。


遺品リリクト――夢〈トロイ・メライ〉」


 着ている外套に力が宿る。色や形が変わったわけではない。傍目から見れば、何も起きていないように見えるだろう。実際、外見的には何も起きていないのだ。ただ、だけで。

 サトルがもう一度屋根を蹴った。

 今度はこちらからナガラとの距離を縮める。体を宙に浮かせたまま、右脚を振り上げた。

 サトルの身体能力では、〈外套〉を最大限に使いこなすことはできない。体力もなければ筋力もないからだ。しかし、ある程度の体術は訓練で叩き込まれている。 

 ナガラを倒すことはできなくとも、足止めくらいなら何とかなるだろう。

 その間に、離れたところで武器を構えてこちらを窺っている女を始末すればいい。能力的に厄介なのは、女の方だ。

 ナガラは向かってくるサトルに若干驚いた表情を見せた。だがそれも一瞬で、素早く迎え撃つ体制をとる。顔に向かって振り切った脚がナガラに受け止められる。その顔が歪んだのをサトルが見逃すはずはない。

 右脚を受け止めているナガラの手を左脚で蹴り飛ばし、距離をとって着地する。そのまま今度は走って距離を詰めた。顎に向かって繰り出された左脚をナガラはまた手で受け止めたが、僅かに力が足りず体制を崩した。そこにすかさず、右脚を打ち込む。体を無理やり捻ったいびつな体制ではあるが、〈外套〉の力を借りた蹴りの威力は体制を崩しているナガラには、受け止めきれるものではない。


「ぐっ……」


 とはいえ、ナガラとて〈外套〉の使用者として体術の訓練はしてきている。素早く受け身をとって起き上がり、サトルに向かって右拳を突き出した。その目はギラギラと好戦的な光を湛え、まさに「目の前の敵しか見えていない」といった風であった。

 それが、サトルの狙いだった。

 ナガラの拳を腕で受け止め、その反動を使って頭に蹴りを見舞う。その合間に、サトルは唇だけで言葉を紡ぐ。直後に二つの黒い塊が飛んでいった。それを見届けたサトルに向かい、ナガラの左脚が飛ぶ。受け止めきれずによろけたところに、今度は右拳が顔に向けて打ち込まれる。サトルは右腕でそれを防ぎ、反動を使って距離をとった。

 そのときだった。

 ザバリ、という音がして、左腕が急激に熱くなる。


「っ……?!」


 蛇のような水流。

 細いそれが、熱い水蒸気をまき散らしながら、サトルの左腕を包んでいた。

 熱湯。

 包まれた左腕が熱く痛む。

 痛みに顔を歪めたサトルが絡みつく水流を避けようとするも、それは腕にガッチリと食らいついたままで、びくともしない。

 ナガラの後ろで女が、水流が伸びるティーポットを掲げて笑っている。

 その赤く彩られた唇が、遺品リリクトの名を呼んだ。


遺品リリクト――ヴァッサー・タ、」


 不意に言葉が途切れた。

 サトルの腕に巻き付いていた水流が力を失い、崩れて零れた。

 今度はサトルの口角が上がる。

 

「アイラ!!」


 気が付いたナガラが叫んだ。

 唸りも上げずにロングスカートの女――アイラ・ブルックの体に食らいついたのは、二匹の黒い狗だった。

 目ばかりがギラギラと光る、影のように真っ黒で不気味な狗。それがアイラの腰と左肩にそれぞれ食らいついている。驚いた目で彼女が自らの体に噛みついたそれを見ている。動くことはできないようだった。

 それを見たナガラが動いた。

 〈外套〉で強化した脚で屋根を蹴り、目にも留まらぬ早さでアイラの元に駆けつけると、彼女に食らいつく黒狗たちを蹴り飛ばした。鳴き声ひとつ上げずに、飛ばされた黒い塊は闇に溶ける。

 アイラが崩れるように膝をつく。ナガラが慌ててその体を支えて声をかけるが、反応はない。彼女はただ呼吸を苦しげに乱し、目を強く閉じて眉根を寄せているだけだ。まるで深い眠りの中、悪夢に侵されているように。

 ナガラが、僅かな違和感に眉をひそめた。

 支えた細い体から黒のコートを引っぺがし、その下を検める。

 違和感の正体に、彼が目を見開いた。

 確かに噛みつかれたはずのアイラの体には、傷がひとつもなかった。腰にも肩にも、血が流れた痕どころか、歯形すらない。

 

「……どういうことだ」


 左腕を庇うように体の影に隠し、じっと二人を見ているサトルにナガラが問いかける。サトルはそれには答えぬまま、再び二匹の黒狗を出現させた。

 一気に二人を仕留められるのが理想だが、相手がナガラではそうはいかない。ならば、女の方だけでも。

 急激に霞み始めた頭で考え、倒れるアイラまでの導線を無理やり脳内に描く。

 静かに傍らに佇んでいた狗たちが、風を纏って走り出した。


「サトル! 降りてきなさい!」


 鋭いサナエの声が夜を割ってサトルの耳に届いた。「命令だ」と無意識で判断した脳が体に司令を送り、脚が勝手に動く。ナガラたちに素早く背を向け、そのまま屋根から飛び降りた。戸惑いの声が背中越しに聞こえるがそんなものはどうでもよかった。サトルはただ、命令に従ってサナエの声が聞こえた方向に走る。


「よしよし、お疲れさま」


 サナエは笑ってサトルを迎えると、柔らかく頭を撫でて小さく「帰ろう」と言った。その言葉に頷こうとしたところで背後に鋭い気配を感じ、サトルがすぐさま臨戦態勢に入ろうとする。それを押し留め、サナエはサトルを抱きかかえて横に跳んだ。


「……仲間をやられて、黙って帰すと思うか」

「先に手を出してきたのはそっちでしょう? こっちは迎え撃っただけ。寧ろ、殺されないだけ感謝してほしいところよ」

「ああ?」

「……わかっているだろうけど、この子は黙っていたら、あの〈茶瓶ティーポット〉の使用者を殺していた。確実にね」


 一旦サトルを下ろしたサナエが、右手でサトルの頭を自身の胸に押しつける。サナエの体と自身の体に挟まれた左腕が痛み、サトルは身を捻ろうとするが、動くと摩擦により痛みが一層ひどくなる。サトルはサナエの腕の中で黙っているしかなかった。頭が、ひどくぼやけている。


「だったらなぜ止めた」


 ナガラの鋭い声。それにため息をついて、サナエが答える。


「……大きな力には、大きな代償がいる。あなただってわかっているでしょう? 特に〈万年筆〉は、感情……精神力で操る遺品リリクト。むやみに使って精神を削れば、制御を失う可能性だってゼロじゃない」


「そうなったら、敵も味方もなく殺されるだけよ? 私も、あなたも」とサナエが笑った。その手がゆっくりとサトルの頭を叩く。まるで子どもを寝かしつけるような、柔らかな手つきだ。サトルの瞼が下がり始める。


「それに、あなたたちの目的はこの子を殺すことじゃない。それなら、この子を守り切ることさえできれば、私たちの勝ちだもの。逃げるほうが早い」


 サナエの言葉にナガラが舌を打つ。

 そしてひとつ大きく息を吐くと、何か大きなものを耐えるような押し殺した声で、顔の見えないサトルに告げた。

 

「……俺は、お前を許さねえぞ『月下の悪魔』。お前は彼奴アイツを……アユムを殺した。彼奴アイツは誰よりもお前を守りたかったってのに」


 眠りに就きかけているサトルの頭に、ナガラの言葉が入り込む。

「私を、守りたかった」?

 

「二年前……彼奴は俺たちに言ったんだ。『君を助けてくれないほかの人間たちのために、死んでくれ』なんて言えないって。彼奴はお前を守ろうとしていた。ギルドからもだ。それを、お前は……」


 なんだ、そんなことか。

 重い瞼を下ろしながら、サトルは思った。

 

 そんなこと、知っている。

 あの人が――師が、私を守ろうとしてくれていたことくらい。

 あの最後の夜。

 せめてもの情けで、自分の手で私を殺しに来たことくらい。

 知っている。

 それが、彼の優しさだったことくらい。

 

「……それくらい、知っている」


 呟く声は、ナガラに届く前に夜の中に飲まれて消えた。同時にサトルの意識は闇に落ちる。度重なる異能力の発動は精神を大きく削り、限界などとうに超えてしまっていたのだ。

 力が抜け、崩れかけるサトルの体を、軽々とサナエが抱き上げた。

 

「それでも、『死にたくない』って持てる力のすべてで抗うのは、生き物として正しいことだと私は思うけど?」


 温度の下がったサナエの声が、港を吹きすぎる冷たい夜風を纏ってナガラに届く。

 彼はもう何も言わなかった。ただ、唇をきつく噛みしめてサトルとサナエを順に睨んだだけだった。

 攻撃の意思がないわけではない。ナガラはまだ戦える。しかしここでもう一戦交わせば、意識を失ったまま倒れている女の治療が遅れる。それを、危惧しているのだろう。

 サナエはそんな彼にサラリと背を向けると、サトルを抱えたまま車の前まで素早く移動した。

 開けられたドアから後部座席に乗り込み、すぐに「出して」と告げる。

 車が動き出した直後。サナエが振り向いた先にはもうすでに、男の姿はなかった。





 

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