間 スケープゴート
01 幸せな世界の裏側に
みんなが幸せな世界。
そんなものは存在しないことを、
周囲から見て、特別不幸な子ども時代を過ごしたわけではない。寧ろ、恵まれた側だったと言ってもいいだろう。特別に裕福だったわけではないが、欲しいものは割と何でも手に入ったし、友だちがいなかったことも、虐められたこともない。
少なくとも、時折横目で見ていた貧民街の子どもたちに比べれば、自分はずっと幸せだった。
幸せというのは非常に主観的である一方で、比較対象となる誰かがいなければ成り立たない。
不幸な人間がいるから、他の人間は幸福を感じることができる。不幸な人間がいなければ、幸福な人間は存在しない。
スケープゴート。
周囲の幸せのために、必要な犠牲。
何かを手に入れるために代償が必要なのは、ひとりの人間でも世界でも同じだ。
「ったく、なーんで降りれねぇのに上っちまったのかねぇ、お前さんは」
老婦人の腕の中で寛ぐ猫の額をナガラが指で小突くと、猫はむずがるようにニャア、と鳴いた。まだ子猫という大きさの真っ白なそれは、高い木の上で四肢を縮こまらせていた先ほどとは違い、目を細めて四肢を伸ばしている。何とも暢気なものだ。
「ありがとうねぇ。ミーちゃんを助けてくれて……。それにしても、お兄さん、すごいのねえ。ミーちゃんがいたところはとっても高かったのに、一飛びなんだもの」
「まあ、それが俺の能力ですから」
「便利ねえ……」
猫の頭を撫でながら、老婦人が目を細めた。その腕の中で器用にクルリと回った猫が、婦人が首に巻いていた紫色のストールに爪を引っかけた。ニャア、と猫が鳴く。婦人が笑って爪を外してやりながら「お金は明日、口座に振り込むわね。ありがとう」と言った。
「こちらこそ。ご依頼、ありがとうございました」
帽子をとって深々と優雅に頭を下げ、ナガラは背を向けた。老婦人の笑う声が背中越しに柔らかく響いていた。
「良かったな、ナガラ」
歩き始めたナガラの背に声がかかる。同じ任務についていた
「猫探しだの、喧嘩の仲裁だの、重い荷物運びだの……俺は便利屋じゃないんだがなぁ。大体、この程度の依頼に幹部二人って、おかしいだろ」
「でも、君の能力って、それくらいしか使いようがないじゃない?」
また舌打ち。ナガラは苦々しい顔をしてカズヒロを睨んだ。図星だった。
異能力で人助けがしたい――だからナガラはギルドに入った。持ってしまった異形の力を人の役に立てることで、「異形は必ずしも怖いものではない」と知ってほしい。そうしてこれからも連綿と受け継がれるのであろうリリクトによって、不幸になる人間が減ればいい。
偽善だと言われようが、ナガラは実際にそう思ったのだ。
そして今のところ、それは叶っている。リリクトの最初の持ち主であったという男のように孤独に泣くこともなく、街の人々には「不思議な力で困りごとを解決してくれる人たち」として温かく受け入れられている。
それ自体に不満はない。
不満はないのだ。
「でもよ、もうちょっとデカい依頼もやりてぇよ」
「この前、東京に行ってただろう。偉い人の護衛で」
カズヒロに軽くあしらわれて取り付く島もないナガラは、長い脚をこれでもかと振り上げて荒っぽく歩いていく。後ろを追いながら、カズヒロが苦笑する。
平和維持を目的とした組織というのは、そもそもが退屈なものだ。警察だってそうだ。日々の業務はパトロールや小さな事故や事件の対応で、派手な殺人事件の対応なんて、地域の中で年に一度あるか無いか。平和というのはそういうことで、平和維持活動をする組織にとっては、大きな仕事なんてない方がいいのだ。
それが、平和な世界――ひいては、多くの人が幸せな世界を守ることになるのだから。
「そういえば……見つかったのか?」
ナガラが足を止めて振り返る。
いつも着ている砂色の外套がさらりと風に揺れた。
「あぁ、『月下の悪魔』か。見つかってはいるけど、手出しはできないだろうなあ」
「……〈夜鷹〉か」
「ああ。この前までは外にいることもあったんだが、今はほとんど本拠地から出ない。かと言って昼間に、俺たちが派手に動くわけにもいかない」
「そりゃそうだ。そんなことしたら、一般人に睨まれる」
ナガラが一度、周囲を見渡す。
二人のことなど気にも止めない人々が右を、左を、過ぎていく。
踵を大きく鳴らして早足に歩いていた女性のポケットから、丸められたティッシュペーパーが落ちた。気に止められることもなく、それは人々の足に流されて、やがてどこかに行ってしまった。
ふと、二年前に殺された盟友の、苦しげに歪められた顔が脳裏に浮かぶ。
『君を助けてくれないほかの人間たちのために、死んでくれ、なんて言えるはずがないじゃないか』
そう言った彼は次の日に冷たくなった。
守ろうとした子どもに、殺された。
そして今も、その子どもは人を殺し続けている。誰かの未来を奪いながら生きている。
それは現代においては、許されざる生き方だ。たとえその子どもが、他を殺すことでしか生きられなかったとしても。
「……最大多数の最大幸福」
いつの間にか、ナガラの横にカズヒロが立っていた。その口から漏れたのは、イギリス功利主義道徳の基本原理であり、世界各地の拠点から異能集団として世界の安寧を目指す、ギルドの基本方針だ。
「俺たちは『多くの人』のためにある。だけど『全員』のためじゃない。世界の多数にとっての幸福を、幸福と感じない人間もいる」
「わぁーってるよ」とナガラが眉を寄せ、無雑作に自らの後頭部をかき回した。薄い茶の髪が日に透けてキラキラと輝いた。
「だから、アイツは外に出しちゃおけねぇんだ。他人の幸せを奪うやつは、残念だが贄になってもらうしかねぇ」
「まあ、仮に何もしていなかったとしても、万年筆の使用者だけは野放しにはできないんだけどね。あまりにも、危険すぎる」
カズヒロの言葉にナガラは頷くだけだった。
誰もが幸せな世界など、あり得ない。
誰かを幸せにするためには、必ず誰かを、何かを、犠牲にしなくてはならない。
――それが自分の心を、壊れてしまいそうなほどに痛めたとしても。
「帰ろう、ナガラ」
言われて彼は頷いた。
磨き抜かれた上等の革靴がコンクリートを打ってカツリ、と音を鳴らした。
砂色の外套が一度、ひらめく。
「……悪いな。ひとりが寂しいことは、同じ異能力者が一番よくわかってるのに」
その昔、真っ白な部屋の中で涙を流しながら「孤独」に壊れていった男の顔がナガラの心の奥にへばりついたまま、消えない。
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