第29話 「 不運 」

 黒い視界。けれど違う。視界が黒く染まったわけではない。振り返った先、視界いっぱいに広がっていたのは、鈍色に光りポカリと開く銃口だった。


 突き付けられるのは痛み。目頭を埋める熱さ。

 呆然とするルチルに山ヌシは語る。


『それが、その人間の本質だ。争いを止めようとするものでさえ利用し、山の財貨を欲する。そんな者に今更掟を増らせることが出来ようか』

『ッ……でも……』

『俺はこの山の主だ。山には必ず掟がある。人に知れずとも、山を守り、そこに暮らす命を護る掟が。その掟を守る為ならば、俺はヒトの命さえ奪って見せよう。その報復としてこの命刈り取られようと、俺は山ヌシの務めをやり遂げる』


 確かにそれは君臨する者の言葉だった。やめてと叫ぶ者にとって非情に響いても、この場で一つの正解だった。


『諦めろ。その者は欲に塗れた。欲を出してはいけないこの池で』

 それを最後に、山ヌシは再び低い声でひと鳴きした。動物たちの耳をつんざく合唱と、にじり寄る行進が始まる。


 ルチルはもうどうしていいか分からなかった。姿が変わったおかげで山ヌシと言葉を交わすことは出来たが、山ヌシには山ヌシの定めがありその行動をやめさせることはできなかった。逆に、変わってしまったせいでカルネとは言葉が交わせず銃を向けられる始末。いつの間にか涙が止まらなくなっていた。次々と溢れだし、溢れるたびに胸がからからに乾いていくようで怖かった。


(あたしがもっと上手に喋れたら……カルネさんに抱きしめられたあのとき、こうなることが分かっていたら、きっと、もっと……違う……ああ、どうしよう、どうしよう。あたしの……これは私の所為だっ!)


 責任なんて何一つない少女は、しかし止められないという罪を感じる。

 震える手を、力の抜けそうな足を、歯の根が合わずガチガチとうるさい顎を。

 それでも! 力でねじ伏せルチルは叫んだ!


『駄目だよ! 死んだら駄目だっ! 人の持つ武器は怖いんだ! たった一回でいっぱい死んじゃう! いっぱいいっぱい怪我しちゃう! カルネさんはあたしが止めるから、だからみんな――』


『もうやめて――――――――――――――ッっッッッ!!』


 その瞬間、誰も予想していないことが起きる。

 想像もできない幸運、じゃない。

 究極の不運として、カルネが用意した仕掛けが。

 勝手に動き始めた。


 ミシ……ザリザリ……と木の枝にぶら下がるように大きな石を繋げたロープが、徐々に落ちてきていた。大きな石が、その力を池の底にある石柱に伝え始める。


 初めに気づいたのは事の成り行きを見守っていた、山ヌシ。

『動き始めている!?』

 山ヌシの驚愕と動揺は瞬く間に動物たちに広がった。カルネに迫っていたすべてが動きの一切を止めて、山ヌシと視線を同じくする。


 そして動物たちの注意が他に移ればカルネも気づく。

 だから歪む。

 ルチルとカルネの表情が、正反対の理由でグニャリと動く。


「フハ、ネハハハ! どうやら縛りが甘かったようだねぇ。……いいや、くそったれの獣どもの鳴き声が引き金かねぇ。まあ、あれだけの爆音、何が起きても仕方ないよなあ!」


 カルネが一人笑う中、ルチルや山ヌシには極限の緊張が生まれた。

 見る先のカルネの仕掛けは着実に破滅のスイッチを押そうとしている。

 なのに、何もできない。石が落ちることを阻止できない。もし人の手でもあれば緩むロープをまた縛りなおすことで阻止も出来たかもしれないが、今のルチルは牛の姿。出来ることといえば走って体当たりすることくらい。


 ――その時、ルチルが気づく。


 木の高さを利用したテコならば、支点となるべき『高さを持った枝』が無くなってしまえばテコとしての機能はなくなるはずだ、と。

 

『山ヌシ様! あの木を折ってえええええええええええぇぇぇええぇ!』


 それは瞬間の判断だった。

 叫びを受け駆けだす山ヌシ。答えを返す暇すらなく、自身の巨体を全力でぶつけに行く。

『―――――――ッ!』

 その意味を察したカルネは舌打ちも激しく猟銃を構えた。

「余計な真似をするんじゃあないよぉおぉぉおぉ!」


 躊躇いなく引かれる引き金。腹を揺さぶる銃声。

 ズドンッという臓腑を貫くような破裂音が山に響き、散弾が山ヌシの側面いっぱいを一瞬でとらえた。


『ぐっ…………ぁあああああああああぁぁああぁっぁぁあ!』


 しかし、止まらない。傷から噴き出す血を無視して、痛みではじける視界も無視して、ただ突き進む。山の主たる巨猪は猛進する。


 ――ただ、それでも。


 山ヌシがその巨体を使って仕掛けある木をなぎ倒したのは、仕掛けが発動した半秒の後だった。

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