第28話 「 山、その意思 」

 額に押し付けられた銃口の硬さを、妙な熱を持った冷たさを、向けられる非情な言葉と視線を一心に受け止めて、ルチルは怖さも悲しさも隠さずそこに立ち続けた。足は震えるし、涙だって出る。声だって恐怖でガタガタ揺れている。それでも、だ。ルチルは意思を見せつける。ルチルだって知っているのだ。数か月の旅の中で猟師が銃を使っているところを見たことがあるのだ。その時には大きな鹿がたった一度の発砲で死ぬところを目の当たりにした。大きな牡鹿だ。仕留めた猟師はその牡鹿を山の小川まで引き摺っていくとそれを木に吊るし、見事な手捌きで解体していたのだ。頭を落とし、血抜きをして、手足を切り取って、皮をはぐ。内臓も貴重な食料だと綺麗に腑分けもしていた。そしてその猟師は食ったのだ。一時間まで生きていた、山を駆けていた牡鹿を焚火で焼いて、旨そうに。モサモサ生えた髭面を満面の笑みに変えて。そしてそれを、自分も喰った! 解体だって少し手伝った! だから、知っている。猟銃が、人間が、どこまで残酷になれるのかを。 それでもルチルは動かない。震える手足に力を込めて、勝手にあふれる涙を無視して。銃口突き付けられた格好のまま、カルネを睨み返せる。


 それがルチルという人間だ。なにがあっても、自分自身が呪われていても。運の悪いお人好しなのが、ルチルなのだ。それが不幸を招くと分かっていることであれば、助けるために銃口を額に押し付けられても、突っ張る。自分が正しいと信じたことを信じぬける。


 だってそんなもの正義でも悪でもなんでもない。

 ルチルにとって〝あたりまえ〟なのだから。


『やったらダメです、カルネさん。カルネさんはきっと良い人なんです。あたしには理由は分からなけど、直接伝えられなかったとしてもカルネさんはあたしに『伝えておいてくれ』って言ったじゃないですか。「すまない」って。――そんな人が何してるんです。カルネさんが今やろうとしていることはいけない事です。きっと悪いことが起こります。悪いことはどれだけ小さなものでも、怒らないに越したことはないっておばあちゃんも言ってました。だから――』


 お互いの想いと覚悟が激しくぶつかる。

 視線で、言葉で、その姿で。

 たとえ人と牛という隔たりがあっても、正確な意味が伝わらなくても、心を持つ一つの生き物として必ずルチルの言葉はカルネに届いているはずなのだ。


 ――なのに。

 カルネの声は凍えたままだった。


「……退く気はないって。そう受け取っていいんだね?」

『カルネ、さん……』

「ああ、不思議な気分だ。アタイがいま何をしようとしているのか、お前は分かっているみたいじゃないか。そうでなければ、お前はそんな不細工な顔で鳴いたりしないんだろうからねぇ。でも、だからと言って……いいや、であればこそ。アタイはお前を撃ち殺してでも為さねばならぬといったところなんだ」


 ルチルの額に当てた銃口をゴリッとさらに押し付ける。


「五つだ。今から五つ数える。数え終わったら引き金を引く。そこにあんたの頭があっても、尻があっても、必ずアタイは撃つ。死にたくないならさっさと退いておくんだねぇ」


 冷たい視線。凍える声。

 カウントは一つ二つと進み、しかし視線はぶつかり合ったまま。

 三つ四つと数えられてもルチルは動かず、いいや、ルチルの方からさらに一歩、銃口を押し返すように足を前に出す。


「ふん……もしアタイの言葉が分かっていて押し返したならずいぶん根性のある牛だと褒めてやるところだがねぇ。けど、いまは命を張るには安い場所じゃないか? 死んだら元も子もない!」


 そしてカルネはカウントの最後を大きく宣言すると、引き金にかかった指へ力を籠めようとした――その数瞬前。


 山が騒めいた。

 いや、正確に表現するなら、池を囲む樹々の陰、下草の陰から尋常ならざる数の視線が、その場を一気に包囲したのである。


「なんだい、これは……!」

 引き金を引くことすら忘れて、カルネは周囲に視線を巡らせる。ゾッとする目に見えない圧力が注がれているのはルチルではなくカルネだった。まるで山という存在に意識があって、カルネを押しつぶすようにそれは膨れ上がっている。


 そして、知る。

 動物だ。

 無数の命が音もたてずにジッとこちらを見ているのだ。


 ごくりと喉が鳴る。背中がザアッと冷えていく。

 それは四足の動物だけじゃない。翼をもつ者も昆虫も爬虫類も、二ペソの山に住む生き物がすべてこの池の周りに集まったんじゃないかと思えるほどの数が勢ぞろいしている。よく今まで気づかなかったと逆に感心してしまえるほどだ。キツネやタヌキだけじゃない。ウサギにシカにクマにリス、シマエナガにキタキビにホオアカにフクロウ、カマキリにオニグモにテントウムシにカマドウマ、カエルにカメにヘビにトカゲ。大きいのから小さい個体まで、無数のありとあらゆる命が、その視線がカルネに突き刺さる。


「なんだい、何なんだい、これは!」

 それはどんな恐怖だろうか。自然と隔離して自らを特別な生き物と捉えてきた人間に、自然動物が与えるプレッシャーはどれほどだろうか。

 カルネは自分の感情が逆立っていくのを感じる。怒りでなく、恐怖によって平静でいられなくなっていく。


 そして、それは最近まで人間だったルチルにとっても居心地のいい場所ではなかった。呼吸一つするのに許可がなければ殺されてしまいそうな、そんな気持ちになっていく。

 額に押し付けられた銃口がカタカタと揺れていた。


「まさか、お前がこれをやったんじゃあないだろうねぇ!」

『し、知らない! あたしだって分からないよぅ!』


 場の空気に気圧されたルチルは体をプルプルさせながら否定する。否定しても言葉は通じないことすら忘れながら、息を飲む。


『なにこれ、怖い……!』


 と、そのとき。

 山の上、一際大きな樹の陰から、その大樹にも引けを取らぬ大きさの猪が姿を現した。

 体中に傷を背負い、その数が獣の強靭さを謳うこの山の長――山ヌシである。

 ヌゥとその巨体を表して、ルチルからは傷だらけの巨漢に見える山ヌシは腹に響く声をそっとだした。


『数日振りか、ルチルとやら』

『山ヌシ様!』


 山の主たる巨猪は悠然とその体を揺すって、高い位置からルチルとカルネを見下ろす。

 状況を、光景を、銃口をルチルの額に押し付けるカルネという構図を。

 その瞬間――瞳に殺気が宿った。


『猟銃、か……』

 状況を俯瞰し、現状を知る山ヌシは短く、太い声でひとつ鳴く。途端、樹々の陰から、下草の陰からカルネを窺っていた動物たちが一斉に姿を現して、高く低く、声を張り上げ鳴き始めた。鳴けるものすべての、耳をつんざく喚き。それはカルネの身体ないし、その空間をも振動させる山の咆哮だった。


「くっ――耳が……ッ」

 突然の大音声に耳をふさぐカルネ。その拍子にルチルから銃口が外れる。

 動物たちはにじり寄るようにカルネへと距離を詰め、カルネを威圧するように包囲網を狭めていく。


 だから気づけたのかもしれない。こんな状況が初めてのルチルにも、この後の展開が不吉なものであるのだと。だから叫ぶ。大音声に負けないような、大きな声で。


『山ヌシ様! 何を、何をするつもりなんですかっ!』


 しかし、返答はなかった。山ヌシは屹立させた肉体はそのままに、カルネを見下ろしていた。

『山ヌシ様!』


 ルチルの胸をざわつく焦燥が焼く。

 無数の動物たちは鳴くことをやめず、じりじりとカルネとの距離を埋めていく。

 カルネはこの状況になって耳を押さえたまま口角を引きつったように持ち上げた。


「ハンッ、そういうことかい……」

 そして耳をつんざく鳴き声から自分を守るのをやめると、右手に猟銃、左手に鉈を持って臨戦態勢をとった。

「あんたらがそういうつもりなら、こっちだって覚悟はあるんだ。来なよ、殺しつくしてやるからさぁ!」


 圧倒的な暴力。その火ぶたが切られる。

 数の上では動物たちの方が圧倒的に多い。だが、カルネが持っているのは散弾銃。まとめて多くの動物たちに傷を負わせられる強力な武器だ。体の大きい物ならばばら撒かれる一つ一つの弾が小さいから致命傷にはならないかもしれないが、体の小さい個体なら簡単に命を狩れてしまう。いいや、体躯の大きな獣であっても当たり所が悪ければ死に至る可能性はゼロではない。


 なのに、動物たちの行進は止まらない。


『ね、ねぇ、やめようよ、みんな! よくないよ、死んじゃうの、良くないよ!』

 ルチルは動物たちに制止を促す。だが、やはり止まらない。ただただ己の命を使って命を狩るという自然界の摂理に従って山にとっての外敵を排除しようと行動する。


(どうしよう、どうすればいい? 何をすれば止まってくれるの!?)

 カルネ曰く不細工な顔を作るルチルは涙ぐむ目を乱暴に腕で拭って考えた。でも、どんなに頭をひねって考えたってうまい答えなんて出てきてくれない。だから、シンプルに。ルチルは考えられる中で一番即効性のある単純なものを選択する。

 そう、両者の間に割って入るという簡単な選択だ。


『ストーップ! 終わり、もう終わりです!』

 両手を広げ、オーバーオールの肩紐をずり下げながら、山の動物たちとカルネの間で壁を作るルチル。

『殺し合いなんて、おっかないこともう終わりですよ!』


 直後、ぴたっと。大音声で上がっていた鳴き声が止んだ。動物たちに怪訝な雰囲気が生まれる。動物たちからすれば自分たちの仲間としか映らない四足の獣が、人間を、それも山の掟を破ろうとして、なにより銃を向けてきた奴を守るなんてと訝しむ。カルネに向けていた視線を今度はルチルに移して、どうしたものかと戸惑っていた。

 そんな動物たちを順繰り見るルチルは最後に山主へと意識を向ける。


『へ、平気です。大丈夫ですよ。ほらあ、あたし怪我とかしてません! なによりまだ、カルネさんはやっちゃいけないことをやってしまった訳じゃないじゃないですか。だ、だからみんな、落ち着きましょう。ね? 殺し合いとか、そんな、駄目です。悲しいです』

 泣きはらした子供のように充血させた目を辺りに向けて想いを伝える。

 けれど、動物たちからの反応は極端に薄かった。

 いや、何を言っているんだと、愚か者を見るような瞳を向けていた。


 だから分からなくなる。

 自分の中の普通が、おばあちゃんに教えられてきた常識が噛み合わなくなる。


『ルチルとやら』と山ヌシは言う。『ぬしは何か勘違いしていないか?』

『勘、違い……? え、じゃあ、殺すとか殺さないとか……』

『する。いいや、それは確実だ』

『だからそれをやめましょうって!』

『無理だ』


 山ヌシははっきりと言ってカルネを睨み付けた。

『そこの人間にどんな理由があってニペソの掟を破ろうとしているのか知らないが、ニペソの掟は、破ればニペソが沈むとまで言われる恐ろしいものだ。もし仮に、二ペソが沈めば幾つの命がなくなるか、おぬしに想像つくか?』

『そ、それは……でも!』

『獣の数だけで優に千を超え、木っ端な虫どもも含めれば数など数えきれない。たとえ沈む土地が二ペソの一部であっても、そこに暮らしていたものはどうすればいい? それにもし、二ペソが沈むとなればぬし本来の姿であるヒトの村も、ひとたまりもあるまい。家屋は流され私財を失い、人であってもどれほどが生き残れるか。たとえ生き残ったとて、人は自然を拒否して生きていこうと努力した生き物だ。何もない状態で山に投げ出されれば、それだけで七日と持つまい。怪我もなく生き残れれば他の村に逃げ延びることも出来ようが、もし怪我をしたら? 獣どもも住む場所を奪われれば、ヒトも襲うぞ。だが、殺してしまえばそんな心配は必要なくなるのだ』

『違うよ、山ヌシ様! 殺さなくたって掟を守ってもらえば――』


 ここで山ヌシの声が静かに響いた。


『――後ろを見よ、ルチルとやら』

 言葉をふさがれ、山ヌシの声に釣られるように振り向くルチル。


 それを見た瞬間、目の前が真っ黒に染まった気がした。

『どうし、て……カルネさん?』

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