4-7 思わぬ遭遇

「なんだろう。異様に疲れる」


 朝、ヒタクは舟底で伸びていた。


「なによ、だらしのない。少しは相棒を見習ったらどう」


「鳥と比べられても」


「クヮ?」


「あ、ちょっと」


 自分のことかとヤタが飛んできた。旅の案内役がいなくなっては困る。アヌエナは彼を持ち場に返しながら、怠け者の非難を続けた。


「まったく。男がそんなざまでどうすんの」


「男女差別はんたーい」


「……あのね」


 寝転んだ状態のまま抗議する少年に、少女は口元を引きつらせた。


「女のわたしより男のあんたの方が体力あるはずでしょ。なのにどうしてその体たらくかって言ってんの。この数日、同じ環境、同じ運動量で過ごしてるのに」


「うっ」


 理路整然と返され、ヒタクは言葉に詰まる。


 実際のところ、運動量はアヌエナの方が多いのだ。ヒタクが任された作業は料理や掃除などの雑用だが、旅そのものは彼女が仕切っている。風向きに合わせて帆を動かし、高度を保つため火の状態に気を使い、悪天候に遭わないよう雲の動きを読む。これだけの仕事を、あの細身の体格でよくこなせると思う。


 だがしかし、彼にも言い分があった。


「でもここ最近、疲れやすくなってるのは本当なんだ。空を眺めてると頭がくらくらするっていうか、目が回るっていうか。森を出る前はそんなことなかったのに」


「空を眺めてると、って……。もしかして空酔い?」


 一転して、少女の口調が気遣わしげなものに変わった。身体を起こしかけたヒタクに手をかけ、再び舟底に寝かせる。


「もう、体調が悪いのなら早めに言ってよね。症状が軽い内に治さないと、手の打ちようがなくなるんだから。空のど真ん中にお医者さんなんていないのよ」


「あ、うん。ごめん」


 諭すような声で注意され、ヒタクは素直にうなづいた。彼女の言うことは一々もっともだ。忍耐がどれだけ美徳でも、無理な我慢は自分どころか仲間にも負担がかかる。二人しかいない状況ではなおさらだ。


 それはそれとして、分からないことが一つ。


「……ところで、空酔いってなに?」


「周りの全てを青い空に囲まれてると、平衡感覚が狂って気分が悪くなることがあるの。それが空酔い。具体的な症状は……今あんたが感じてる通り」


「ああー」


 理解と同時に眠っていた記憶も呼び覚まされ、ヒタクは納得した。


 以前にも体験したことがあるのだ。かつて空を漂流し、フソウに流れ着いたあの時も体調がすぐれなかった。 


「おかしいと思ったんだ。こんなに雲一つない快晴なのに、どうして気分が悪いんだろうって。でも前後左右はもちろん、上下まで青一色だったら、そりゃ感覚も狂うよね」


 七年前は、この上さらに空腹が重なっていた。そんな状況で兄はよく、気球を操作できたと思う。


「今日はこの辺にしておきしましょう。一日ぐらい風任せに飛んでも大丈夫だから。あんたはそのまま、体を休めてなさい」


「ん……」


 少女の厚意に甘え、毛布にくるまる。すると、ぬくもりに溶かされるように気持ち悪さが薄れた。そのまま追憶に浸る形で物思いにふける。


(兄さん……。今どこに、どこまで行ったのかな。元気でいるといいけど)


 独り再び空へと、森を出ていった男に思いをせながら寝返りを打つ。すると、高く広がる大空が目に入った。


(ほんと、どこまで続いてるんだろう)


 蒼天そうてんには白く光る虹のほかに何もない。あの空を二分する白い弧をたどっても空平線で途切れ、その下には濃紺の深い大気が広がるばかり。果たしてこの空にいただきは、底はあるのだろうか。


「う~ん。……ん?」


 とりとめもなく思いを巡らせていると、舟底から低い音が聞こえた。最初は気のせいかと思ったが、徐々に大きく、はっきりと聞こえてくる。ついには身体に振動まで感じ始め、無視できなくなった。


(なんだろう?)


「あ、こら。大人しくしてなさい。そんな状態で下をのぞきこんだりしたら吐くわよ」


 起き上がって舟縁ふなべりから身を乗り出したヒタクに、帆を仕舞っていたアヌエナが親切に忠告してくる。だがその時には、少年の視界は異変を捉えていた。


「あれは……」


「どうしたのよ」


 アヌエナが手を休めて隣に来る。ヒタクは青く透き通った大気の底を指差し、銀色に光る無数の点の存在を知らせた。


「天底の方から何か来る」


「何かって?」


 浮上する銀の光は舟に近づくにつれ、その輪郭をはっきりとさせた。


 細長い胴体を矢のように伸ばし、翼の代わりにひれで大気をき進み、丸く開けた口で進路上にある物を片っ端から吸い込む空の住人。大気の海を漂う怪魚。


風魚かざなだ!」


「何ですって!」


 その正体が分かった時には遅かった。鳥以上に飛行に特化した生物の大群が、風切音を立てながら猛スピードで飛び出してくる。


「わわわ」


「きゃあああ」


 雨が逆さまに降るかのように、数え切れないほどの銀の矢が下から上に昇っていく。その内の何十匹かが、飛舟とぶねの底に体当たりしてやかましいことこの上ない。


「なんでこんなところに!?」


「知らないわよ!」


 風の魚を意味する名で呼ばれる彼らだが、もちろん魚類とは全く関係がない。それどころか、他に類似した動物もいない。そのあまりにも謎に満ちた生態から、天人が大地を浮かべる以前から存在する空の原生生物ではないか、とさえ言われている。


 当然、その行動原理は誰も知らない。


「ちょっと、あんた。空飛べるでしょ。あの魚の群れどうにかしてよ!」


「どうにか、って……」


 アヌエナの無茶な頼みに困惑するヒタク。とりあえず、絡羽からばねで飛んで追い払おうかと考えたその時、助けを求めるかのような声が聞こえた。


「クァッ!」


「ヤタ!?」


 前を見れば、道案内を務めていたはずの赤烏あかがらすが空を泳ぐ魚にもみくちゃにされていた。くちばしでどうにか応戦してはいたが、さすがに相手の数が多い。無残にも羽が何枚か散っているのが見える。


「ヤタ! 待ってて、すぐ行くから」


 気分の悪さも忘れ、ヒタクは急ぎ絡繰からくり仕掛けの翼を背負った。


「って、こっちよりカラスの心配!?」


「だって舟が盾になるしヤタがいないと迷子だし……。とにかく、ごめん」


「ちょっと、待ちなさい!」


機動展翅きどうてんし、スズメバチ」


 不満をあらわにする少女をなだめる間も惜しく、ヒタクは空中へと飛び出した。


 機動性を高めるため、前後に連結して一対の翼となった羽が大気を打つ。


 ブゥンと低い音を立てながら、少年の身体は風魚かざなの群れに突っ込んだ。


「こら、離れてっ。……ヤタ!」


「クァッ」


 吸いつくようにまとわりつく風魚かざなを一匹一匹引き離す。元より、普段は鳥も飛ばない深い空で暮らす生き物たちだ。ヤタを獲物として狙っていたわけではなく、一度追い払えばそのまま空の向こうへ消えてくれた。


「ふう。……ヤタ、大丈夫?」


「クァ」


 暴徒化した風魚かざながいなくなったところで呼びかけると、ヤタは大丈夫だと言うように一声鳴いた。そのいつも通りの澄ました響きに、ヒタクはホッとしつつも首をひねった。


「なんだったんだろう。まるでパニックでも起こしたみたいな……」


「クア」


「きゃあああ!」


「え? あ」


 まだ舟は狙われているままだった。進路上の障害を取り除こうとでもしているのか、数匹の風魚かざなが舟をつついているのが見える。


「アヌエナ!」


「ちょっとっ、やめなさいっ。やめろってば!」


 大急ぎでかけり戻ると、少女は掃除用のデッキブラシを振り回しているところだった。浮き球に吸い付き渡り板を突き破ろうとする空の魚を、必死の形相で叩き落としている。


「こら、どきなさい! ……いたっ!」


「あわわ!?」


 ほんのわずかの差で助けに入れず、彼女のお尻に一匹吸い付いてしまった。しかし群れの中ではまだ小さな個体で、幸いにも少年の力で引き離すことができた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る