4-6 星が導く旅路

 広大な大気の海に日が沈む。赤く霞んだ太陽が空の底へと身を隠す。


 日が没するのに合わせ、夕焼けも宵の闇に溶けつつある。蒼天に隠れていた星々が姿を現し始め、暗褐色の空平線にもいくつかの小さな光が灯る。風も雲もない薄明かりの中、双胴の影が浮かんでいた。


「北極星は沈んで南の冠は指三つ、か。思ったより南に寄ったのね」


 刻一刻と夜が気配を増す中、アヌエナは目の前に広がる虚空を見つめた。


 より正確には、ぐに突き出した自身の指の先を。


「で、弟星が……」


 今、彼女が行っているのは天体観測。星の高度を測定し、それをもとに舟の現在位置を割り出そうとしているのだ。


 伸ばした腕が水平に動き、次の星に向けて指が重ねられる。


「一、二、三……いや、二と半分、かな」


「なにしてるの?」


「きゃっ」


 突然の声に振り向くと、ヒタクがのぞき込むようにしてこちらを見ていた。観測に集中するあまり、背後に立つ影に全く気付かなかった。心臓が飛び跳ねる勢いのまま、アヌエナは怒鳴る。


「急に声かけないでよ! 驚いて空に落ちたりしたらどうするのよっ」


「ご、ごめん。でもご飯できたから呼んだのに、返事がないからなにしてるのかなって思って……」


 まだあどけなさの残るその顔には、疑問よりも心配が強く浮かんでいた。言葉以上に雄弁な表情を前に、少女の怒りが急速にしぼむ。


「はあ」


 気勢を削がれ、アヌエナは仕方なく説明を始めた。


「星の観測よ」


「星?」


「そ。星って、いつ、どこで、どんなふうに見えるか決まってるからね。決まった時間にこうやって測れば、今自分が空のどの辺りにいるかも分かるってわけ」


「へえ!」


 星に向けてそろえた指を示してやると、少年が感嘆の声を上げた。にわかに好奇心が沸き起こったらしく、目を輝かせながら質問してくる。


「じゃあ、君は全部覚えてるの? いつ、どこで、どんな星が見えるのか」


「もちろん。空の民なら当然よ」


「すごいや! ……あ、でもそれなら、もう少し暗くなってからの方が見やすくない?」


「それじゃ駄目なのよ」


 尊敬の眼差しを向けられて悪い気はせず、アヌエナはまだあかね色の残る空を指差しながら問いに応じた。


「見て」


「ん……?」


「空平線がまだくっきりと見えるでしょ。あの上空と下空かくうの境目、星の光を通す大気層の端が高度の基準なの。あそこから目印の星まで指を縦に重ねていって、その幅で高さを測るのね」


 空を囲うように輝く線は、どこまでも青く澄んでいた大気を上下に分ける境界線。だが太陽が完全に沈むと、空は全面真っ暗になる。そうなってしまうと、星がどこからどれだけ昇ったのか測りようもない。


「なるほどー」


 説明を終えると少年は深くうなづいてくれた。が、質問は終わらなかった。


 そのまま流れるように、無垢むくな好奇心は舟底に広げられた木の枝へと向かう。


「じゃあ、これは?」


「空図よ」


「クウズ……空のどこに何があるか描いた絵?」


「そう」


 星の測り方の次は空の渡り方だ。


 ヒタクに付き合う形で、アヌエナは一緒にしゃがみ込む。


「この貝殻が浮島うきじま……いえ、今の場合は空の森ね。で、こっちに並べた枝が風。向きと強さに応じて組み方を変えてあるわ。周りに置いた小石は星で、方位を示してるの」


 日、月、星。


 天体の動きと季節ごとの位置は全て頭の中に入っている。それこそ、昼間でも星の位置が分かるぐらいに。月の満ち欠けから割り出した日付と突き合わせれば、蒼球と言われる青空の真っただ中にあっても、おおよその方角は判断できるのだ。


(太陽を起点に、その季節の星座を想定して仮想の星を目印に航行。夜に実際の星を観測して針路を補正。この時、風の向きと強さも考慮に入れながら空図で……って言って、分かるかしら。でも一から教えるのもねえ)


 だんだん面倒になり、アヌエナは大雑把な解説で済ませることにした。


「で、こうやって夜に位置を確認して、昼に島影を探すのよ」


「おお……!」


「西へ行けば赤道大陸にぶつかるのは確実だからね。あと一日、空を探して成果がなかったら、風に乗ってそっちへ向かうつもりだったの」


 探険にせよ交易にせよ、旅で真に重要なのは目的地に着くことではなく、いかに無事に帰ってくるか、だ。


 これまでに行われてきた世界樹探索は、赤道を吹く東風に逆らう形で空を進み、成果が上がらないとそのまま風に乗って帰ってきた。これが逆だと、航空機の燃料が尽きれば最後、風に流されて戻ってこられなくなる。


 だがなにも、行きと帰りが同じである必要はない。


 そう考えたアヌエナは、まずウラネシア最東端の島で航空の準備。そこから低緯度の空域に吹く北東風を捕まえ一気に南下。赤道に達したところで西向きに進路を変え、風に乗って空の樹を探したのだった。


(我ながら上手くいったわ。赤道大陸から出発するより距離を稼げるし、何より往復はしないから行程に無駄がない。わたしってば天才! 後はこのまま、クロロネシアへの航路を完成させれば――)


 天人の遺産を独占できる、その日を思うと心の奥深くから笑いが込み上げてくる。


「どうしたの? 急にニヤニヤして」


「な、なんでもないわよ。なんでも」


 頰が緩むのを止められず、アヌエナは空図を片付けるふりをして顔を隠した。


「じゃ、さっさと食べましょ。明日も早いんだし」


「うん。あ、座ってていいよ。こっち持ってくるから」


 気を利かせたのか、ヒタクが軽く笑って帆柱の前に並べた料理を取りに戻る。


 その素直な振る舞いは、善良な人間そのものだ。赤い森で見せた行動力や積極性は微塵も感じられない。


「なんか……気が抜けるわね」


 なんとなく、カグヤの気持ちが分かった気がした。


――――――――――――――――――――


 それから、何事もなく空の旅は進んだ。


「雨が来るわ。進路変更、踏みかいお願い!」

「え? わざわざ雨雲の下に行くの?」

「貴重な水を補給できるチャンスだからね。ブラシを掛ければついでに掃除もできるし」

「ああ!」

「口じゃなく足を動かす!」

「はい!」


「風が止んだわ。あんたの出番よ」

「ちょっと待って。昨日の疲れが取れてないんだけど」

「男でしょ。筋肉痛ぐらい気合いで何とかしなさい!」

「あう」


「お茶がぬるーい!」

「ごめん……って、お湯を沸かしたのは君でしょ!」

「クワー」


 あくまで、舟の航行に危険が及ぶようなことは何も。


 だが空の森を旅立ってから七日目、事件は起こった。

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