4-8 到達

 宙を泳ぐ魚と格闘すること小一時間。


 空はようやく平穏を取り戻した。


 だが少女の機嫌は戻らない。


「んっとに信じらんない。女の子より鳥の心配するなんて」


「いやでも、舟までかじられるとは思わなかったから」


「なによ。言い訳するつもり?」


〈ブンブン〉


 じろりとにらまれ、少年は思わず首を振る。


「まったく。危うくお尻から食べられるところだったじゃない。服が破ける前に追い払えたから良かったものの」


「ごめんなさい」


 しばらくの間ヒタクを責め続けていたアヌエナ。だが風魚かざなの暴走はやはり気になるようだ。顎に手を当てながら思案気につぶやく。


「にしてもおかしいわね。風魚かざながこんな上まで来るなんてまずないのに。それがあんな大群で押し寄せてくるなんて」


下空かくうで何かあったのかな」


 ぼやくような彼女の疑問を聞いて、ヒタクは空の底をのぞき込んでみた。


「あれ、なんだろ?」


 青く濃い大気の奥で、何かが光った。


 しかしそれは一瞬だけで、目を凝らしても形のはっきりしない影しか見えない。どうやらかなり深い層にいるようだ。もし、その何かが太陽の光を反射して光ったのだとしたら、結構な大きさであることは間違いない。横で同じように下の空をのぞいていたアヌエナが、顔をしかめながら呟く。


「……軍船ね」


「え?」


 想像もしなかった言葉にヒタクは驚いた。思わず少女の横顔を見るが、彼女は振り向くことなく解説を続ける。


「さっきの光は自然のものじゃない。日光の反射で、あの影は間違いなく金属製の人工物よ。けど飛行船にしても飛行機にしても、下空かくうを航路に選ぶ航空機なんてまずないわ。この舟みたいな、ウラネシアで使われてる飛舟とぶねも含めてね」


「そうなの?」


「地上から飛び上がって下空かくうまで降りて、それからまた上昇して目的地で下降――なんて馬鹿げてるでしょ。燃料いっぱい使うもん」


「なるほど」


「とはいっても、下は上と違う風が吹いてることが多いからね。流れさえ把握できれば何かと便利なのも確か。赤道付近でも今の高度は東風が吹いてるけど、下層になると西風に変わるのよ……って言っても詳しいことは分かってないから、こんな帆掛け舟じゃ利用できないんだけどね」


「ふんふん」


 ヒタクにも思い当たる節がある。七年前に空を漂流した時、いつのまにか気球の進路が変わっていたのだ。あれは夜のうちに高度が下がりすぎて、兄も気付かないまま西風に乗ってしまったのだろう。


「で、そんな深い空を航行できる大型かつ耐空性に優れた航空機って言ったら、軍用の飛行船しかないってわけ。きっと、魚は調査の邪魔だからって群れごと追い払われたのよ」


「それは分かったけど……。なんでそんなおっかない船がこんな所に?」


「だから、下空かくうの調査でしょ。軍人さんとしては、空の隅々まで知っておききたいんじゃないの? いつどこが戦場になるか分からないんだから」


「……」


 平和な空しか知らない少年は言葉を失った。だが少女の方は自身の思考に没頭しているのか、独り言のように呟き続ける。


「ったく人騒がせな。一体どこのニワトリよ、って六ツ星しかいないか。なによ我が物顔で飛んじゃってさ。ほんっと気にくわないったら」


「アヌエナ?」


「……なんでもないわ」


 ヒタクが声をかけると、ようやく彼女は頭を上げた。軽く手を振って話を打ち切り、陽炎かげろうに揺らめく前方を指さす。


「それよりも、ほら! 目的地が見えてきたわよ」


「え! どこ?」


「あそこ。うっすらとだけど、山の影が見えるでしょ」


「あ! ほんとだ」


 よく目を凝らして見ると、濃い青の大気の中にぼんやりとした波形の陰影が浮かんでいた。山脈の峰であろう、その波頭の一部がヒタクはどうにも気になった。


「あの一番高い山……。上の方が白いけど」


「え? ああ、あれ。よく気付いたわね」


 アヌエナが感心しながら教えてくれる。


「あれは氷河よ。熱帯でも、標高五千メートル近くまで上がれば雪が降るぐらい寒いの。んで、降り積もった雪が溶けずに固まって、氷の河になって流れてくってわけ。あ、雪って知ってる?」


「うん。……って雪!?」


 予想外の答えに、少年は驚いた。


 自分の生まれ育った故郷は温暖で、冬はあるが雪の降ることはほとんどない。知識として知ってはいるが実際に見たことはなかった。さらに今は熱帯の森で暮らす身、きっと生涯を通して縁のないものなのだろう。


 そう思っていたのに、まさかこんな常夏の島で目にするとは。


「ね、ね。この舟であそこまで行けないの?」


「そりゃ行けないことはないけど……行ってどうするのよ? ただ白いだけじゃん」


「ええー!」


 定期的にこの地を訪れる少女にとっては、雪化粧をした山も見慣れた風景に過ぎないらしい。彼女の素っ気ない態度に、ヒタクは不満と驚きの声を上げた。思いがけず訪れた機会を諦められず、興奮に駆られるまま詰め寄る。


「雪だよ雪! そうそう降るものじゃないんだよ! 行けるのに行かないなんてもったいないよ!」


「ああうるさい。そんなに見たいんなら自分で行けばいいじゃない。ご自慢の羽はどうしたのよ」


「! 高速展……」


「あ、こら! ほんとに行くなっ!」


 などと言い合っているうちにも、島の様子がはっきりと見えてきた。日当たりが良いからだろう。浮島うきじまの端、空との境界である切り立った崖にも、樹木が覆い尽くすようにして茂っている。そしてその緑の隙間から、あふれ出るように流れる幾本もの白い筋。


「滝だっ。滝が流れてる!」


「はいはい。すごいわね」


 興味が移ったのを幸いと、アヌエナはおざなりに返事をして操帆作業に戻った。ヒタクも生まれて初めて見る光景に釘付くぎづけとなり、食い入るように地上を眺める。


「すごい……。川があんなにたくさん」


 木々の合間を縫って流れる何本もの川。網の目のように走るその模様は、故郷のような小さな島ではありえない。思わず見とれていると、今度は別の方向へ注意を促された。


「下もいいけど、少しは前も見なさい。こっちも壮観よ」


「え?」


 顔を上げると、自分たちと同じように飛ぶいくつもの影が目に入った。


 帆を掲げ風に乗り行き交う飛舟とぶね


 球皮を膨らませ大気に浮かぶ気球。


 くうを切り森の上を舞う飛行機。


 そして――。


「あ! 飛行船だ。大きいな」


「え? どこ……げ! 六ツ星がいる」


 遠目に見ても圧倒されるほど巨大な船が、緑の海の彼方かなたに浮かんでいた。


 その威容は圧巻の一言に尽き、付近を飛ぶ航空機がまるで小鳥のようだった。陽光を受けて鈍く輝く流線形のシルエットも相まって、大岩が飛んでいるかのような錯覚を覚える。


「むつぼしって?」


「ここよりもっと西の、赤道大陸を治める国、エクアトリア連邦のことよ。ほら、あそこ。赤道六星が描いてあるでしょ」


「あ、ほんとだ」


 アヌエナの指し示す先を見ると、飛行船の船尾に旗が掲げられていた。


 そこには紺を下地に、白い六つの星が描かれている。いびつな六角形をなす配置は確かに、空平線の真東から登り真西に沈む赤道六星だ。


「あいつら無駄に偉そうだから嫌なのよ。なんかひょろいし」


「ひょろい?」


「あー、ひょろりとしてて背が高い割に細いってこと。ずっと船に閉じこもってるからそうなるんだわ。いくら空調完備だからって、交易の時ぐらい外に出なさいっての」


 毒を吐くように言い捨てて、アヌエナが帆柱を見上げる。


「ま、あいつらがどこにいようと関係ないわ。わたしたちは舟着き場へ行くわよ」


「舟着き場? ああ、飛場とばのこと?」


 航空機の発着場のことをウラネシアではそう呼ぶのか。


 自分なりに見当をつけて確認すると、短く素っ気ない声が返ってきた。


「すぐに分かるわ」


 大気の流れを読み、帆で風を捕らえようとするその目は真剣だ。これ以上、彼女の集中を妨げるのも悪いだろう。ヒタクは大人しく景色を眺めていることにした。


「……あ」


 鬱蒼うっそうと生い茂る森の向こうで、白い輝きが揺らめくのが見えた。複雑に蛇行している川が、密林の奥で陽光を照り返しているのだ。さらにその先では深い緑が開け、澄んだ青が一面に広がっている。


 湖だ。


 それも水平線ができるほど広大な。


 どうやらあそこが、空を渡る旅の終着点らしい。

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