フィナーレに向けて②

 八月十三日。午前三時四十五分。


 私立杵憩舞高校天海島校舎西館南体育館。


 ウェアに着替え、軽くアップをする。借りたシューズの底を掌で擦る。滑り止め効果を最大にするこの行為はバレー部時代のルーティン。凍えた体育館を照明が優しく照らす。この先の未来を照らす篝火としては、いまいち何かが足りない。必要なのは本気で未来を変えようとする気持ちだ。心強い仲間がいる。大丈夫と自分に言い聞かせる。


 体育館中央、そこにバレーボール用のカゴが一つ。中にはたくさんのバレーボール。好きなメーカーでちょっと安心。大きさは五号なので中学で使っていた四号よりも大きい。大丈夫、なにせ練習で五号ボールを使っていたから。


 と、そこへ。教官室から寺坂顧問が出てきた。薄いウインドブレーカーを羽織った姿は貫禄があって圧倒される。顧問とはこういう存在だ。


「顧問に挨拶! おねがいしまーすっ!」


 バレー部新城が挨拶した後、我が陸上部も続く。みんな、あろうことかウェアに着替えてくれた。その心意気にただただ、感謝。


「よし、いったん集合だ」


「はいっ! 全員集合!」


「はいっ!」


 寺坂顧問の合図で横一列に並ぶ。全員の顔を一瞥してから顧問が口を開く。


「これよりいのかみ君の特別指導を行う。他はボール拾い。声でも出して盛り上げろ。いいな?」


「はいっ!」


「いのかみ、準備はいいな?」


「はいっ! よろしくお願いします!」


「よし。じゃあ早速始める」


 特別指導が幕を開けた。


 寺坂顧問はゆっくりとカゴに近づく。


「さあーー、元気出していきましょうーっ!」


「はーーーーーーいっ!」


 バレー部陸上部連合軍の声援が体の芯まで響く。これはエライことになりそうだ。しばし心を無にして目の前の練習に集中しよう。


「よし、構えろ!」


「はいっ!」


「……いのかみっっっ!」


「はい!」


「姿勢が高い! そんな姿勢で前のボールどうやって上げる気だ? こういうの」


 ボールが一つ前に上がり、落ちる。


「はい……!(姿勢を低く!)」


「ばかたれ! 拾えよ! 目の前でボールが落ちるのを見ているバカがどこにいる!」


「はいっ!」


「よし、いくぞ!」


「上げろ!」


 ストレート。これは軌道が読める。


 ボールは綺麗に放物線を描く。カンは鈍っていないようだ。


「おおい! 上がったら何か言えよ! わかんねぇえだろうが!」


「あ、はい! 上がったぁ!(しまった! 忘れてた!)」


「声が小さい!」


「部長! ファイ!」「おいおいまだ始まったばかりだぜぇ!」「いのかみぃぃぃぃ! 負けんな!」


 ストレート! 「上げろ!」レシーブ! 「上がった!」


 高め! 「上げろ!」オーバーハンドで処理! 「上がった!」


 ストレート無回転! 「上げろ!」膝をついて処理! 「上がった!」


「フェイントー!」すかさずフライングレシーブ! 「あが、……ったあ!」


 次にステージに向かっての大きなフライ! え? フライ?


「つったってんじゃねえよ! 飛び込めよお!」


「はああい!」


 既にボールは落ちているがフライングレシーブをして誠意を見せる。これがバレーボールにおける理不尽なしごきだ。中学時代がフラッシュバック。汗で濡れたウェアで飛び込むこの行為の別名、ぞうきんがけ。


「いーのかみ!」「いーのかみ!」「いーのかみ!」「いーのかみ!」「いーのかみ!」視界の端でボールをひたすら拾う誰か。彼ら彼女らも頑張っている。全部俺のせいだ。


「おらおらおら! 前にボールが落ちるぞお!」


 顧問の目の前にボールが放たれる。


 うおおおおおおおおおおおおおおおお! フライング!


「あ、がっ」


「上がってねえよ! 嘘つくな!」


 背中にボールが当てられる。圧倒的理不尽の塊。「さあさあ! 元気だしてーいきましょう! そーれ!」「いーのかみ!」「ファイ!」「いーのかみ!」「元気な声が聞きたいなあ!」


「はーーい!」


 立ち上がり構える。飛んでくるスパイク。


 それはこの先出会うであろう困難。それを受け止めるレシーブ能力が俺にはある筈だ。


「上げろ!」「上がった!」


 フェイント。敵は一直線とは限らない。あの手この手で俺を苦しめる。


 それがどうしたと踏ん張る。俺には夢がある。こんなところで――。


「あ、がっ」


 あと指一本分、届かない。どんなに近かろうがそれは届かないのと同じ。結果が全てだ。


「いいのか! これでいいのか!?」


「いいえ!」


「お前の夢はこのボールみたいに簡単に落ちちまうものなのか!?」


「いいえっ!!」


「なら落とすな! 最後まであきらめるな!」


 放たれるボール。それが残像のように無数に見える。どれが本物でどれが偽物かわからない。どのボールを俺は追うべきなのか。


 それは千の分かれ道。やり直しがきかない人生の岐路。バレーボールは人生の縮図だ。


「おい! 脚が止まっているぞ!」


 いつの間にか脚が重く、それは動くことを拒む。そうして片膝をついた状態で、一直線のボールが迫る。


「……上がったぁ!」


 その軌道を読み、レシーブ。ボールは高々と寺坂顧問の頭上へ。そして放たれたのは、前へ落ちるドライブボール。前へ飛び込んでレシーブをすれば十分なのに――。


 バシッ――と。ボールは勢いよくワンバウンドして頭に当たる。その衝撃で尻餅をつく。脚が小刻みに痙攣をしていた。


「よしっ、終了」


 そこで、顧問が試合終了を告げた。


「片付けして、少し休憩。ダンスの用意」


「ボールバックー!!」


「はいっ!」


 顧問はそれだけ指示して教官室に引っ込んでいった。最後のボール。数回、小さくバウンドして止まった。俺はこのボールのことを一生忘れないと誓った。大人になって、このボールを上げにまたバレーボールを始めるんだ。

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