第9話
いまだに凛はテーブルに突っ伏していた。
怒涛のように押し寄せるボケの数々に飲み込まれ、どっと疲れが凛を襲う。酒席で酒以外に呑まれるとは予想だにしなかった。
複数のボケに対して、ツッコミは1人というまさに四面楚歌。受難とはよく言ったものだ。
文系の集まりなだけあり、ボケの引用元も文学、宗教、芸術と多岐に渡る。
(ボケを回収する身にもなってほしい。というより、なぜボケを回収しなければならないという錯覚にとらわれていたのだろうか)
テーブルのひんやりとした感触がなんだか心地よい。身体から生じた熱が緩やかに抜けていくようだ。
飛んでくる様々なボケに対し、記憶の中に眠る知識から適切な情報を汲み上げ、切り返しの言葉を組み上げるという作業に脳をフル回転させていたのだ。凛の脳に負担をかけるのには十分だった。
「ほら、新歓は始まったばかりだぞ。寝てる暇はないぞー」
優愛がゆっくり休ませてくれるはずがなく、頭をわしゃわしゃと撫で回し始めた。その手を何とか払い除け、乱れた髪を整えて仕方なく身体を起こした。
それじゃあ、と、席替えをはじめた。
「一旦落ち着いたところで改めて、席替えしたいと思いまーす。とりあえず優愛先輩と加藤くんを先頭に各列奇数の位置の人同士入れ替わってください。新しく隣同士となった人と話してみましょう。そのあとは様子をみて自由に移動してもらって構いません」
凛は新たに真姫奈と天音の間に座っている。優愛や菫に比べ、真姫奈と天音との絡みは初めてだ。真姫奈は顔を一度合わせただけでちゃんと話しておらず、天音に至っては今日が初対面。
ふたりの先輩に挟まれる形となった凛。真姫奈は時雨と趣味が同じ美術好きということでなんだか盛り上がっている。なので、まずは天音とチェルシーの方に混ざることにした。
「磐見先輩、チェルシーさん俺も一緒にいいですか?」
「よっ、よろしくお願いします」
普段からあまり人と接するのが苦手な天音は新入生たちと話すのに緊張していた。
「よろしく、リン!」
天音とは対照的にチェルシーはフレンドリーだった。
「彩峰くんはノリがいいね。みんな楽しそうだった」
「それにリンは博識だね。咄嗟にあんな色々返せるのすごいよ!」
まさかのベタ褒めとは。先程のツッコミの数々で凛の株が急上昇したようだ。褒められたことが何だかこそばゆく、頬をかいた。
「ありがとう。でもチェルシーさんはめちゃくちゃ悪ノリしてたよね?」
「?」
「いや、何がみたいに首傾げてもバレてるぞ?受難の件とか、ハラキリも、ニーチェも、祈り出したのもな」
可愛く小首を傾げるチェルシー。そんなチェルシーに先程までのやり取りの中で彼女に関わった場面を列挙していく。
「リンはヨーロッパに興味があるの?西洋哲学やキリスト教関連もしっかりクリアしていたでしょ」
「やはり、お前か」
「おっと、ニホンゴムズカシイ」
「出たな!外国人特有の逃げ口上。さっきまでペラペラだったよね。まったく」
何だかチェルシーと優亜は似ている気がした。話していると何故かツッコミに回る羽目になるのだ。相手をからかったり、ボケたりするのが彼女たちなりのコミュニケーション方法なのだろう。ふたりとも距離感がバグってるような気がするが、こちらもあちらも会ってすぐからこんな感じなのだ。
「でも、一年生で色々知ってるのは結構すごいかも。私はニーチェも聖書の内容も大学生になるまで知らなかったよ」
少し喧嘩のように見えたのか、話題を変えるように天音は言った。
「まぁ、漫画やアニメからの知識なのでそんな大層なものでもないですよ」
「それでも知識があるのはやっぱりすごいと思うな」
「ありがとうございます。俺、ちょっと御手洗行ってきます」
「どうぞ、行ってらっしゃい」
「いってらー」
ひらひらと手をふるチェルシーと天音に見送られながら凛は席を立った。
◇◇◇
凛がトイレに立った頃、 時雨は真姫奈と好きな絵画の話で盛り上がっていた。
「鷹藤先輩、美術館で何を見るのが好きなんすか?」
「私は西洋絵画が好きかしら。加藤君は?」
「難しいっすね。絵も彫刻も好きですし、芸術全般好きなんすよ」
「それは良いわね。どんなジャンルでも楽しめるってことね。ちなみに美術に興味を持ったきっかけは?」
「昔、中学のときに親にイギリスに連れてってもらったんですよ。んで、そのとき大英博物館とかナショナル・ギャラリーに連れてってもらって見たギリシャ彫刻とかゴッホのひまわりが衝撃的で、色使いとか筆の線だったり力強さとか。何千年も前にこんな精巧なものを作れるんだとか。それが忘れられなくて、ゴッホの事とか印象派のこととか彫刻のことを自分で調べたり、展覧会見に行ったりするようになったらどんどんハマって」
「私もナショナル・ギャラリー展に行ってひまわりを見たわ。色彩、存在感、全てを言語化するのは難しいけれどゴッホがひまわりに抱いた憧れの様なものを感じた。素晴らしい絵画よね」
「ですよね。解釈は人によって違うとは思うんですけど、太陽に向かって凛と立つ姿にゴッホは自分の在り方を想像してたんじゃないかなって。堂々と胸を張って生きるみたいな」
「私はこうも思うの。ゴッホはひまわりのように生きたかったのではないかって。日を浴びて、咲き誇るひまわり畑。画家として輝き、仲間と寄り添いながら芸術を語り合う。そんな生き方の理想としてひまわりを愛したのではないかしら」
「なるほど……。理想の人生ですか」
「何だか意外。加藤君とこんなに美術の話で盛り上がるなんて」
「やっぱり、似合わないですかね?」
「そんなことない。好きなことについて話せるのは嬉しいから。ゴッホがゴーギャンとの日々を大切に思っていたようにね」
「最後は喧嘩別れするんすけどね」
「ふふ、そうね。加藤君も言ったように解釈の違いや価値観の違いで意見が別れることはあるかもしれない。でも、それは芸術が好きだからこそ。だから、芸術が理由で嫌い合うなんてことはないわ。もっときっと別の理由。ゴーギャンだって、ゴッホだってそう。芸術のせいじゃない。ふたりは別れた後も絵を描き続けたのだから」
「そうっすね」
なかなか同好の士は今まで現れなかったため、真姫奈はこうして絵画について話せることが嬉しかった。それはまた時雨も同じで、賢人会に入った甲斐は十二分にあった。
「加藤君、よかったら今度一緒に展覧会見に行かない?」
「それはデートのお誘いっすか!?」
「ふふ、そうね。デートと言えば、デートね。でも、あんまり勘違いをするとお別れの理由になってしまうかもしれないから気をつけてね」
「ぐっ、なかなか痛いところを突きますね。了解っす」
「ふふ、よろしい。でも、未来は分からないものね。ゴッホの絵画がこんなに脚光を浴びることになるなんて誰も想像しなかったみたいに。ゴッホ本人も含めてね」
「く〜。先輩、その言い方はずるいっすよ。可能性があるみたいにきこえるじゃないっすか!そうやって幼気な男子を惑わせて、楽しいっすか?」
「楽しいかも。それに私は可能性は決してゼロにはならないという話をしただけよ。それが清浄の位だとしても」
「清浄ってどれくらい?」
「10のマイナス21乗よ」
「それは限りなくゼロでは?」
「限りなくゼロでもゼロではないわ。そうでしょう?」
「まぁ、確かに。とりあえず、恋愛的なことを先輩に求めたければ頑張れってことっすね」
「そういうこと。別に加藤君のことが嫌いとかではないのよ。むしろ、趣味が合って話せて好ましく思っているくらい。でも、それはあくまで同好の士として、あるいは先輩後輩としてということ。こういうことは線引きをはっきりさせておいたほうがお互いのため。せっかくできた趣味友をくだらない理由で失いたくないもの」
「そう思ってもらえるのは、光栄っす!俺でよかったら、是非色々美術館とか巡って話しましょう!」
「ありがとう。趣味友が出来て嬉しいわ」
こうして、時雨と真姫奈は共通の趣味によって距離を縮めていた。
◇◇◇
凛が御手洗に立つと店内にはやはり多くの翔陽大生の姿があった。あちらこちらから笑い声や歓声が聞こえてくる。皆、新歓なのだろう。どこも盛り上がっている。
御手洗も男性の方はそうでもないが、女性の方はかなり混んでいた。用を済ませた帰りがけも何人かの翔陽大生のグループとすれ違った。時雨なんかはサークルの掛け持ち予定なので、他の新歓にも顔を出すのだろう。サークル事に評判があり、中にはあまりいい噂を聞かないところもある。
その点、賢人会は変わったサークルだが良いサークルといえた。アットホームで先輩たちも優しく、一年生も話していて問題はない。きっと上手くやっていけるだろう。
凛が戻るとチェルシーが手を挙げた。
「おかえりー」
「ただいま」
凛もそれに軽く手を挙げて応じると、天音もおかえりと手をふる。凛が居ない間に天音はそれなりにお酒が進んだようで顔がほんのり赤くなっていた。天音はどうやらお酒を飲むとアガるタイプらしく、先程までの緊張した姿が嘘のように明るい。
「彩峰くん、おかえりなさい」
「ただいまです」
「磐見先輩、呂律が回ってないですけど大丈夫ですか?」
「大事ない。らいじょうぶ。今、チェルシーちゃんとお話してたんだけど、彩峰くんは彼女いるんですか?」
だいたい大丈夫という人は大丈夫ではないのだ。出来上がってきている天音は呂律が若干怪しいことになっている。どうやら天音とチェルシーは恋愛トーク、いわゆる恋バナに花を咲かせていた様子で凛の恋愛事情が気になったらしい。
「いませんよ。お恥ずかしながら、まだ付き合ったこともないです」
チェルシーかジンジャーエール片手に凛の恋愛話に興味津々といった感じでやってきた。全ての女子がそうなのかは分からないが、チェルシーにとってこの手の話題は蜜らしい。
「じゃあ、じゃあ、好きな人や気になる人はいないのですか?」
「今のところは」
「え〜、つまんない!」
「そう言われてもなぁ」
凛の答えに明らかな不満を示すチェルシー。気になる人という質問にいくつか浮かんだ顔もなくはないが、それを明かすのは躊躇われた。
「それじゃあ、賢人会の中なら誰がタイプ?みんな美人ですよ?」
「それは……」
なかなか難しい質問に言いよどむ。レベルが高いなんてものではない。大学でもトップクラスで間違いない。
「誰がタイプか私も気になるなぁ」
チェルシーだけでなく天音もそんなことを言い出した。天音からの援護で、チェルシーの視線が期待に満ちていく。2対1と凛が圧倒的不利な立場だ。助けを求めてもまわりに味方はいない。
「みんな美人だから一人にしぼるのは難しいんだけど。ぶっちゃけ賢人会のメンバーだったら、だれでも付き合えたら嬉しいというか、舞い上がるレベルなんだよなぁ」
「う〜、それは確かに。でもなんか上手くはぐらかされたっぽい?」
「そうなんれすか?」
チェルシーも天音もいまいち納得いかないというふうだが、これも凛の本心なので仕方がない。嘘をついているわけでもないので、納得してもらうしかない。
これ以上この話題を続けるのはよろしくないので、凛は話題の方向性をふたりに向けることにした。
「ふたりは彼氏いないんですか?」
凛にとってはこちらの方がはるかに気になる。
「半年前に別れました」
「ハイスクールの頃はボーイフレンドがいたよ。でも、イングランドから日本の大学に来たからお別れしちゃった。だから、今は特定の人はいないよ?日本ではなんていうんだっけ?ダンナ募集中?」
「カレシ募集中って言いたいのかな」
「それ!」
天音もチェルシーも今は彼氏がおらず、フリーだという。
大学生になると高校生の頃とは環境が大きく変わる。高校の頃からのカップルはその変化を乗り越えられるかで将来が決まったりする。物理的距離と心理的距離をうめる大切な何か。それを見つけなければならないのだ。
ふたりならいつでも彼氏くらいできそうではあるが。
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