彩峰凛は基本的に早起きなのだが、今日は大学初日ということもありいつもより早く目が覚めた。枕元に置かれた時計の時刻は日の出から間もない午前５時３５分を指していた。

アラームを設定した時間より大分早い目覚めだ。やはり緊張があるのだろうか。

何気なくスマホを開くと朝のネットニュースに並ぶのは芸能人の結婚報道だったり、事件事故といった有り触れた内容だ。スマホに表示される幸福も不幸も自身との関わりは薄く、特に気にも留めることなく、流し見していく。

今、凛にとって重要なのは数時間後に控えた大学初日。そしてそこで行われる新入生ガイダンスである。

早起きしたからといってあまりもたもたしていると二度寝という甘い誘惑に誘わられる可能性があるので、完全に覚醒するためにもシャワーでも浴びるかと衣装ケースから着替えとバスタオルを取り出し、それらを手に浴室へと向かった。

◇◇◇

凛の部屋は八畳程度のワンルームだ。キッチンが付き、トイレと風呂は別れている。学生向けの物件としては比較的好条件の物件だろう。引越しが完了してまもないため、まだいくつか開けていないダンボールが転がっているが家具などもあまりないため、閑散とした印象となっている。

それでも自分の希望を踏まえた物件を選び、家賃や大学費用だけでなく、家具や生活雑貨の追加のために安くない仕送りをしてくれる両親には感謝しなければならない。

父はカメラマン、母は大学の研究員として共に忙しく、なかなか家族で過ごしたという記憶は少ないが、凛の希望は極力叶えてくれる優しい両親だと思っている。

両親共にやりたいことに生きているタイプの人たちなので、常々好きなことを一つでいいから見つけなさいと教えられ、育てられてきた。これがと胸を張れることはまだないが今日はそんな好きを見つけるための第一歩となる予定なのだ。緊張もするし、気合いも入るというものである。

シャワーを浴び、スマホを確認すると6時を過ぎたあたり。ガイダンスが始まるのは９時なので、余裕を見て7時半には家を出たいと思いつつ、冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を一気に飲んだ。

｢教科書なんかも買わないとな。あとは必修以外の授業も選んで、時間割も決めないと。時雨は……あんまり当てにならな気がするから、スミにでも聞いてみるか｣

サラッと時雨に対して失礼なことを思いつつ、やらなければならないことを指折り数えていく。

外では車の行き交う音や鳥のさえずりが響きはじめていた。人々が起き出し、動き始める音。本格的な一日の始まりを告げる朝の喧騒が凛の耳にも届き始める。

◇◇◇

割と余裕を持って家を出たはずだが、通勤通学時間と重なり、最寄り駅である白崎駅はなかなかの混み具合である。白崎駅はさほど大きい駅でもないのだが、翔陽大学やその附属中高が近くにあることもあり、それなりに利用客は多い。

それに伴いこの時間はやはり混雑するのだ。凛もまたスマホ片手に大学方面へと向かう電車を待っていた。

一限目などがある時は一駅だけなので歩くか、自転車を買って通学したほうが楽かもしれないなどと考えていると、昨日の帰りの出雲とのドライブを思い出して少し耳が熱くなるのを感じた。

昨日の自分はオトメ的なポジションで、出雲がイケメンすぎた。理想は逆で出雲が後ろに乗っている姿だ。

｢バイトしてバイク買うか……｣

そんな凛の独り言は虚しくホームへと進入してきた電車の音によってかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。

◇◇◇

大学に着く前、朝食でも買おうとコンビニに寄るとやはり混んでいる。学生にサラリーマン、よく分からないおっさんなどで店内は賑わっている。人を掻き分けなんとかサンドイッチ1つにコーヒーのボトルを確保し、レジへと向かう。やはりというべきか2本のレジがフル稼働しているにもかかわらず、各レジに5人前後の列が出来ていた。今日はかなり余裕を持って家を出たからいいが、普段は厳しいなと思いつつ列に並ぶ。会計を済ませたころには8時を回っていた。

大学に近づくにつれ、おなじ新入生であろう姿が見え始める。眠そうな者、緊張してそわそわする者、友達と談笑する者など、色々だが一様に表情は明るい。恋に勉強にと新生活のスタートにみなそれなりの希望を抱いているであろうことが伺い知れた。

社会学部のガイダンスは学部棟の大教室で行われる予定だ。大教室は学部A棟の１階にあるらしく、すでに人が集まりつつあった。

教室中央後方に席を確保した凛は、事前に配布されている資料に軽く目を通しておくことにした。

ガイダンスでは大学に通う上での基礎的なことを説明してくれる。大学生活とはみたいなことから、必修科目や専門科目などについてや履修登録の方法についてなど具体的なことまでだ。

そんなガイダンスのガイダンスのような内容を見ていると、誰かに肩を叩かれた。顔を上げるとそこには昨日、初めて出会い、行動を共にした加藤時雨の姿があった。

軽くのつもりがつい資料に夢中になってしまったらしい。いつの間にか隣りに陣取っていた時雨にまったく気づかなかったのだ。

｢おっす。昨日ぶり。ちゃんと来て偉いな。うん｣

｢おーす。よく遅刻しなかったな。いや、来ないかと｣

｢まぁ、余裕｣

たった一日の付き合いのはずだが互いに自然とウマが合う。あいさつ代わりの軽口を叩き合い、他愛もないやり取りを繰り広げているうちに白髪混じりの５０代くらいだろうの男性が姿を見せた。このガイダンスを進行する教諭らしい。騒がしかった新入生たちの視線が自然とその男性教諭に集まり、静かになっていく教室。社会学部新入生ガイダンスは時間通り開始された。

◇◇◇

ガイダンスはつつがなく終了し、時間は昼へとさしかかろうかというところか。大教室を後にした凛と時雨は昼食の相談の真っ最中だった。

｢昼はどうする？学食はまだやってないしな。どっか食べに行くか。コンビニでも行くか｣

凛には特にこだわりはなかったが、さすがに家まで戻るのは面倒なので、この辺りで済ませておきたかった。

｢なら、うちのアパートの近くに生徒もよく行くっていう喫茶店があるんだわ。見た感じ値段も学生向けでさ。そこ行ってみね？｣

確かに学生向けに商売してるお店なら値段も高すぎるということもないだろう。まだこの辺りの地理に明るいとは言えない凛は、時雨の提案に乗るかたちでその喫茶店とやらに向かうことを了承した。

歩いて1、2分の場所にその喫茶店はあった。

辿り着いた喫茶店の看板にはmiyaとあった。白く塗装された外壁に這うようにアイビーが絡みつくなんともオシャレな雰囲気だ。

扉にはOPENの文字があり、扉を開けると内装もこれまたオシャレだった。まず目を引くのは廃材を利用して作られたであろうカウンターだ。所々に配置された観葉植物に、天井に設置されたシーリングファン。落ち着いた空間づくりがされ、何とも居心地が良さそうだ。

入るとすぐにロマンスグレーといった雰囲気のマスターが笑顔で声をかけてくれた。

｢いらっしゃい｣

促されるままにカウンター席に腰かけると、レモンの香りが爽やかなレモン水が2人分グラスに注がれ、おしぼりと一緒にカウンターテーブルに置かれた。

凛と時雨以外にはまだ誰もいなく、響くのはマスターの足音とゆったりと流れるカフェミュージックだけ。

｢こちらが今日のランチメニューです。決まったら声をかけてください｣

笑顔でメニューを手渡してくれたマスターにお礼を言って、二人はメニューに目をやると、どうやらイタリアンがメインらしい。パスタやドリア、ピザなど定番的なものが並んでいた。

今日のおすすめは魚介メインのペスカトーレとボンゴレ・ビンゴだった。

その他にもナスとひき肉をメインに唐辛子の効いたアラビアータ。

チーズとベーコンを黒胡椒で仕上げたシンプルなカルボナーラ。

メニューに載る料理の写真はどれも美味しそうで目移りしてしまう。値段は700円から800円くらいでとてもリーズナブルだ。

｢時雨は決まったか？俺はおすすめのペスカトーレにしてみるわ｣

｢うーん、悩むな。カルボナーラもアラビアータも美味そうだし｣

時雨はかなり悩んでいた。その気持ちは十二分に理解できた。本当にどれも食べてみたくなるのだ。密かに通うことを心に決めた凛はスマホをいじりながら時雨が決まるのを待つ。

｢決まった。すみません。注文お願いします｣

悩み抜いた末に時雨が選んだのはカルボナーラだった。食後のコーヒーと共にそれぞれ注文を済ませ、メニューを渡すとマスターはにこやかにそれを受け取ると料理のために奥へと去っていく。

レモン水の入ったグラスに口をつけると爽やかな清涼感が口いっぱいに広がり、鼻へと抜けていく。一息つくと、店の雰囲気を楽しむかのように二人の間にしばし、無言の時間が流れていく。

しばらくすると何とも食欲をそそる匂いが厨房から漂い始めた。料理が完成したのだろう。案の定、マスターが料理を片手に現れた。

トマトと魚介の香りが脳天を直撃する。まず出てきたのは凛の注文したペスカトーレだ。まず驚いたのは量だ。目の前に出されたパスタは1.5人前くらいはある。まだまだ食べ盛りの男子にとって安くて、量が多いというのはこの上ない喜びだ。イカやエビといった魚介とパスタが真っ赤なトマトソースを纏い、これでもかと旨み成分を放出している。

時雨のカルボナーラも間もなく運ばれて来た。カリカリに焼かれたベーコンとパスタに絶妙に絡むチーズに、真ん中を飾る半熟卵。

時雨はお好みで使うパルミジャーノを豪快にかけていく。正解だ。元々のチーズにプラスされたパルミジャーノが一気にテンションを上げていく。

二人はフォークを手にとり、一気にパスタを巻きとると口に放り込んだ。

｢｢うっまー｣｣

もう声を出さずにはいられなかった。それぞれがそれぞれのパスタの旨みに夢中になっていた。音を立てて食べるのはマナー違反だが、二人はそんなことも気にせず、一心不乱にパスタを味わっていく。

時折レモン水を口に含み、味をリセットしながら何度もだ。

味について語るのは後でもできる。ただ無言で出された料理を楽しんだ。正直、ここまで本格的なイタリアンを学生向けのお店で楽しむことができるとは思っていなかった。

美味しそうにパスタを頬張る二人。それをにこやかに眺めるマスター。その目はサ〇ゼとは違うのだよ。サ〇ゼとは。そう語っていた。

パスタを堪能した凛と時雨。食後のエスプレッソコーヒーを味わいながら、絶対にまた来ようと誓い合った。

美味い、安い、オシャレと三拍子揃った喫茶店miyaで、それぞれの料理を完食し、食後のコーヒーを味わう。

イタリアンがメインなだけにコーヒーもエスプレッソだ。イタリアでコーヒーと言えばエスプレッソなのだとマスターが教えてくれた。

コーヒーといえば缶コーヒーかインスタントしか飲んだことのない凛たちにはコーヒー豆から焙煎された本格的なコーヒーはとても新鮮だった。豆の種類や焙煎方法など奥が深いが、まだまだ若い二人には未知の世界なのだ。

そんな素人の凛たちでも今、口にしている香り高いコーヒーが美味いと感じることはできた。苦味と酸味の調和が舌を楽しませ、食後の蕩けた感覚を引き締め、脳を覚醒させる。

｢ふ〜、満足。夜は賢人会の新歓いくだろ？｣

｢あぁ、行くよ。せっかく入ったんだからな。そりゃ行くとも｣

夜には昨日参加を決めた奇妙なサークル賢人会の新人歓迎会が予定されている。サークルの先輩たちとは顔合わせしているのでそれほど緊張することもないだろう。

｢しかし、賢人会は異常に女子のレベルが高いよな。優亜先輩も菫先輩も可愛かったし、鷹藤先輩も美人。おまけに彼方ちゃんだろ｣

｢勝ち組ってか？先輩たちも彼方さんもあんな美人なんだから男もよりどりみどりだろ。彼氏の1人や2人いると思うけどな｣

｢それなー。まぁ外見も大事だが、中身が伴わないと上手くはいかないわけだが……｣

遠い目をした時雨はコーヒーを一気に飲み干す。

まだまだ短い付き合いだが、いつもの調子と異なることくらいは分かる。何か女性関係における苦い経験があるのかもしれない。

確かに美人な先輩や同学年の娘と早々に知り合えた点は運がいい。しかし、その美人たちを男は放ってはおくわけがない。彼氏がいない方が不自然なくらいだ。

｢優亜先輩は薬指にリングしてたし、鷹藤先輩のしてたネックレス。あれはたぶんペアのデザインだな。菫先輩はそれっぽいものはつけてなかったけど。彼方ちゃんのペンダントも微妙なんだよな。コインのやつ｣

よく見ていたものだ。それが可愛い女の子だからなのか、元々なのかはよく分からないが。

凛はまったく気づかなかった。確かに凛も菫との再会や出雲との出会いに期待をしなかったわけではない。

｢まぁまだ確定じゃないからな。賢人会の誰かといい感じになれるかもしれないぞ。賢人会以外にも出会いはあるだろ。同級生もいるしな｣

時雨の言う通り、出会いは増えていく。同じ学部の娘や他学部の娘とも授業で一緒になるだろうし、これからバイトもきっとすることになる。

｢そろそろ行くか｣

極上の時間を提供してくれたマスターにお礼を述べ、お会計を済ませるとマスターはにこやかに見送ってくれた。

大学方面に戻る道すがら、ふたりはカフェMiyaの話で盛り上がっていた。多くの学生を相手にしているだろうし、マスターの心遣いは今日たまたまだったのかもしれない。次に来店しても顔を覚えてくれているとは限らない。それでも、きっと凛も時雨もこの店に通うだろう。1人でも2人でもはたまた別の友人や先輩とでも。

｢また来ようぜ！｣

良い出会いがさらに良い出会いを呼ぶのだなと凛はニカッと笑う時雨を見る。

｢そうだな。また一緒に来よう｣

単なるランチの約束なのに、凛にはとても尊いものに感じられた。

◇◇◇

夜まで特にやることもなかったが、時雨は一旦家に帰るというので、途中で別れた。思いのほか長居をしてしまったようで、もう午後２時にさしかかろうかという時刻。

（どうしようかな。一旦俺も帰るか）

とりあえず大学方向に歩いていくと、ちらほら学生の姿が見える。他の学部もガイダンスをやっていたはずなので残っていた生徒たちなのだろう。早いところは部活動やサークル活動をはじめているのかもしれない。

そんな生徒たちの姿を横目に通り過ぎていくと、ポケットの中のスマホが鳴った。

立ち止まり、スマホを確認すると菫からで今日の新歓に関する内容が送られてきていた。。

｢今日の新歓は6時から大学駅近くのお店でやるよ。1年生の参加費は二千円です｣

メッセージとともにお店の情報を記載したURLが添付されている。菫が歓迎会の幹事なのだろうか。それとも、幼なじみだからと連絡を頼まれたのかもしれない。

｢了解。楽しみにしています｣

簡単に返信しておくとまたメッセージが届いた。今回のメッセージは私的なものだった。

｢りんりんの家ってどこらへん？私は白崎なんだけど。出来きたら新歓前に少し話したいなって。すっごい、久しぶりに会ったのに昨日はあんまり話せなかったから｣

｢俺も白崎だよ。それなら白崎駅で待ち合わせしようか。何時位がいい？｣

今度は少し返信までに時間がかかっているらしい。一度スマホをしまい、駅へとまた歩き出す。

桜舞い散る大学前の道。幼なじみとのやり取りに刺激されたのか、懐かしい気持ちになる。菫とは小学校以来だが、よく気づいたものだ。凛は小柄だが小学生のときよりは、背も伸びているし、声や体型も変わっている。実際、凛の方は菫が名乗るまで気づかなかった。よく一緒に遊び、風呂を共にしたこともある。あのやんちゃな少女があんな美人になっているとは、ましてや再開するなど夢にも思わなかった。

そんなふうに時間の流れを感じていると駅に丁度着いたタイミングで菫からの返信が届く。小刻みに震えるスマホを取り出し、メッセージを確認すると待ち合わせ時間が書かれていた。

｢午後4時でどうかな。これから準備するから。大丈夫？｣

｢了解。4時に白崎駅ね。一人でお店いくよりも菫が一緒の方が緊張しなくて済むから誘ってくれて助かったよ。ありがとう｣

｢どういたしまして！じゃあまた後でね！｣

菫との待ち合わせ場所と時間が白崎駅に決まったので一旦、帰宅して家で時間までゆっくりすることに決めた。

駅のホームは混むにはまだ早く、閑散としている。朝とは打って変わってホームで電車を待つ人の数は疎らだった。おそらく夜もう一度来る頃には帰宅時間と被るのでそこそこ混んでいるのだろう。

ホームに響く電車の到着を知らせるアナウンス。凛は帰路に着いた。

◇◇◇

菫はいつになく上機嫌だった。鼻歌交じりにシャワーを浴び、久しぶりに再会した幼なじみとの約束を思い返す。懐かしい記憶が込み上げ、はやる気持ちが全身から滲み出ていた。

(昔は一緒にお風呂入ったな。今はさすがに無理かな)

昔より女性らしく変化した身体。時が経ち、関係がどう変化しているのかをまだまだ正しく判断できていなかった。昔のように仲良く出来るのだろうか。失われた時間を埋めることができるのか。それだけがちょっぴり不安だった。

｢ふへへ｣

昔を思い出し、自然と頬が緩む。

年齢こそ一つ上だが、お互い家が近所で親同士の付き合いがあったため、よく一緒に遊んでいた。凛は大人しく、菫が引っ張っていくのがお決まりのパターンだった。兄弟のいない菫にとって凛は可愛い弟であり、初めて仲良くなった同年代の男の子だったが、思春期を迎える前だったこともあり、何も気にせず遊べる友達といったら凛だったのだ。

親の仕事の都合で引っ越してからは関係が途絶えてしまったものの、決して彩峰凛という少年のことを忘れることはなかった。

入学式の日。大きく成長していても、ベンチに座る男の子が幼なじみである彩峰凛だとすぐにわかった。

まさか同じ学部の後輩で、同じサークルに入ってくるというのはさすがに予想できなかったが言葉では上手く表現できないくらい嬉しく思った。

自分でもちょっと可笑しいと思うが、運命的なものを感じずにはいられなかった。偶然が重なっただけだとしてもだ。

忘れられていたらと一瞬思いはしたが、声をかけることに躊躇いはなかった。そして菫が思った通り、幼なじみは昔のようにスミと呼んでくれた。

フローラルな香り漂うお気に入りのボディソープで念入りに身体を洗い清めていく。昔よりも大分落ち着き、女の子らしくなったと自分

では思っている。今の自分を見て凛はどう思うだろう。

想像するとやっぱり恥ずかしい。それでも乙女たるもの準備を怠るわけにはいかなかった。

身体の次に髪もシャンプー、トリートメント、コンディショナーの順番に丁寧に洗っていく。シャンプーで汚れや余分な油分や皮脂を洗い流し、トリートメントは髪の毛1本1本に染み込ませるように指で梳く。最後にコンディショナーで髪の毛の表面を艶やかに保っていく。しっかりとコンディショナーを洗い流すと水を含んだライトブラウンの髪が光を反射しててらてらと輝いて見える。

髪を洗い終えるとシャワーで身体を流し、シアバター入り保湿効果抜群の入浴剤を入れた乳白色に染まる湯船にゆっくりと身を沈める。

程よい熱に包まれてじわりと疲れが溶けていく。安らぎの一時に漏れる吐息。浴室に響くハミング。弾むメロディー。それは桜舞う春模様を切り取った美しく色褪せない名曲で菫が大好きな曲だった。