第6話

 翌日の日曜日。まゆの月命日。

 俺はいつも通りお昼前にまゆの墓参りに行って、その足でいつもの公園に行った。理由はないけど、毎月この日は昼飯を食べる気にはならない。

 近所のケーキ屋でプリンを2つ買って、自販機のりんごジュース。

 約束をしていないのにもかかわらず、彼女はそこにいた。日曜の昼には似合わない紺色のセーラー服でブランコに座っていた。

「春川さん?」

 彼女はぱぁっと笑顔を輝かせて駆け寄った。

「先生! よかった、来てくれたんですね!」

「春川さんこそ来ないかと思ってた」

「誰が誘ったと思ってるんですか!?」

 頬を膨らませる仕草をした。──この顔もまゆとそっくりだ。

「そういえば先生、手に持ってるのは……」

「プリン」

「好きな食べ物覚えててくれたんだね」

「あれだけ喜ばれたら忘れないよ」


 秋田少年がお手伝いをして貯めたお小遣いは、ほぼプリンかりんごジュースとして消えた。

「ようちゃん今日プリンの日??」

 病院の売店のものでも、スーパーの徳用のものでも、ちょっとリッチなケーキ屋のものでも、手作りで甘すぎたものでも、まゆはどれも美味しそうに「これを食べるのがまゆの楽しみなの!」と幸せそうに食べるのだ。


「先生は何でお墓参りだけじゃなくてこの公園にも来るんですか?」

「未だにまゆはここで遊んでるんじゃないかなって思うんだ。……ただ俺自身がまゆはお墓の中にいるってことを認めたくないって思ってるのかもしれない」

 顔を合わせたことすらない姉を思ったのだろうか。彼女は複雑そうな心境を表すように顔を歪めた。

「お姉ちゃんは生きてるよ」

「何を馬鹿な。まゆは俺の目の前で息絶えたよ」

「それは体の話」

「春川さん、何を言って──」

 風が吹いた。葉桜の若い緑の香りがした。揺らした黒髪から覗く彼女の姿はまるで──

「生まれ変わったら会いに行くから」

 冬野真雪本人だった。

「ま、ゆ…………?」

「会いに来ちゃった」

 信じられる訳がない。叶いもしない夢物語だと思っていた。

「冗談はやめてくれよ。シャレにならないから」

 彼女はブランコに腰掛ける俺に歩み寄る。1歩、また1歩と。17歳とは思えない大人びた余裕を持った微笑みで。

「また明日はほっぺたに、ごめんなさいはおでこ、頑張れは……どこだか忘れてないよね」

 呆然とする俺の頬に手を添え、額に唇が触れるだけのキス。

「ごめんねのちゅう、信じてもらえた? 春川桜子私はまゆだよ」

 あの頃と変わらない熱を持っていた。

 変わらない優しさがあった。

「ずっと逢いたかった。ようちゃん、待たせてごめんね」

「でも、でも……」

 混乱で口をパクパクさせる俺の唇に細い指が触れた。

「同じ高校でおっきくなったようちゃんが先生しててまゆ、びっくりした。まゆじゃない誰かと一緒になってたらどうしようってずっと思ってたけど左手の薬指に何も無かったから少し安心した。」

 スっと息を吸って彼女は眉をひそめた。

「でも、まゆのこと待ってないで幸せになってても良かったんだよ?」

 学校で優等生な彼女は我儘だった。

「来世でもようちゃんの隣にいるのはやっぱりまゆがいい。ようちゃんと一緒に歳をとりたい。生まれ変わってもようちゃん、貴方が好きだよ」

 堪えていた感情がボロボロと崩れるように彼女の涙と共に決壊した。

「子供の頃のコトだからって、もうまゆには会えないって分かっていた……けどッ、誰と一緒に居たって、手を繋いでも、キスしても、それ以上のことであっても、心のどこかでは物足りなさを感じてた」

「だからってさ、ようちゃんはバカ野郎だよ!」

 ──まゆのことを忘れないで待ってるなんて。

 ──自分のシアワセを見限っているなんて。

 両方の意味でのバカ野郎だろうか。

 幸せになっても良かったんだよ、なんて言っておきながらそんなに悲しい顔をするなんてただのエゴだ。

 俺は多分これからも君を忘れることはできない。何年経とうと君がいなくなってもこの気持ちは変わることはないと思うけど。……ごめんね、君以上の我儘を言わせて。

「ねぇ、おれの初恋を終わらせてよ」

 君の手でお終いにさせてよ。

 これ以上苦しみたくなかった。利己主義だって言われてもいい。純粋な気持ちを真っ直ぐに、そんなことできるほど幼く無かった。

 あの頃持っていなかったプライドとか社会的責任とか、世間の目……。彼女の変わらない無垢な気持ちを受け入れられるほど、俺は大きな人間では無かった。

 17年間引きずる想いは驚く程切なく、寂しく、そして綺麗だから。……だからこそ思い出の中に閉まっておきたかった。

 彼女は涙が止まるほど酷く傷ついた様子で桜色の唇をわなわな震わせて、紺色のプリーツスカートを翻して走り去っていった。

「これで、これでよかったんだよ」

 どれほど望んでいたことでも、受け入れていい現実世界を知らなかった。

 17年越しにめぐり逢えた最愛の人。記憶はそのままに彼女は高校生の少女だった。自分の教え子としての再会。──愛し合っていいわけない。許される立場になんて俺は居ない。

 届いたかどうかなんて知らない。「ごめんね」ひとり呟いた。


 その日以来俺はこの公園に行かなくなった。


 春川桜子の存在を冬野真雪の死として受け止めたのか、冬野真雪本人として認めたのか、あるいは関わりたくない相手であるとしたのか──全てが正解で全てが間違いだろう。

 彼女の存在はもう漠然としたモノではないのだ。

 日を追うごとに鮮やかに、深く、透明度が増して……儚い思い出では表せない等身大の重みがあった。

 共に大人になれなかった冬野真雪は春川桜子に姿を託したのだろうか。

 授業、面談、放課後、たまたま廊下で会って。2人きりになっても、彼女も俺もあの日以来踏み込んだ話から目を背け続けた。表面上の会話。本来そうあるべきの生徒と教師の関係。お互いの想いだけが雁字搦がんじがらめになっても平然を装う矛盾した関係。

 惹かれ合いながらも自分の想いには蓋をして、溢れそうになっても見ないふり。

 自分が好いている相手は記憶の中の冬野真雪か、入れ物の違う春川桜子か? 17年前の記憶を持つ少女を1人の生徒以上に目で追ってもいいものか? 俺なんかよりもっと別の人が彼女を幸せにしてあげられるのではないか?

 話さなくなってから彼女の存在がどんどん膨れ上がる。まゆを失ってモノクロに見えていた世界が色付いて見えるようになった。同時に自分の発した言葉が日増しに首を締め上げるようになった


 夏が過ぎて秋になった。色付いた葉が落ちて、雪が降り始めた。

 初雪は例年地面を淡く塗る程度の白さのはずだが、何を思ったのだろうか。水分を多く含んだみぞれと言うには重たい雪が、雪おろしの雷が鳴った後からずっと降り続く。

 鉛色の空、雪の日特有の冷たく澄んだ空気。

 一面の銀世界と呼ぶにはお粗末な街並み。

 月明かりに照らされて足跡がコバルトに満ちる。

 一陣の北風は手足の温度を奪っていく。

 コートの襟に顔を埋める。


 寒くなって、降り続く雪は嫌いだ。


 雪の日の夜は嫌いだ。


 独りで歩く銀世界が大嫌いだ。


 ──真雪と会った最後の日は雪の日だったから。


 ──振り返っても1人分の足跡しか残っていないから。


 ──閑静な住宅街に自分以外が雪を踏む音が聞こえなかった日を思い出してしまうから。



 真雪は死んだが生きている。

 幼くなった生き写しの少女は、手を伸ばせば触れられる距離にいるのに。伸ばされた手を払い除けたのは自分なのに。

 イタズラに時間が流れれば、おれにまゆは追いつけない。

 ……だけど想いに関係ないでしょ? 泣きそうな顔の桜子が脳内に囁く。

 ああ、そうだよ。もっともな意見だ。

 終わりにしようなんて言ったところで俺は君を忘れることは出来ないんだろ? 20年以上拗らせた初恋なんだから。君が死んでも忘れられなかった想いなんだから。


「本当に俺はバカ野郎だよ」


 無垢な白雪に自虐的な台詞を吐き捨てる。

 ──相手は教え子、18歳になったばかりの受験生だぞ?

 彼女の努力も、俺の立場も無いものにはできないけど、もう今度は見て見ぬふりはしたくないんだ。2回目は失いたくないから。

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