午後の平和な古典の時間
『ねえ、何笑ってるの?』
気持ち悪い、と吐き捨てるように言う女。中身を床に撒き散らかされ、空っぽになった学校指定のリュックを、彼女は蹴り飛ばす。それは教室後ろのロッカーに当たり、力なく、くしゃっとその場に落ちる。別の女に筆箱を踏み潰される。それは小学生の頃、母親に文房具屋で買ってもらったもの。
『へらへらしてんじゃねえよ』
女は私を突き飛ばす。私はその場に倒される。
チッと舌打ちを鳴らし、女たちは教室を出ていく。
しばらくしてから、私は床に散らばった私物を回収する。筆箱についた汚れを手で払う。キャラクターのプリントが剥がれかかっている。折られたノート、落書きされた教科書を、リュックに入れる。くしゃくしゃになった学級通信を、まっすぐに伸ばしてファイルに入れる。同時に、目頭が熱くなる。私の心はこのプリントのように、まっすぐに伸ばそうと思っても皺がついたままだろう。もう元には戻らない。そう気がついて、目頭が熱くなる。
あの人たちが何を考えているのか、全くわからなかった。話してわかる類の人間ではなかった。そのことが一番怖かった。言動も、行動も、理由を求めてもそこには何もなかった。別に理由なんてなくても良かったのだろう。この状況を引き起こすのは、悪意と少しの暇な時間。それだけ揃えば十分だった。
眠い午後の授業中、ふと思い出される暗い過去。夕暮れの廊下を一人歩いた記憶。
憎くて忘れたいはずの女の顔を、私はなぜか良く覚えている。同じ人間であるはずなのに、少しも分かり合える気がしない。恐れ、他方では不思議に眺めた彼女の顔。口から紡がれる容赦のない悪意の言葉。大きい目は、機嫌が悪くなると細く切りつけるように私を睨みつける。細い眉がそれに呼応する。怒りを表明する。怖い。彼女のすることに、私はされるがままになる。
あの頃の私はみゆきちゃんを知らなかった。みゆきちゃんみたいに、間違ったことには間違っていると堂々と指摘できる人間の存在を、私は知らなかった。暖かい言葉と体温で、私を包んでくれる存在を知らなかった。だから私は弱かった。
辛い体験は、みゆきちゃんに出会うために必要な代償だった。
今はそう思う。そう思わないと、過去を精算できない。
クラスの大多数が離脱する午後の古典の授業でも、みゆきちゃんは背筋をピンと伸ばしてノートをとっています。私はその後ろ姿にしばし見惚れます。ポニーテールから見える白い首筋に優しくキスしたい。
『みゆきちゃん、耳弱いね』
いつかしたキスみたいに、彼女を抱きしめたくなる、午後の平和な古典の時間。
「もう、起きている人の方が少なかった気がするわ」
授業が終わるとみゆきちゃんは珍しくぷりぷりと怒っています。
「ごめんよ、みゆきりん」
「眠気には、抗えなかった……」
二人は口々に言います。
「でもさ、時間割のほうにも責任の一端はあるよ。午後に古典の授業って、もう寝てくださいって言ってるようなものじゃん」
「確かに、法律で規制するべきだよ。こだまちんも、そう思うよね?」
「……え、うん。そうだね、そうだよ」
「よし、なら次の国会で提案してみようかな」
「まず選挙に通ってから言いなさい」
ピシャリと言うみゆきちゃん。学級委員らしく、ツッコミも的確です。
「こだまも授業中からずっと上の空って感じだし。緊張感が足りないわ」
彼女は呆れたように言います。授業中からってことは、私の様子もチェックしていてくれたのかな。
「うん。……ありがと」
「そこは『次から気をつけます』でしょ。お礼いってどうするのよ」
「こだまちん、ちょっとぼーっとしてるね。だいじょぶ?」
「うん。大丈夫だよ。それよりね、みゆきちゃん、授業中とっても姿勢が良かったよ。競技かるた部の部員みたいだった」
「確かに、いつもみゆきはいい姿勢だよね」
「だよね、だよね。でも、今日のは特にいい姿勢だったよ」
「そうなの。こだまは良く見てるねぇ」
「はいはい。話を逸らそうとしても無駄よ」
「……むむ。手厳しいですなあ」
その後私たちはみゆきちゃんから口酸っぱく注意を受けました。私は上の空にならないよう、彼女の喉元を眺めていました。
「……みゆきちゃん、私、顔に出てる?」
解散してから、私はこっそりと尋ねます。
「……何が?」
「あ、うん。ならいいや。ごめんね、変なこと聞いて」
私が自分の席に戻ろうとした時。
手を掴まれました。
「……え?」
「ちょっと、いいから」
私は彼女のほうに向き直ります。少しバツの悪い気持ちになります。彼女は私の顔をしばらく眺め、
「少し顔は赤いけど、大丈夫なんじゃない」
と言いました。しかし鼓動はどんどんと速くなり、とても大丈夫には思えません。
「だったら良かった」
そう言って、再び席に戻ろうとすると、彼女は「しのぶれど……」と呟きました。思わず振り返ります。みゆきちゃんは微笑んで、
「お互い、大変ね」
と言います。その時、私と彼女を繋ぐ秘密の線が、一瞬だけ可視化されたように思えました。他の誰も知らない、私と彼女の秘密の共有。心の共鳴。線が旋律となって、胸に温かく響く。
関係をひた隠しにすることに、最初は違和感を覚えたけれど、このような喜びもあるんだ。
「……うん」
ここが教室でなかったら、と一瞬考えましたが、喧騒にかき消され、線は再び見えなくなりました。でもまだそれは繋がっていると信じられる。
辛い過去と甘い現在が交差する、そんな平和な午後の時間。
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