絵里ちゃん、襲来


「二組大縄跳び八十回いったってさー」

「マジかよ。あいつら九進数で数えてるだろ」

「……そうだとしてもそれほど変わらないじゃない」

 金曜日の昼休みです。由美ちゃんと佳菜子ちゃんは浮かない顔でパンを食べています。二人はライバルである、二組の仕上がり具合が気になるみたいです。

「まあうちらは100000回も飛んでるから、全然気にしてないんだけどさ」

「……あれ、由美でも二進数わかるんだ」

「わかるわ! 一応理系なんだよ、これでも」

「へー知らなかった」

「同じクラスだろっ」

 いつもの光景です。ちなみに100000回は、十進法では三十二回ということになります。

「でも私は三十二と八十だったら、三十二の方が好きだな。なんとなく綺麗な気がするし。だって二を五回もかけるんだよ?」

「……こだま。体育祭では数字の美しさを競うわけではないのよ?」

「それはそうだけど……じゃあみゆきちゃんは、どっちが好きなの?」

「え…………そうね、三十二かしら、どちらかというと」

 ほらね、と言って私は二人の方を見ます。

「いや、『ほらね』じゃないよ」

「……確かに」

「納得しちゃった!?」

 ツッコミが忙しい由美ちゃんは「このままではいけない」という顔をしています。

「とにかく、あいつのいるクラスには負けられない。去年の恨みを晴らさなければ」

「去年の恨み?」なんだか物騒な話です。

 恨みというものは積み重なって、恐ろしいものになってしまうことがしばしばあるのです。

 それを聞いて佳菜子ちゃんがクスクス笑いました。

「ああ、去年由美が散々煽っといて負けたって話?」

 由美ちゃんは少し顔が赤くなりました。佳菜子ちゃんはニヤニヤして続けます。

「いやね、去年うちは絵里と同じクラスだったんだけど、由美が『あんたらのクラスには絶対負けねえよバーカバーカ』みたいなこと言ってたのに、結局惨敗したってことがあったんだよ」

 ああ、なんとなくわかります。私はみゆきちゃんと一緒のクラスで、この二人とは違うクラスでしたが、その様子を実際に見たかのように想像できます。

 由美ちゃんは負けず嫌いだからなあ。

 みゆきちゃんはいつもの落ち着いた声で言いました。

「それは恨みというより自業自得というんじゃないかしら」

「うん、または因果応報とも言うよね」

 すると由美ちゃんは「この二人に言われると辛いものがある……」と言ってぐったりうなだれてしまいました。確かに由美ちゃんにこういうことを言うのは珍しかったかもしれません。みゆきちゃんのは平常運転ですが。

「というわけで由美は勝手に絵里のクラスに負けられないと思い込んでいるのです。こだまちん、こういうのなんて言ったっけ?」

 私は少し考えて言いました。

「えっと……逆恨み?」

 由美ちゃんは「ぐはあ」と言って血を吐きました(もちろん比喩的な意味です)。


 教室の後ろから「失礼しまーす」という華やかな声が聞こえます。元気あふれる女子数人の声です。私は後ろを振り向きます。由美ちゃんが椅子を引いたので「ガタッ」という音が出ます。みゆきちゃんは声のした方に静かに目を向けます。佳菜子ちゃんはパンを先に食べてしまおうと躍起になっています。クラスメイトの目線が集まります。

 後ろのドアには深瀬絵里ちゃんをはじめとする二組の女子テニス部三人がいました。この時間になると彼女たちは時々七組にやってくるのです。

「またあんたらかよ! 失礼してる自覚があるなら入ってくんな! さっさと帰れ!」

 開口一番は由美ちゃんの宣戦布告でした。絵里ちゃんはずんずんと教室に入りながら、呆れの混じった表情で言います。

「由美はどうしてこう吠えるかなあ。負け犬の遠吠えってやつ? ちょっと違うか。でもそれにしても躾がなってなさすぎるから、教室に『猛犬注意』って張り紙貼っといた方がいいかもねえ。近隣住民の皆様のためにも」

「誰が犬だこらっ! やんのかおらっ」

「はあ、まったく呆れるわ。弱い犬ほどよく吠えるって知らないの? それとも今年も懲りずに二組に惨敗するフラグを建設しているの? だとしたらそれはご苦労様。で、その由美率いる強豪七組は、今のところ大縄跳び何回飛んでるのかしら。さすがにいつかの由美の英語の偏差値は超えてるよねえ」

「……こいつうぜえ。英語の偏差値の方がわずかに勝っているのがまたうぜえ」

「はへ、ふひほへんはひっへはんはっへ?」

「お前はパンを食べ終わってから喋れ! ちなみに偏差値は三十四だわ! 長文読んでるうちに寝ちゃったんだよ!」

「はあ、ほおはっへ」

「佳菜子ちゃんそれでも伝わるってすごいね」

 私がそう言うと絵里ちゃんと目が合いました。

「はいはい由美邪魔。あんたの相手は後で思う存分してあげるから。それよりこだまちゃんだよ、こだまちゃん。私はこだまちゃんに会いにきたの」

 そう言いながら彼女は私の席にやってきました。そして私の様子を確かめてから言いました。

「よかった、元気になったんだね……」

 私は控えめに頷きました。

 彼女はしゃがみながら優しい目で私を見てきます。赤みがかった髪と鋭い目つきが正直結構怖いのですが、実は優しい人なのです。

「やっぱり男関係? こだまちゃんならそうだよね。相手は誰? 必要であれば力貸すよ?――ところで全然関係ない話だけど、死体って水に浮きやすいから困るよねえ」

「絵里ちゃん。私はもう大丈夫だから。むしろ超元気だから。心配いらないよ。――ところで全然関係ない話だけど、死体は山に埋めても犬が嗅ぎつけるらしいよ」

 絵里ちゃんはクスクス笑いました。

「じゃあ海にも山にも捨てられないねえ」

「そうだよ。でも宇宙だったらいけるかもしれない。倍々に増えていくお饅頭だって、なんとかなるくらいだからね」

「さすが宇宙だね。ヤバイね」

 絵里ちゃんはケラケラ笑って言いました。

 彼女が七組に遊びに来るときは、佳菜子ちゃんと一緒に由美ちゃんをからかった後に『私はこだまちゃんに会いに来たの』などと言いながら席にきて、雑談をしていくのがお決まりのパターンになっています。

 さっきの由美ちゃんは口が悪いですが、もちろん、絵里ちゃんとも仲がいいです。女子テニス部のつながりがあるから、そういうことを言っても大丈夫な信頼関係があるのかもしれません。きつい言葉を交わしても平気な関係、というか。

 その女子テニス部の部長である絵里ちゃんは、私の目を見つめながら言いました。

「うん。やっぱりこだまちゃんは元気な方がかわいい」

 やはり面と向かってそういうことを言われるのが苦手な私は「……そりゃどうも」みたいな可愛げのない返事を、目をそらしながら小さな声でしたのだと思います。

 それから彼女は私の正面にいるみゆきちゃんの方を向きました。

「みゆきさんは今年もリレー出るよね。ねえ、何番目に走るの?」

「みゆきちゃんはアンカーだよ」

 答えたのは私です。みゆきちゃんの話題になった時の私の反応の速さにはかなりの自信があります。もし百人一首で「みゆき」から始まる歌があったら私は瞬殺で取ることができるでしょう。

「へえ、そうなんだ。じゃあ一緒だね。優勝かかってるから遠慮なしでいくよ」

「ええ、……よろしく」

 みゆきちゃんは何か別のことを考えながら言っているようでした。何を考えているのか、表情から察するのは難しいですが、少なくとも楽しいことではなさそうです。ちょっと深刻そうな顔に見えなくもありません。

 隣から大きな笑い声が聞こえます。

 さっきから話し声は聞こえていました。由美ちゃんと佳菜子ちゃん、女子テニス部の二人が話しているのです。ただ、なんの話をしているのかはよくわかりませんでした。たぶん部活の中での話でしょう。部外者にはわからないような。

「じゃあ私はそろそろ帰るね。二人ともお昼の邪魔してごめん」

 それから彼女は「こだまちゃんバイバイ」と言いながら小さく手を振り、由美ちゃんと佳菜子ちゃんと話を始めました。

 私は残ったお弁当を食べながらみゆきちゃんの方を見ました。彼女はちょうど食べ終えたのか、お弁当の包みを結んでいます。顔に元気がないような気がするのは私の考えすぎでしょうか。さっきまでは元気だったのに。

 私は少し迷ってから、やっぱり聞いてみることにしました。私にはこの彼女の変化を見逃すという選択肢を取ることは難しいのです。悪い芽は摘んでおくに限ります。

 それに、彼女が素直に答えるかは別にして、私にはちょっと気がかりなことがありました。

「みゆきちゃん、どうかした?」

 彼女だけに聞こえる小さな声で聞きます。

「ちょっと元気なさそうに見えたけど」

「……別に、大したことじゃないわ」

「ふうん」

 みゆきちゃんは少しだけ驚いた顔をしましたが、すぐに、つまらないものを見るような横目を、教室の床に向けました。

「それはここでは話せないこと?」

「……ええ、まあ。でもここでなくても話せないと思う。あるいは……話したくないと思う。こだまには、特に」

 彼女は軽く咳払いをして言いました。

「本当に大したことじゃないのよ。ちょっと気になったというか、考えなきゃいけないようなことができただけだから。私自身まだわからないことだし、もう少し時間が必要なことでもあると思う。……だから今はちょっと話せないわ。ごめんなさい」

「いや、いいよ。……話せないこと、話したくないことってあるよね」

 ちょっとだけ寂しいけど。仕方ありません。

 私がそう言うとみゆきちゃんは微笑んで言いました。

「でもこだま、よくわかったわね。私そんなに元気なさそうな顔してたかしら」

「そりゃあねえ。わかるよ」

 私はデザートのりんごを食べる手を止めて言います。

「だっていつも見てるもん」

 一年生の時からずっと。憧れていたから。かっこいいと思っていたから。その気持ちは今も変わりません。むしろ日に日に強くなっている、というか。

 みゆきちゃんは口元を緩めながら、顔を少し赤くして机の上の角を見ています。これは彼女が照れた時に見せる反応の一つです。口元が緩んでいるのがポイントで、みゆきちゃんは感情が表に出にくいので、わりとレアな反応なのです。

 ――と、偉そうに解説を入れましたが。

 みゆきちゃんが照れるのを見ていると、なんだかこちらも照れてしまいます。照れが伝搬していく、照れコミュニケーション。教室の中のみゆきちゃんはずっと委員長モードなのかと思っていましたが、そうとも限らないみたいです。

 彼女の顔は見る見るうちに真っ赤になります。それに気づいた佳菜子ちゃんが、気になったのか声をかけます。お話に夢中な由美ちゃんは、気にせず爆笑してます。みゆきちゃんは小さく首を振り、私は急いでお弁当箱を片付けます。

「ねえ、何か言ってよう」

「……ここでは言わないわ」

 みゆきちゃんは恥ずかしそうに口を押さえながら言いました。

 

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