朝練![2/2]
みんなが解散してから私はみゆきちゃんのもとに行きました。
「みゆきちゃんおはよう」
「あ、こだまおはよう。二人三脚に使う手ぬぐいは向こうに置いてあるわ」
みゆきちゃんが掲揚台のあたりを指差したので、そこまで歩くことにします。
「みゆきちゃんアンカー走るんだね」
彼女は少し驚いた顔をして言いました。
「そう、ね」
「最近自主練もしてるって聞いたよ」
彼女は「はあ」とため息をついて言いました。「それも由美さんに聞いたの?」
「うん。……え、これ内緒にしてた?」
「まあそういうわけでもないけれど」と、彼女は曖昧な返事をしました。
「こだまのことだから、私が自主練してたら『睡眠時間は大丈夫?』とか『勉強もあるし無理しないでね』とか言いそうだから黙っていたのよ。気を遣わせたくなかったからね。言っておくけどこれは私がしたくてしていることで、最近は勉強はほどほどにしてるし睡眠もちゃんととってるから決して無理はしていないのよ。むしろ運動をしたことで、体調が良くなってるくらいなんだから」
なるほど。
彼女は以前、勉強を頑張りすぎて身体を壊しそうになっていたことがあったので、私はそのことについて大変神経質になっているのです。彼女はストイックなところ(時に度が過ぎる)があるので、私としてはそれが心配なのです。
無理は禁物であります。
私は彼女の方を向いて言いました。
「そうなんだ。つまり私は、みゆきちゃんに話そうとしていたことを完全に読まれていた、ということなんだね」
「ふふ。つまりはそういうこと」と彼女は笑いました。
「……あとね、本当は」
みゆきちゃんは、こっちを見て言いました。
「意外と走れるところを見せて、こだまを驚かせたかった、っていうのもあるのよ。……やっぱり好きな人に、格好悪いところは見せられないし」
「………………」
そういう顔で言うのは反則だと思います。私は「ふうん」とだけ言ってそっぽを向きました。
周りの景色なんて見えませんでした。
「…………ちゃんはいつもかっこいいけど」
「……うん? 何か言った?」
「……なんでもない」
「うそ。ちゃんと教えなさい」
「今のは聞き逃していいことだから。それより早く、二人三脚やろうよ」
私は早歩きで、掲揚台まで行きました(この時の私の早足のスピードは驚異的で、瞬間的に競歩の選手と競えるレベルだったと自負しています)。掲揚台には水筒やタオルなどがたくさん置いてあって、ムカデ競争で使うロープなども置いてありました。
「手ぬぐいはみゆきちゃんが持ってきてくれたんだっけ」
「そうよ。あったこれこれ」
そう言って彼女は紺色の手ぬぐいを見せてくれました。私たち二年七組のチームカラーは紺色なのです。
「紺色っていいよね。私結構好き」
「そうね、落ち着く色よね……あ」
その時みゆきちゃんは、何かに気づいてしまった顔になりました。
私は「どうしたの? みゆきちゃん」と尋ねます。
彼女は宇宙の残酷な真実に気がついてしまったかのような悲壮な顔を浮かべていました。
「私、今リレーで走ったばっかりで汗かいてるんだった……」
なんだ、そんなことですか。
私は拍子抜けして転びそうになりながら言いました。
「みゆきちゃん。今日、私は、みゆきちゃんと二人三脚をしにきたんだよ。汗をかいたって、そんな理由じゃ、このままのこのこと帰るわけにはいかないよ。大丈夫。私は全然気にしないから」
私は一息ついて続けます。
「本当に私はオールオーケーだよ。史上稀に見るオーケーっぷりだよ。……でもね、みゆきちゃんがどうしても今日するのが嫌だったら、また今度でもいい。私がいくら気にしないって言っても、みゆきちゃんが気にしない理由にはならないもんね。私も、そういうの気にするのわかるし、みゆきちゃんの嫌がることはしたくないし」
彼女は少し安心した顔で言いました。
「ありがとう。せっかくこだまも来てくれたんだし、そこまで言ってくれるなら……しないわけにはいかないわね」
「そうだよ。私はいつになく体育祭に積極的なんだから」
私はそう言って、彼女と一緒にグラウンドに戻ります。みゆきちゃんは周りに人がそんなにいないことを確認して、紺色の手ぬぐいを握りながら言いました。
「こだまは右利きだから、右足を縛ったほうがいいかしら」
「え。それって関係あるの?」と私は聞きます。
「わからない。でもこだまが走りやすいほうがいいでしょう?」
「そう、だね。じゃあ右足でお願い」
私がそう言うとみゆきちゃんはしゃがみこんで彼女の左足と私の右足を結びます。なんだかドキドキしてしまうのは仕方のないことです。「結ぶ」という行為は「縁結び」というように特別な意味を持つことも多いのです。
「こだま、靴変えたのね」と、彼女はしゃがんだまま言いました。
「……あ、そうだった。転びやすくなってたりしないかな」
「さあ、大丈夫なんじゃない」と、みゆきちゃんは大して気にも留めない感じで言います。
「でもこれで、みゆきちゃんを怪我させてしまったらどうしよう……やっぱり今日はやめといたほうが……」
「もう、さっきまでの積極性はどうなったのよ」
そう言って、みゆきちゃんは立ち上がりました。しっかり結んでくれたみたいです。
「ほら、行くわよ」
「ちょ、待ってよう」
みゆきちゃんは肩を組んで、結んである方の足を、先に出して歩き始めます。私も彼女の肩を持ち、それに合わせて歩きます。汗をかいてると言っていましたが、ほんのり湿ってるくらいで、気にすることもなかったように思います。……ってそんなこと思ってるほど余裕はありません。ゆっくり、ゆっくり。えっさ、ほいさ。
二十五メートルは歩いたでしょうか。「どう? 案外いけるんじゃない?」とみゆきちゃんは言いました。
「うん。このペースなら完走は狙えるね。極めて健康的に」
「二人三脚なのに完走を狙うの? もう少し志は高く持ちなさい」
「でも人生だってゆっくりのんびり健康に……」
そこで私は気づいてしまいました。というか、気づくのが遅すぎたような気もします。私には何をするにしても、気づいた時には遅すぎることが多々あるのです。今回もその例に漏れません。そうです。この距離は、みゆきちゃんと会話するには近すぎるのです。ゼロ距離と言っても過言ではない気がします。というよりその表現の方が、この状況を説明するには的確でしょう。私は、みゆきちゃんと密着しながら会話をしなければいけないのです。「密着取材」というような甘いものではなく、文字どおり、物理的に密着しているのです。
まあ遠すぎるよりは良いのでしょう。少なくとも声はすぐに届きますし、彼女の反応もわかりやすいです。現地からのリポートのように時間差は生まれません。リアルタイムです。
いや、でも、しかし。ここは学校の中ですし。二人きりの時ならまだしも。……ってそういうことではなく。ああもう混乱してきました。
「こだま。あなたまで照れてしまったら練習にならないじゃない」
みゆきちゃんは、前を向いたまま言いました。彼女は固い意志で前を向いているようです。横を向いたら死んでしまう覚悟で、前を向いています。強い意志。そうでした。私は、彼女のこういうまっすぐでひたむきな姿勢が好きで……ってそういうことでもなく。危なかった。そういうことではありません。とにかく彼女は顔を少し赤くしていて、目の前のグラウンドを見据えているということです。
私も前を向きました。あれ以上横を見ていたら死んでしまうところでした。
「うん。私はもう照れないよ。今ちょうど仏のような心持ちなんだよ。九死に一生を得たような、そんな気持ち。だから今の私には照れるとか、そういう気持ちはないんだよ。ただ目の前のグラウンドを何も考えずに見つめている」
「……そうね。私も今そんな気持ちだわ。賑やかなグラウンドよね。大勢の人がいて、皆それぞれに体を動かしている。誰一人としてただ静かにグラウンドを見つめている人はいない。私たちを別としてね。ある意味こういう存在も、ここに必要なのかもしれないわ」
「わかるよ。私はこのまま石像になっても後悔しないよ。これからもみゆきちゃんと一緒にこのグラウンドの守り神になってしまいたいよ」
やがて石になる。
「………………ってそうじゃないでしょう。油断するとすぐこだまのペースに乗せられるから恐ろしいわ。二人三脚。二人三脚の練習をするの。ほら、しゃっきりしなさい」
「は、はいっ」寝ている時に先生に当てられたみたいな返事です。
「じゃあさっきのところまで、ジョギングで行くわよ。左足からね」
「う、うん。……えっ? 左足? ふわあっ」
結論から言うと、私は転びそうになりました。転ばないで済んだのは、みゆきちゃんに抱きつく形になって、彼女が懸命にその体勢を堅持したおかげです。私が彼女のどこに抱きついたのかは、あえて説明することもないでしょう。
「みゆきちゃあん。左足ってどっちの左足かわからなかったよお」
「……それは私の説明不足だったわね。ごめんなさい。私もいつもと違う状況に、少なからず動揺していたのよ。本当に」
「そうかな。みゆきちゃんはいつでも頼りになるよ。今だって……」
「こだま。わかったからひとまず左手を離してちょうだい」
「左手を離す? うん。手は離したけど、腕は離さなくていいの?」
「もう、何言ってるの。離すに決まってるでしょ」
「でも、みゆきちゃんが腕を掴んでるから」
彼女は右手で私の左腕部を支えていてくれました。それに気づかないとは、みゆきちゃんも相当混乱しているみたいです。
「……って、え?」
私を支えていた彼女の手が離れてからも、私は彼女を横から抱きしめていました。二人三脚中に横を向くという禁忌を犯した私はもとより少ない頭のネジが数本抜けたようで、変な勇気と開き直りがありました。優柔不断な私は開き直りの大切さを十分認識しています。単純な思考回路は今こそがそのタイミングであると短絡的に考えたようなのです。
みゆきちゃんは暖かく、抱きしめ甲斐があるなあと思いました。細く長くしなやかな彼女の四肢は近くで見るとなんとも不思議です。あの優美でパワフルな動きをしていたのが本当にこの華奢な手脚なのか、俄かには信じられません。みゆきちゃんの小さな頭に詰まっている知識量のことを併せて考えると、ICチップと同様に小型集積化が進んでいるのでしょうか。最先端をいくみゆきちゃんです。ムーアの法則。ボーア半径。ブミプトラ政策……。
小さい頃によく見ていたアニメの変身シーンのように、時間はゆっくりと流れているようでした。これを人はフロー状態になるとか、ゾーンに入るというようです。勉強をする時でもなく小説を書く時でもなく、みゆきちゃんにハグをしている時にフロー状態になってしまうヘンテコさは私らしいと言われたら否定できません。
その時、みゆきちゃんの右腕が再び私の腕を掴みました。
「……こだま。もう離して、お願いだから」
「あ、うん。ごめん」と言って私はASAPで手を離しました。きっと一分にも満たない時間だったのでしょう。熱力学第なんとか法則に従って、熱はみゆきちゃんから私に向かって伝わってきました。しかし残念なことに、その熱は少しずつ身体から放散していきます。その不可逆性が私にはちょっぴり憎らしいです。
「ちょっと一回休憩を入れましょうか。とりあえずあそこまで。それと、進み始めるときは結んである方の足、こだまだったら右足、私だったら左足を先に出すのを、共通認識にしましょうね」
「わかった。全会一致で可決だよ」
私たちはグラウンドの端まで、安全に到達することができました。今度は私がしゃがんで、結び目をほどきます。いや、正確には、ほどこうとしています。現在進行形で。でもなかなかほどけません。足首にはゆとりがありますが、結び目がかたい。がっちりしていて、とっかかりのようなものがありません。さすが、みゆきちゃんが結んだだけあります。
それなりに時間がかかって、私はなんとか手ぬぐいを外すことができました。外すや否や、みゆきちゃんは水筒を取ってくると言って、掲揚台の方へ向かっていきました。私は少しの間、ここに一人でいることになります。
第一の感想は「涼しい」でした。長い時間、彼女の熱と一緒だったためでしょう、何気なく吹く風がとても涼しいです。彼女の熱が放散していくことは、もういいです。寛大な私は大気にも幸せのお裾分けをしているのです。それに、必要であれば、また、何度でも、練習を繰り返せばいいのです。
そして第二の感想は「地に足がついている実感がある」です。船の上に長い間いた後、陸に上がるとなんとも言えない安心感があるのですが、そんな感じです。ぶれることのない地面を自分の足でちゃんと立っている。その実感は私を安心させるには十分なものでした。私はなんだかんだ言っても緊張していたのだと、冷静に考えるとわかりました。
みゆきちゃんが水筒を持ってやってきました。いつもの委員長の顔をしています。
「こだま。喉乾かない?」
「乾いた。私も水筒持ってくるべきだったかも……いや、みゆきちゃんが先でいいよ」
彼女が水筒のコップに入れたお茶を差し出そうとしたので、そう言いました。
「私は向こうで飲んできたからいい。ちょっとすぐ飲みたい気分だったのよ。……はい」
「そうだったの。じゃあ遠慮なく。ありがと」
ちょうどいい温度に冷えた麦茶でした。染み渡る感じです。
「なんだか疲れちゃったね」と私は言いました。「ちょっとしか動いてないけど」
「ええ。リレーよりよっぽど疲れた気がするわ。少し早いけど今日はここまでにしましょう。こだまもなんとなく感覚はつかめたでしょう」
「うん、まあ。要は最初歩いたペースを早めていけばいいんだよね。うん。わかった。より具体的になったことで、イメージトレーニングが容易になるよ」
「イメージができることと実際にできるかは別よ。これからも何度か練習する必要があるわ。今日はもう私は十分堪能……じゃなくて十分納得できてるからいいけれど」
私はたいそう疲れていたので、みゆきちゃんの珍しい言い間違いを指摘できませんでした。
私たちは座るにはぴったりの、コンクリートの段差に腰を下ろしました。日陰なのでお尻がひんやりと冷たいです。
しばらく座っていると、私は夢と現実の区別がつかない状態にいることに気がつきました。
目の前の景色がまるで夢の中みたいに感じます。
沈黙が生まれています。
彼女は遠くを見ていました。私の大好きな、とても静かな彼女の目です。
「みゆきちゃん」と私は彼女のほうを向いて言いました。
「……なに?」
「ふふ、ただ呼んだだけ」
「……何よ、それ」
彼女は少し怪訝な顔を浮かべています。
「みゆきちゃん。みゆきちゃん」
「もう、マイクテストじゃないんだから」
「あーあー、テステス。本日は晴天です。みゆきちゃん、みゆきちゃん」
「無闇に呼びすぎ。次から一回百円とるわよ」
「五百円で六回呼んでもいい?」
「UFOキャッチャーじゃないんだから」
「ふふふ。みゆきちゃん、かわいい」
「はい、百円ね」
そんなあ。今のは違うんだよう。私が泣きついても彼女は聞く耳を持ってくれません。
「みゆきちゃん」
「……今度はなに?」
私はそっと目を閉じて、耳をすまします。
風が木の葉を揺らして、さわさわと音を立てるのが聞こえます。バトンパスをする時の掛け声が聞こえます。大縄跳びの回数を数える声が聞こえます。誰かの足音が聞こえます。歓声が聞こえます。
同時に私は、静寂な空間の存在を感じます。私たちのいる世界とはまた別の、他の世界がある気がします。静かで、落ち着いていて、優しい。おぼろげなその存在を、私は確かめたくなります。ちゃんとそこにあるのか、確認したくなります。でもそれはとても難しいことです。簡単にはできないし、そのやり方もわかりません。ただ一つわかることは、私はその存在を確かに感じている、ということです。それだけは私の中ではっきりしています。
「……みゆきちゃん、大好きだよ」
「……そう」
クールなみゆきちゃんのあっさりとした返事が、夢か現かわからない世界のなかで響いています。
「こだま。そろそろ起きて。大縄跳びの練習があるから」
彼女の声で、私は目を覚ましました。私はいつのまにか、短い睡眠をとっていたみたいです。いつもより早い起床の影響が、ここにきて現れたのでしょうか。
「もう、そんなに疲れたの?」
みゆきちゃんは唇に笑みを浮かべて、まっすぐ私を見ています。私もぼんやりと、それを眺めています。
『……私も、大好きよ』
その時どこか遠くの世界から、彼女の声が聞こえたような気がしました。本当に目の前の彼女が言ったのか、私は今ひとつ確信が持てません。あるいは確信を持つ必要もないのかもしれません。世の中で本当に確信が持てることの少なさを、優柔不断な私はよく知っているのです。
「……早く行きましょう」
「あ、みゆきちゃん待って」
私は立ち上がって、それほど遠くではない彼女の背中を追いかけました。
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