第9話 君依くん消滅。

 わたしは食事もとらず、眠る事も忘れて、源氏物語を読み続けた。

「斎原ぁ、遊んでくれよー」

 うるさくまとわりつくネコを足で押しのけ、次々に新しい巻を手にする。


「え、これ。どういう事?」

 その章は後に『雲隠くもがくれ』と呼ばれることになる。光源氏の最期を描いた部分のはずなのだが、現在は題名だけでその内容は伝わっていないのだ。

「文章がちゃんと残ってる」

 あまりの興奮で内容が頭に入ってこない。いかん。落ち着け、わたし。


 その時、わたしの身体がふわりと宙に浮いた。思わず本を取り落とす。

「え、なに?」

 君依くんがわたしを抱えている。いわゆるお姫様だっこだ。

「あの、君依くん。何してるの」

 いや、別に責めてる訳じゃないんだよ。こんな急に積極的に来られると、心の準備ができてないだけで。

 でも寝室はそっちじゃないけれど。なぜ縁側に向かう。


「周りを見ろ、斎原」

 はあ? そういえば凄く煙い。

「もしかして火事なの、君依くん?」

「しっかりつかまれ」

 なんだろう妙に格好いいぞ、君依くんのくせに。でも、じゃあ、遠慮なく。君依くんの首に手を回し、ぎゅっと抱きつく。


 君依くんは庭を走り抜け、身長ほどもある塀を軽々と跳び越えた。

「な、なに。この運動能力」

 そうか、これは愛するわたしを救おうという、火事場の何とかというやつだね。

「ただ単に、ここが文妖の世界だからじゃないかな」

「またまた。照れちゃって」

「……」

 おい、返事しろ。愛してると言え。


 振り返ると屋敷がめらめらと燃えている。と云うより、絵を描いた本のページが端から焼けていくように目の前の空間ごと炎の中に消えていく。そして炎の後ろ側には全くの虚無の他、何も残っていなかった。

「しまった、源氏物語が」

 このままでは『雲隠』の章が読めないまま焼けてしまう。


「仕方ないな」

 そう言うと君依くんはまた塀を越えようとしている。待って……と言いかけ、わたしは言葉を呑み込んだ。

「君依くん、お願い!」

 逆にわたしの口から出たのは、そんな言葉だった。源氏物語をとって来て。


 君依くんが塀を跳び越えた瞬間、炎の柱が上がった。塀が炎に包まれ、あっという間に屋敷は消え去った。

 後には真っ白い灰のようなものが一面に広がっている。屋敷のあった場所だけではない。背景や空さえも、ぽっかりと空白になっていた。ジグソーパズルの一部分だけが抜け落ちているような光景だった。


「き、君依くん……」

 わたしは膝が震える。止めなかったから……わたしが止めなかったから君依くんは焼け死んでしまった。この世界から消滅してしまったのだ。



 ――― そのかへる年、四月の夜中ばかりに火の事ありて、大納言殿の姫君と思ひかしづきし猫も焼けぬ。「大納言殿の姫君」と呼びしかば、聞き知り顔に鳴きて歩み来などせしかば、いみじうあはれにくちをしくおぼゆ。―――



 ☆



「君依くん!!」

 わたしは泣き声で叫んだ。こんな声を出したのは君依くんに振られて以来だった。君依くん、君依くん。わたしは叫びながらその真っ白な空間に足を踏み入れた。足元から、ふわっと灰が舞い上がる。


 けほけほ、と咳込む声がする。その方を見ると白い灰の塊が立ち上がった。さらさらと灰が流れ落ちると、そこに制服姿の君依くんが立っていた。

「大丈夫だったの、君依くん?!」


 君依くんは自分の身体を見回す。

「大丈夫じゃなさそうだよ、斎原。ぼくのネコ耳と尻尾がない」

「いいんだよ、そんなもの無くなったって」

 わたしは君依くんに抱きついた。


「ああ、そうだ。斎原、これ……」

 君依くんは足元からそれを拾い上げた。半分焼けた本だった。わたしはそれを受け取った。わたしが読みかけていた源氏物語だ。

 でもそれは、雲隠の表題を残して後は焼失してしまっていた。

「焼けちゃってたよ。ゴメン、間に合わなかった」

 わたしはボロボロと涙をこぼしていた。


「ごめんよ斎原。ぼくがもっと早く戻っていれば」

 君依くんはわたしの頭を撫でながら言った。

「違うよ、君依くん。違うんだよ。……ごめんなさい、ごめんなさい君依くん」

 困ったように、おずおずと君依くんはわたしの身体に手を回す。


「でもどうする、斎原。みんな消えちゃったぞ」

 わたしは辺りをもう一度見回す。

 そうだ。家も、家族だった人たちもみんな消えてしまったのだ。もう、ここには居られない。

「この世界から脱出する鍵は、お寺にあるかもしれない」

「寺? ああ、経典をどうとかいうお告げがあったんだね」

 君依くんは頷いた。


 歩いていても時間の感覚がない。何日も経過したようでもあり、ほんの数分だったような気もする。いつしか、わたしたちは立派な山門の前に立っていた。

 そこには額が掲げられ、『石山寺』とあった。


「やはり、ここに来ることになったか」

 わたしたちはその山門をくぐった。

 

「斎原、このお寺はなに?」

「それはね……」

 かの紫式部で有名な石山寺すら知らないという、無知な君依くんに教えを垂れてやろうとした、その時。


「その格好は、どうされたのですか」

 後ろから声を掛けられた。振り向くと、女房装束の女性が不思議そうにこちらを見ていた。

 きれいな長い髪。額がひろく、鼻はすらりと高い。決して平安美人とは言えないかもしれないが、現代でいえば相当の美人だ。

 その証拠に、君依くんが魂が抜けたようにその人を凝視している。

「君依くん、見過ぎっ!」


「それって学校の制服でしょ。もしかして、東雲高校かな」

 その人がわたしたちを指差す。

「は、ええ。そうです」

 そうか、今のわたしたちは制服姿なのか。


「は?」

 普通に納得しかけたけど。なぜこの人はそんな事を知っているのだ。しかも高校の名前まで。

「ああ。時々迷い込んでくるのよ、君たちみたいな人が」

 そう言うとにっこり笑う。

「失礼ですが、あなたは」

 

「うーん、どう言えばいいのかな。若紫ちゃんこと紫式部大先生の弟子で、いまは安倍晴明さまの式神もやってます、末摘花すえつむはなといいます」

「ああ、女優の」

 すぐに君依くんが声をあげた。バカかこいつは。

「それは杉咲……いや、とにかく違うから」


 じゃあこの人は。

「源氏物語で最強のブスじゃないですか」

 いや、本人はこんな美人だけど。


 わたしは絶句した。



 ――― 物語のこともうち絶え忘られて、などて、多くの年月を、いたづらにて臥し起きしに、行いをも物詣でをもせざりけむ。光源氏ばかりの人はこの世におはしけりやは。薫大将の宇治に隠し据ゑたまふべきもなき世なり。―――




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