第8話 斎原さん源氏物語を耽読する
吾輩はネコである。……嘘です、君依かがりでした。
ぼくは右足で耳の後ろを掻く。段々とネコに近付いているのが実感できる瞬間だ。はやくこの世界から脱出しなきゃいけないのだけれど。
「おーい、斎原。もう始まってるよ」
几帳の向こうに声をかけるが、まったく反応がない。いや、正確には「むふ、むふふふ」とか変な声がしているけど。
ぼくの幼なじみの折木戸しずくも、本を読みながらこんな声を出している事がある。あれはBLコミックだったが、斎原がいま読んでいるのは源氏物語らしい。
親戚のおばさんから全巻揃いで貰ったのを、ここ数日読み耽っているのだ。
可愛がってくれたお姉さんも月に帰ってしまったので、ぼくは暇で仕方ない。まあ、暇なのはさておき、斎原に物語を進めてもらわなければ。
幸いぼくは周りからはネコに見えているらしい。女性の部屋に入っても怒られることはないだろう。
そろそろ、と部屋の奥へ入っていく。
やはり斎原は寝そべって本を読んでいる。時折、両脚をばたつかせているので、制服のスカートが捲れ上がりそうだ。見ていて、もどかしい。
「これはぼくにスカートをめくって欲しいという事ではないだろうか」
そうだ。これでもぼくたちは、いとこ同士なのだ。お互い言葉にしなくても伝わるものはあるからな。
だったら、その期待には応えなければならない。だてに斎原の従僕と呼ばれているのではない、という所をお見せしよう。
ぼくは斎原の背後に忍び寄ると、学校の規則と1センチも違わない長さの、斎原のスカートの裾に手を伸ばす。
「じゃあ失礼しまーす。……ふぎにゃっ!」
もう少しで太ももの奥が見えそうになったところで、斎原の後ろ回し蹴りがぼくの顔面に炸裂した。
「何してるの、君依くんはっ!!」
真っ赤になって怒っている。寝そべった態勢から後方に蹴りを放つとは、相変わらず恐るべき斎原の身体能力だ。
「斎原の防衛体制を確認しただけだよぅ」
「ふん。わたしのイージスシステムを甘くみているのね」
たとえ眠っていても、こういった危機が迫ると発動するらしい。
「だけど、もう物語は始まってるよ。斎原、今回は主人公でしょ」
なんでまた、ぼくが語りを務めてるのだ。
「早く話を進めてくれよ。元の世界に戻らなきゃ」
「いいの。この源氏物語の原典を読めるなら、主人公の地位なんて君依くんに譲っても構わないんだから」
そういうと今度は仰向けになって本を読み始めた。
「ねえ、斎原」
「むふふ。え、今度は何よ」
「いや……何でもない」
そうやって膝を立ててると、パンツが丸見えなんだけど。
「まあ、いいか。余計な事は言わなくても」
――― 人もまじらず几帳の内にうち
☆
「ああ、夕顔になりたい」
斎原は本を閉じて呟いた。顔がうっとりと蕩けている。
これはまずい。本の世界に入り込んだ時の斎原の顔だ。当分こっちの世界には戻って来そうにない。
「え、斎原ってかんぴょう巻が好きだったっけ」
たしか夕顔の実を薄く切って干したものが
「聞いてよ君依くん。かんぴょう巻なら低カロリーと思って食べてたら、意外にそうでもないんだ。こんな事なら遠慮せずマグロとかも食べればよかったよ」
かんぴょうダイエットに失敗した事があるらしい。
「えーと、何の話だ。『更科日記』って、お蕎麦屋さんの話じゃなくて、お寿司屋さんだった、ってことか?」
「君依くんが訊いて来たんでしょ。それに更科じゃなくて更級だからね」
そうだ、夕顔の話だったな。じゃあ何、夕顔って。
「夕顔の君って、源氏物語のヒロインの話だよ」
「ほう」
「夕顔は光源氏に見いだされて、廃墟のようなお屋敷で二人だけの夜を過ごすの。ああ、なんてロマンチック」
「ここも似たようなものだと思うけど」
この屋敷もかなり古い。お化けも出そうだし。
「これで君依くんが光源氏なら良かったのに。そうだ、覆面をしてくれない?」
「なんで。そういう趣味なの?」
結構、
もう知らない。この場で、ふて寝してやる。
「でもね。ある朝、覆面をとった光源氏に言ってやるの。なんだ、思ったほどじゃないですね。これなら君依くんの方がずっと素敵です、ってね、きゃー、言っちゃったよ。……おい。聞いてる、君依くん?」
「へ? ご免。居眠りしてた」
「おのれ、君依かがり。そこへ直れ!」
あれれ。なんで、ぼくは斎原に怒られてるんだろう。連敗記録がどうとか言われても、ぼくには分からないし。
がみがみと怒り続ける斎原を見ながら、ぼくはため息をついた。
それでなくても『更級日記』の世界に閉じ込められているのに、そこからさらに『源氏物語』に入り込むなんて。
「頼むから帰ってきてくれ、斎原ぁー!」
――― われはこのごろわろきぞかし、さかりにならば、かたちもかぎりなくよく、髪もいみじく長くなりなむ、光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめ ―――
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