第4話 森の向こうへ

 目当てのものはすぐに見つかった。


「ホント、こんなので大丈夫なのか?」


 心配げに問うラスラ。イオは答えられなかった。確証があるわけじゃない。

 イオは地面にかがみこみ、自分の顔より大きなすずかけの木の葉にオオカミのふんを乗せた。

 それを持ってきた木の枝に細いつたを使って巻き付けると、イオの即席の武器が完成した。


 イオは腰を上げ、ぐるりと見回した。


「もっと拾っとこう。たくさんあった方が目くらましになるからね」


 ここのオオカミたちは大家族だったようだ。二人はそれほど苦労せずにふんを見つけた。あれよあれよと言う間に、すずかけの葉に収まらないほど集まった。


「じゃ、さっきの所に戻ろう。あいつがぼくらの狙いに気が付かなければいいけど」


 オオカミのふんは燃やすとものすごい煙と鼻が曲がりそうな匂いを発する。村でも獣避けや何か緊急事態の時の連絡手段として使われていたのを、イオは思い出したのだ。


「双眼鏡でやっと見える距離なのに、あの番人がどうしてぼくらの場所を見つけることができると思う?たぶん、あいつはとても鼻が利くんだ。さっき追いかけてきた時だって、鼻がひくついているのがちょっと見えたしね」


 先程登った木の下で、適当にかき集めた落ち葉の山に火打石を叩いた。


 火が点いたのを確認して、二人は運んできたオオカミのふんをわき立つ煙の中に放り込む。

 そっと落ち葉の下から息を吹き込むと、火は一気に広がった。


「どうだい、様子は?」


 再び木に登ったラスラに呼びかけて見た。

 ラスラは答えようと口を開きかけたが、声の代わりに盛大にくしゃみが出た。


「うー、たまんない!煙が目にしみるんだ」

「真上に登るからだよ。他の木に登ればよかったのに」

「登る前に教えてくれよ」


 ラスラはぶすっと言った。


「でも、イオの言う通りみたいだな。あいつ、煙に驚いてあちこち行ったり来たりしてる」

「こっちにやって来る前に移動しよう。たぶん、こんなの時間稼ぎにしかならないもの」


 風はちょうど二人のいる所から結界に向かって流れていた。星の主もどうやら二人の味方をしてくれているようだ。イオはラスラが下りてくるのを待って、茂みにまぎれた。


 番人と鉢合わせにならないように、二人は大きく迂回しなければならなかった。


 急いでいたため、二人はコートをあちこち枝に引っかけた。しかしコートを脱げばあっという間に傷だらけになってしまうのため、しっかりと羽織っているしかなかった。

 ソライモムシの糸は弾力があるので、そうそう破れることがない。さらに通気性もよく、風さえ吹けばずいぶん涼しかった。


 ラスラもイオも無言だった。時々立ち止まって進むべき方向を確認したが、その時でさえ喋らなかった。番人にいつ気取られるか分からなかったからだ。

 進むにつれて自分たちの起こした煙が鼻につくようになり、風下までやって来たことが分かった。


 あいつは来てる?とラスラが身振りで聞いてきた。


 イオは双眼鏡で見回したが、あの黒い影を見つけることはできなかった。結局、分からない、と首を振ってみせた。


 もしかしたらあの煙で鼻がやられて、二人の居場所が分からなくなったのかもしれない。このまま番人に気付かれることなく結界まで辿り着けるのではないか。そう思い始めた時だった。




 地面が震えるようなすさまじい咆哮がした。




 二人はびくっと震えた。


 気付かれた。


 顔を見合わせ、結界に向かって一目散に逃げ出す。

 背後でばきばきと幹が裂ける音がする。だめだ、とイオは思った。このままではすぐに追いつかれてしまう。


「火!」


 イオが叫ぶと、ラスラは戸惑って火打石を握った手を迷わせた。


「点けてる暇なんかないって!」

「このままじゃ結界に辿り着く前に二人ともやられるよ。いいから貸して!」


 有無を言わさず火打石を奪い、イオは立ち止まった。持ってきた枝の先端に火を灯そうとする。


 しかし手が震えて石がこすれず、なかなか枝に燃え移らなかった。


 心臓が早鐘のように鳴っている。


 少し走ったせいだろうか? それとも恐怖のせい? イオは焦って、火を点けることしか考えられなくなった。


 石ではなく自分の指に思いきり打ち付けてしまい、イオは思わず悪態をついた。



 そして突然、それではだめなのだと思い至った。



 ここは結界の近く。どんな動物も鳥も近寄らない聖域だ。だから勝手にこんな所までやって来て荒らし回っていれば、怒られるのは当然のことなのだ。


 イオはとっさに森を称える言葉を口にした。母さんが薬草を取る時に決まってささげる祈りだった。星の主の真名を借りて祝福し、そして森を騒がせてしまうことに許しを乞うた。


 すると、不思議と動悸は静まった。手の震えが収まり、冷静さを取り戻す。


 イオはもう一度火打石を叩いた。


 一発で火花がすずかけの葉に移った。


 その瞬間、イオの近くを何か鋭いものがかすめていった。

 ラスラの矢だ、と分かったのは、再び苛立った咆哮が聞こえてからだった。番人はもうすぐそこまで迫っていたのだ。


「くそっ、どんだけ素早いんだよ!」


 ラスラは続けざまに二発矢を放つ。


 一本は身を翻して避けられた。二本目はあの長い腕を振り回して叩き落される。

 しかしラスラが時間を稼いでくれたおかげで、枝の煙はみるみる立ち上り始めた。


 イオが枝を突き出すと、番人の足が止まった。嫌がるように顔をそむける。鼻がよすぎて匂いが苦痛なのだ。


「ラスラ、走れ!」


 枝を突き出しながらイオは叫んだ。


 二人と番人の追いかけっこは、膠着状態を維持できるかどうかの戦いだった。風が強く吹いたり、茂みをかき分ける時に少しでも枝を引いたりすれば番人はすぐさま距離を詰めようとした。その度にイオは立ち止まって枝を向け、番人を退かせなければならなかった。


 しかも問題は、すずかけの葉が燃えきる前に結界まで辿り着かねばならないことだった。まずいことに、風が強いせいか枝の先端は勢いを上げて燃えていた。


 煙が弱くなってきて番人との距離が狭まってきた時、ラスラが怒鳴った。


「見えた!すぐそこ!」


 一瞬、イオの注意が後ろに逸れた。

 その隙をついて、番人がイオに襲いかかろうと地面を蹴った。侵入者を結界に近付かせまいと、番人も焦ったのだろう。


 イオは番人の鼻っ面めがけて枝を投げつけた。もう狼煙はくすぶっている程度で役に立たなかった。


 イオの前には、確かにきらきらと光る壁が見えた。近くで見ると、細かい星くずが散っているようだ。ゆらゆらと揺れている結界は壁と言うより輝くカーテンである。こんな時でなければ、立ち止まって見惚れていただろうと思うほど美しかった。




 番人は怒りに吼えた。木々をなぎ倒さんばかりに、猛然と二人に迫る。




 結界が通れなかったらどうしよう、とイオは思った。だけど杞憂だった。少し前を行っていたラスラがなんの抵抗も受けずに結界をすり抜けたからだ。


 イオも懸命に走った。結界さえ超えれば番人は追ってこないだろうと理由もなく確信していたのだ。


 だが、番人もイオのすぐ後ろにいた。長い腕をイオの背中に伸ばして引っ掻く。この時ほどソライモムシのコートを持ってきておいてよかったと思ったことはない。番人の爪はコートの上を滑るだけで、イオを傷付けなかった。



 あと十歩足らず。



 間に合わない、と思った。



 この十歩を走り切る前に、番人はイオを押し倒して長い牙を突き立ててしまう。


 イオは目をぎゅっと閉じた。








 ところがその瞬間は……来なかった。








 不審に思う前に、イオは残り十歩を走り切った。生ぬるい水に入るような感覚を覚えて、結界を超えたのだと知った。


 とっさに振り返ると、番人が立ち止まっているのが見えた。


 イオではなくどこか虚空を見上げている。天上の誰かの声を聞いているかのようだった。そしてイオに目を戻し、番人は憎々しげに顔にシワを寄せた。


 だが、それもすぐに結界の揺らぎにかき消されて見えなくなってしまった。水面の幻が消えてしまうのによく似ていた。

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