第3話 獣は嗤う

 イオとラスラはお互いがつかまり立ちを始める頃から一緒だった。

 家が近かったせいもあるが、なにより村には子どもが少なかったからだ。同じ年の子どもは二人しかいない。


 だからイオとラスラは当然のように二人で遊び、どこへ行くにも二人で行動した。


 だけど不思議なくらいに二人の性格は真逆だった。

 イオは物静かで何かをする前にはじっくり考えなければ気がすまないたちである。また生来の旺盛な好奇心から、本を読みあさったり人の話を聞いたりするのが好きだった。

 ラスラの方はといえば、考えるより先に行動するのが常で、特に狩りの時にその才能を発揮した。幼い頃から村はずれの森や川沿いを探索しているためか危険や敵意に敏感だったのだ。


 しかし、ラスラが野うさぎの穴の場所を次々に言い当てた後に、驚いたイオがどうして分かったのかと尋ねると決まって「なんとなく」としか返事は来なかったが。


 なにせ二人は互いの足りない部分を補い合う形でうまくやってきた。




 二人がひそかに村を出てかなりの時間が経った。イオは木々の間から太陽を見上げて、思ったより西に傾いているのに気が付いた。


「ちょっと休まないか、ラスラ」


 ナイフでつたを切って道を開いていたラスラが振り返った。


「なんだよ。もうばてたのか?」

「狩りで通る道から、もうだいぶ離れたじゃないか。これからもっと険しい道になるって気がするんだ。一度休んでおいた方がいい」


 まだ大丈夫なのに、とぶつぶつ言うラスラだったが、近くの木の根にどすんと座った。こういう時の助言において、ラスラがイオに逆らうことはないのだ。


 イオも腰を下ろして水袋をベルトからほどいた。中には水のほかに腐るのを防ぐための薬草も入れられていた。口に含むと薬草独特の香りが鼻に抜ける。

 ラスラにも渡すと、少し飲んだ後にひどく顔をしかめた。


「結界ってあとどれくらいなんだろうね」


 ちゃんとじい様に聞いておけばよかった、と思った。でもそんなことをしたら、きっとぼくたちの考えていることがばれていただろうな、と思い直す。

 ラスラは水袋を突き返して、ぐるりと周囲を見渡した。


「もうそんなに遠くないと思う」

「どうしてそう思うの?」

「静かなんだ。鳥の鳴き声が全然しない」


 はっとしてイオも耳をすました。

 聞こえてくるのは風に震える葉っぱのざわめき。たまに近くで虫が呼ぶが、確かにラスラの言う通り鳥の鳴き声は全く聞こえなかった。

 イオは言われるまで気が付かなかったが、よく森に狩りに来るラスラはいつも耳にする声が聞こえなくて落ち着かないのだろう。膝小僧をなでながら周りをしきりに気にしていた。


「そういえば動物の姿も見えないな。村の近くだったらイタチやキツネの足跡があちこちにあったのに」


 背の高い茂みやまるまる太った木々に囲われているから、見つけられないだけだろうか。ラスラはさっぱり分からないという様子で首を振った。


「それにしたって変だ。静かすぎる。なわばりを示す遠くの鳴き声だって聞こえやしない。もともとこの辺一帯には近付かないようにしているみたいだ」


 ラスラの直感が警告している。

 イオはうなじに手を回してなでた。考え込むと時のくせだ。そしてラスラの見ている前でさっと立ち上がった。


「やっぱりもう少し進もう。この先で隠れられる所を見つけて、そこで休んだ方がいい。食べるものだって調達しなくちゃ」


 食べるものと聞いて、ラスラはがぜんやる気が出たようだ。特に文句も言わずイオに従った。



 今度はイオが前に立って道を作る役になった。ラスラのナイフを借りて行く手を阻む枝を切りよけながら、イオは考え続けた。


 ラスラの言う違和感がやっと分かったからだ。


 鳴き声だけじゃない。クマやイノシシといった大きな動物が通った跡さえないのだ。これだけ食料となる果実やキノコであふれているのに。わざとここに来ないようにしているとしか思えない。

 最初に異変に気が付いたのは、やっぱりラスラだった。


「イオ」


 静かに、しかし鋭くラスラが呼んだ。

 イオが立ち止まって肩ごしに見ると、ラスラの目がどこか遠くをにらんでいた。


「なんかいる」


 二人の周りはいまや恐ろしいくらいの静寂に包まれていた。

 イオはすぐに息を飲んだ。

 二時の方向。

 ラスラがまっすぐ見ている方から、風の音とは明らかに違うかさかさという音がした。

 音の主はこちらが動きを止めたのに気が付いたのだろう。再び静寂の中にまぎれた。


「一匹。だけど大きい」


 ラスラが弓に矢をつがえた。

 ラスラの黒い目には向こうの姿が見えているようだった。弓の弦を引き絞り、迷わず音の正体を狙った。


「おれが矢を打ったら、来た道を全速力で走れ」


 イオは胃がきゅうっと縮まる思いがした。分かった、とラスラに向かってうなずいてみせる。

 ずっと弓を張り続けるにはかなりの力が必要だ。ラスラは一度弦を緩め、矢をにぎり直してから一気に引いた。


 ひょうっと、風が裂ける音。


 それを合図にラスラとイオはきびすを返し、脇目もふらずに駆け出した。

 来た道を引き返す理由はかんたんだ。一度草木をかき分けた道の方が逃げやすいから。


 ラスラの矢は当たったのだろうか?

 振り返って確かめることはできなかったが、予想よりすぐそばで枝が割れる音がしてイオは血の気が引いた。



 追って来てる!



 地面を這うつたや木の根で何度も足が取られそうになった。左右から突き出た枝で体中がひっかかれた。それでもラスラもイオも走る速度をゆるめなかった。


「イオ!」


 ふいにラスラは叫んだ。

 イオが地面から浮き出た木の根に足を取られて転んだからだ。

 したたかに打ち付けたひじや足の痛みよりも、今にも得体のしれない獣が覆いかぶさって来るのではないかという恐怖の方が強かった。


 とっさにイオはずっとつかんでいたラスラのナイフを背後に突き付けた。



 ナイフは空を切る。



 そんなばかな。さっきまでずっと背中に張りつくような気配を感じていたというのに。


 弾む息をそのままにイオがきょろきょろと見回していると、ふと自分の呼吸音に別の吐息が混じっているのに気が付いた。


 イオのすぐ隣の茂みに、はいた。


 幸いにして、襲ってくる気配はなかった。ただイオには、その獣の息遣いが二人を嘲笑しているように思えてならなかった。


 身を固くしているイオの前で、獣はさっと身を翻して森の奥へと立ち去った。茂みに隠れて全体は見えなかったが、その獣はクマよりも大きく、真っ黒な毛皮を持っていて、しかも頭の二倍ほどもある長い牙を持っていたようだった。


「大丈夫か、イオ?」


 ラスラが心配げに戻ってきて顔を覗き込むまで、イオは獣の見えなくなった後姿をぼんやりと追っていた。


「ねえ、ラスラ。ぼく、気が変になっちゃったのかな?」

「安心しろよ。イオが変なのは昔からだ」


 まじめくさった顔でラスラがいうので、イオは笑った。でもあまりの恐怖のせいで、自分でも分かるほど引きつっていた。


「あいつ、笑ったんだよ。まるでちょっとおどかしただけだって言うみたいにさ。そんなことあると思う?」

「なにが笑ったって?」

「だから、さっきの獣さ。ぼくたちのこと、遊んでるみたいだった。ぼくを襲わなかったのがいい証拠だろ」


 言いながら、イオの目はラスラがまだ矢を手に持っているのに止まった。


 ラスラはイオを助けようと弓を引いていたのだ。


 ラスラは決まり悪げに矢をえびらに戻した。


「もう少し近付いてきたら撃ってやろうと思ってたんだけどな。確かにあいつ、おれたちを傷付けるつもりはなさそうだ」

「ああいう獣は見たことある?」

「まっさか!あんなどでかくてすばしっこいヤツ、見たことない。そっちは?」

「少なくとも村の本には書いてなかったな」


 イオはやっと立ち上がって、身体中の葉っぱや泥を払った。

 やっぱり村に帰った方がいいかもしれない。そう提案しようとしてラスラを振り返りかけた時、一瞬早くラスラが口を開いた。


「なあ、ちょっとあいつの後をつけてみようぜ」

「正気か?」

「もちろん。正気も正気さ。あんなにどでかい獣がこの辺りにうじゃうじゃしているとしたら、村に知らせないわけにはいかないだろう。せめてどこから来たのかくらい、確かめなくちゃ」


 反対しようと身構えていたイオは、ラスラの言葉に考え込んでしまった。

 今回はラスラの方が正しい。

 イオは勇気を奮い起こして獣が消えた方をもう一度見やった。


「深追いはよしてくれよ。さっきは気まぐれで見逃してくれたけれど、次もそうだとは思えないから」


 二人は息を殺し、足音を忍ばせて獣の後を追い始めた。

 だけどこれが口で言うほどかんたんではなかった。獣の姿が確認できるほど近付いてしまうと向こうが二人に気が付くかもしれない。だからぎりぎり姿が見えない距離を保ちつつ、獣の残すわずかな足跡をたどっていった。



 どれほど歩いたかは分からない。ずっと歩きづめでイオの足の裏が痛くてたまらなくなってきた頃、先導していたラスラが手を挙げて、この先にいると示した。

 手をずいと差し出されたので、イオは折りたたんでいた双眼鏡をラスラに手渡した。

 双眼鏡を首にさげたラスラが、手近の木にするすると登っていく。どんなコツがあるのか、枝はほとんど軋まなかった。まるでサルみたいだ。イオは口に出さずにこっそり思った。

 ややあって、わっとラスラの驚きの声が頭上から落ちてきた。


「すごい。イオも見てみろよ!」


 見てみろと言われても困る。

 イオの立っている所からは茂みしか見えないし、同じように木に登ろうにも二人も乗ったら枝が折れてしまいそうだ。


 ラスラもすぐに気が付いて、幹を伝って降りてくるとイオに場所をゆずった。


 イオもラスラのまねをして木登りをしてみたが、やっぱりうまくいかなくて何本か枝をへし折ってしまった。もともと木に登るのは得意ではないのだ。


 音が鳴るたびにびくっと身を縮めて、またあの獣が出て来やしないかと様子をうかがった。


 しかし、獣がいきなりぬっと姿を現すことはなかった。


 やっとラスラの腰かけていた枝まで辿り着き、下を見た。こちらを見上げるラスラが小人に見える。突然寒気がして、じっとりと手の平いっぱいにいやな汗をかいた。


 枝が折れませんように。


 ラスラに双眼鏡を投げてもらって、言われた通りに覗いてみた。

 上から見る緑の景色はなんだかだだっ広いじゅうたんの上にいるようだ。茂みのひだの間から黒い獣の姿を探した。


 すぐに見つかった。


「!」


 レンズの丸い視界に黒い影を見つけた時、イオは思わず悲鳴をあげそうになった。

 獣はまっすぐこちらを見ていたのだ。

 双眼鏡越しに見た印象は、クマとも人ともつかなかった。イノシシのように鼻が前に突き出し、耳は人と同じで横についていた。腕が地面にすりそうなほど長くて、逆に足はその体長のわりに短い。肩幅が広く、クマより大きく見えた。


 なにより、鋭い牙が見えている口が、横に引き結ばれていた。


 笑ってる。


 イオは、さっきのは気のせいじゃなかったんだと確信を持った。

 気味が悪くなって視線を上にあげ、イオは今度こそ悲鳴を上げた。


 ラスラの言っている意味がやっと分かったのだ。


 緑のじゅうたんの上、木々の上に広がる青空はきらきらと光っていた。いや、空が光っているのではない。森の向こうのある一面が、なにやらうっすら光る壁にさえぎられているようなのだ。


 あれが、じい様が言っていた結界だ。


 イオは興奮しすぎて、どうやって地面に降りてきたか全く覚えていなかった。不用心なことに、一度はあの黒い獣のことさえ忘れてしまっていた。


「あいつ、あの結界を守ってるんだ」


 イオはようやくそう言った。

 怪訝な顔をつくるラスラに、イオは熱を持って喋った。


「今あいつがいる所、ちょうどあの光る壁の手前なんだ。たぶん、あれに近付く生き物を襲ったりおどかしたりしてだれも通らないようにしているんだと思う。ぼくらのことも気が付いているけど、これ以上近付いて行かない限りは襲ってくるつもりはないんじゃないかな」

「結界の番人ってヤツか。くそっ、あんなの聞いてないぞ!」


 ラスラは悔しそうだった。せっかくここまで来たのに、という気持ちはイオも同じだ。どうせならあの結界の向こうの世界を一目見てみたい。


 いや、待てよ。


「方法は……ないではないかも」

「はっきり言えよ。どっちなんだ」

「諦める前にちょっと試してみたいことがあるんだ」


 イオはちょうど足元に手ごろな大きさの枝(たぶん、さっき木登りした時にへし折ったものだ)を見つけて拾い上げた。


 太さも長さもまずまずだろう。

「ラスラ、この近くにオオカミのなわばりがあるとしたらどの辺りだと思う?」

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