第一章「繰り返す螺旋」1-8

……実際に体験したのか、或いは夢でみたものか曖昧な記憶が何の前触れもなく突然、頭を過ぎる事がある。思い出そうと思えば、思い出せるような気がしても結局はそれが何なのかよく分からないまま終わる。その歯がゆさはまるで一瞬、鮮やかに晴れはするが直ぐに靄がかかって見えなくなってしまうかのようである。この現象は平行して伸びるもう一つの次元を生きる自分と、例えるなら薄い壁越しにすれ違った時に起きる現象だと考えられている。つまりはもう一人の自分が体験した記憶。この事から何かしらの共鳴をするらしい……。



 季節は巡り夏の暑さは徐々に息を潜め始めた。1ヶ月以上の夏休みを終えての学校に体がまだ慣れないというのが通例だったが今年ばかりは違った。3年生は全体が慌しい。

 夏休み期間中に大学、専門学校の説明会、オープンキャンパスへ行って来たという話題が積極的に飛び交う。この時期になるといよいよもう直ぐ卒業なんだと嫌でも自覚をするようになる。

 その輪に入ることなく取り残されたような気分に磯村はなっていた。学校での居心地も次第に悪くなっていく。

 同じクラスの友達も不思議な目で見ている。磯村は直接的な表現で言ったわけではないがこの話題を振った時、全く話が弾まないという事を何度も繰り返していくうちにまさかと思い始めているからだ。磯村は卒業後、進学も就職を考えていないと。何か特別な事情があるとも聞いていない。何を考えているから分からないと思われると次第に接し方にも微妙な変化が生まれていて磯村もそれに気がついていた。


「夏休みはどこにも見学とか行かなかったのか?」

「はい、そうですね。どこにも行きませんでした」

 新学期が始まり、最初の進路相談を1日数名ずつ放課後に行っていた。磯村は担任には卒業後は進学、就職もしませんという態度を明確に表していた。それには担任も困った顔をする。

「前から磯村の考えはなんとなく聞いていたけど、進学しても特にやりたいことはありませんって、それはお前だけじゃないって。専門に行くやつは別だけど、大学に行きたいって言っているやつの中にはとりあえず進学しておいた方がいいと思っているとか、大学進学して今度こそ彼女作りたいとか言っているやつもいるんだぞ。そんな理由でも進学さえすればきっと何かしらの道は開かれると思うから、お前も浪人なんてしないで現役で進学しろって」

「そんな理由で進学する人って多分、大学行っても遊んでばかりで変わらないと思うので、やっぱり何のために大学行ったのか分からないってなりません? 要は大学で何を勉強したいというより、大学の卒業資格が欲しいっていうのが本音だと思うんですよね」

「それで就職する時の選択肢が広がると思えば、それでもいいんじゃないか?」

「選択肢が広がるのはいいことですけどそのためだけに高い学費を払うというのは全然、釣り合っていない気がするんですよね」

 どこかで思っていても誰も口にすることはない、しかし一つの考えとして決して間違っているわけでもない。この高校に集まってくる生徒の中でここまである意味、深く考えているのは磯村くらいだった。他の生徒は進学してまた楽しい学生生活、新しい出会いを求めている、そう思っているのが大半だ。

 磯村は相も変わらずそこに関しては魅力を感じていない。

 1年生の時から優秀だった。戦争と平和に対する磯村の考えを聞いた時、高校生とは思えない深い意見を言った時は感心した。そんな将来を期待していた担任も、とんだ見当違いの方向へ進もうとしている磯村を見て落胆した。できれば進学してからその先の人生について考えてほしかった、そう心の中でため息と共に漏らした。


「待っていなくてもよかったのに」

「いいじゃん」

 面接後、わざわざ終わるまで待っていた真里と下駄箱前で合流した。

「本当に卒業しても進学しないんだ」

「うん、今日もはっきり伝えたよ」

「もったいないと思わないの? ここまでせっかく良い成績残して」

「それも次に繋げるためじゃなくて、その場だけの自己満足だったみたいだから。特に思わないかな」

「でもそう思っていても、ちゃんと高校は卒業するんだから偉いよ。ここにきて、えみとか、やる気ない人は辞めちゃうし」

「原口さんが辞めたのはショックだろう? 一番仲良かったし」

「そうだね」

「俺が……今でも学校に来ているのは、真里がいたからだよ」

「えっ?」

「学校に来れば真里と会えるから、今でも面倒臭がらずに学校に行けているんだと思う。ありがとう」

「いやだ、いきなりそんなこと言って」

 この言葉を聞いて間もないのに涙が零れそうになっていた、それを必死に堪えた。

「これからもよろしく。卒業後もしばらくは真里がいないとやっていけそうにないよ」

「しばらくって、いつまで?」

「えっ、あっ、そうだな、いつまでだろう……」

「ずっとじゃないんだ?」

「ずっと、そうだな、ずっと、これからもずっと一緒にいよう。一人だけじゃあ生きていけそうにない」

「じゃあ私達、結婚するってことだね」

「結婚……それはまだ早いような」

「大丈夫だって。私達に別れるような要素あると思う?」

「ないけど、現実的に考えて今のところ俺の将来は暗いぞ」

「別に何も考えなくてその道を選んだわけじゃないし、心配してないよ」

 少しだけあなたの未来を知っているとはいえない。

 不意に将来の約束をした二人。ここまで交わした濃密な日々を思えばこれは必然とも言えた。手を繋ぎ、今日はいつもよりゆっくりと帰ることにした。


 卒業後も一緒にいよう、そう誓ったのも束の間、磯村は10月から少し脱線してしまう。

 早朝6時頃に、急に今日は学校を休むから好きな時間に学校へ向かってくれというメールが来た。

 それでも真里には会いたいという旨が書かれており学校が終わったら会いに行くとも。

 この急な連絡に良い気分はしなかった。磯村が学校を休む、これだけで真里にとっては嫌な記憶が思い起こされる。ここまで順調にきていたはずだと思っていたのに、知らぬ間に小さな穴が空いており、それが少しずつ広がり始めていたとすれば。

 その辺の危機察知能力は高い。今になってあの時のような気持ちになり始めたのかと考え出したら可愛い顔も台無しになる。それでも違うのは私には会いたいと言っていること。そこに救いがあったがまさかこのまま学校に全く来なくなってしまうのではないかという最悪の想定も頭に浮ぶ。このままにしては駄目だ、そう直感的に思った。

 家を出る、なんだか身軽に感じた。それは真里にとっては空しいに等しかった。あの辛かった日々が胸に渦巻く。会えないわけではない、そう言い聞かせて今日を乗り切ろうとした。

 真里が改札を出るとそこには既に磯村が待っていた。今日はやはりと言うべきか二人の間に気まずい空気が流れる。

「どうして学校休んだの? 元気そうじゃん」

「ごめん。正直、言うと、俺の中ではもう学校に行く意味があまりないんだよね。だからちょっと行く気が無くなって。でも真里には会いたいから」

「そんな事言って卒業できなくなるくらい休んだらどうするの?」

「そこは気をつけるよ。バイトがある日は行こうと思っている。平日は制服着て出勤しないと怪しまれるし」

 そんなことだろうとは予想していたので驚きはしなかったが、不満な顔は隠さない。こうして会いに来てくれても学校に行きたくないという気持ちの方が勝ってるように聞こえるからだ。

「これからは私を学校では一人にする気なんだ」

「一人ってそんな大袈裟な。他に友達もいるわけだし」

「友達と彼氏が同じ存在なわけないじゃん。ずっと一緒にいようって言った後にこれはないんじゃない?」

「そうだけど、学校卒業するあと少しの間たまに学校では会わなくなるだけじゃん。その先もずっと俺達が一緒に過ごす日々は続くわけだし、その中のほんの僅かな……」

「その先もずっと続く? そんなこと誰が保証してくれるの」

「えっ……」

「ごめん。せっかく来てくれたところ悪いけど今日は帰って」

 足早に真里は去っていく。その背中を見送ることなく磯村は立ち尽くした。

 もうあんな風に険悪な空気の中、別れることなんてないと思っていたがそれもまた不意打ちのように訪れた。一度過ごした過去と違うけど、どこか似ている。

 何の前触れも無く、永遠の別れを余儀なくされた真里にあの言葉は聞き捨てならなかった。こっちはそう信じていたところに、奈落に突き落とされたのだから。

 この先どうなるのだろう? このままだとまた会いづらくなる。そうなることを恐れて磯村の態度をじっと我慢するという気にもなれなかったのもまた事実。

 今は一刻も早く部屋に閉じ篭ってベッドの上で瞼を閉じてうずくまりたかった。




 俺はそんな悪いことをしたのだろうか? 別にずっと会わないと言ったわけでもないのに。女というのはやっぱり分からない、男の俺からずればいまいち理解できないところで不機嫌になる。

 なんか初めて喧嘩したみたいに雰囲気が悪くなったな。長く付き合っていけば一度や二度そんなこともあるんだろうけど。

 やっぱり俺が会いたい時だけ会うというのが都合が良すぎるって思ったのか。でも最後の言葉、真里はなんであんなことを言ったのだろう?

 その先もずっと続くって誰が保証してくれる……確かに間違ってはいない。明日、俺が死ぬ可能性はゼロではない。それでも限りなく低い、ゼロに近い。そんな小さな可能性を恐れるなんて真里らしくない。そもそも、そんなこといちいち気にしていたら何もできなくなるし。俺はそんな神経質な人と付き合ってきたつもりはない。やはり、あの震災はそこまで大きく人を変えてしまうだけどの衝撃があったということだろうか?

 ……俺はただ何も考えずに真里と一緒に居たいだけなんだ。学校とかどうでもよくて、周囲の雑音を気にすることなくただ……でも真里は進学する以上、学校を疎かにするわけにはいかないか。

 いずれにせよあそこまで俺を愛してくれている人を不機嫌にしてしまったのは申し訳ない。謝った方がいい、今すぐに。このまま帰る事はできない。




 磯村は真里に電話をした。あんな事があった直前に電話するのは勇気がいる、気まずい、色々な感情がぐるぐる回るが、それよりもこのまま帰ってしまう方が何倍も辛いと判断した。だから、すんなり通話ボタンを押す事ができた。

 自宅マンションにもう直ぐ着く真里。そこに携帯電話が震える。ディスプレイを見ると磯村からの電話だと知る。気分は最悪のはずだったが、妙に嬉しいというのか安心したというのか、とにかく多少、気分は緩和された。

 それは彼の方から、しかもこんなにも迅速に再び接触を試みてくれているからかもしれない。真里は電話に出る。

「なに?」

「あっ、真里、その、さっきはごめん。あの時は自分の事しか考えていなかった。今の俺には、真里がいないと、生きている意味が無くなるんだ、だから許してほしい。それを言った矢先、学校では会わなくていいだろって言っちゃったから信用できないのかもしれないけど、これは本当。言い訳に聞こえるかもしれないけど卒業後、進学も就職もしないなんて人、俺だけだから居心地が悪いのも分かってくれよ。真里はそんな俺を気にしていなくても、周りはそんな奴と付き合っている女子っていう風に見られているかもしれないって思うとなんだか耐えられなくて、それで……」

「もう分かったよ」

「えっ」

「今どこにいるの? けっこう個人的な事、ペラペラ喋っているけど周りに人いないの」

「人は、まぁ、それなりにかな」

「うちに来て。よくそんな事、大勢の前で言えるね」

「あっ、ごめん。でもちゃんと聞いている人なんて多分いないと思うよ。じゃあ今から向かう」

 電話を切る真里。「ふふっ」と言いながら表情筋が上がった。あんな風に謝る彼を初めて見た。正確には電話越しではあるがオロオロしている姿は容易に想像できる。情けない姿のようにも見えるが真里は好意的に捉えた。いつもは私が追っかけていてばかりだった。追いついたと思ったらまた離れていく。でも今日は違った。拒む態度を見せたとしても彼は必死に追っかけて来てくれた。何かが変りつつある。しかもこちらの望む変化が。

 チャイムが鳴った。扉を開けるとそこに下を向きしょんぼりした磯村が立っていた。真里が出てくると多少、明るく振舞おうとした。

「あっ、真里、もう一度言うけどさっきはごめん」

 その言葉に真里は返事をしない。沈黙が流れる。

「入っていいよ」

 そう言うまで動く気配がなかった。扉が閉まる音。靴を脱ぐ事もしなさそうだ。

「落ち込んでいるね。どうすれば元気になる?」

「えっーと、真里が許してくれるって言ってくれたら、かな?」

「許すって言えばいいの。別に一生許さないつもりなんてないけど、恭ちゃんは今日、私と会って何をしたかったの?」

「それは、やっぱり、楽しくイチャイチャと……」

「じゃあ、しよう。好きにして」

 そう言われても困るものがあった。なかなか手も足も動かない磯村。

「どうしたの?」

「本当にいいの?」

「今更なに確認しているの? 私たちどういう関係だと思っているの?」

「じゃあ……」

 磯村を靴を脱ぎ直ぐ後ろの壁に真里を寄りかからせた。両手を下に伸ばして制服のスカートを捲り上げる。

「あっ、下、黒パン履いてたんだ。脱いだ方がいいよね」

「俺が脱がすよ」

 そう言うと真里を足を伸ばして座らせる。その状態からスカートの中に手を入れて体操着のような黒い短パンを脱がせる。引っ張られるとずれ下がり腰を床に着けてしまう。黒い短パンが脱がされると膝を曲げて足を着ける。三角の形をした白いショーツが露わになる。足と足の間に入り込み真里を押し倒す。そこからキス攻めにあう。短く声を発して時々、喘ぐ真里。セーターを脱がされて白いワイシャツのボタンを外す。久しぶりに……と思うも忘れていた。初めてだ。それでもタイミングが早かった。これはそれだけもう二人の仲は深いところへ来ていると言えるのではないか。あとはいつ最後までいけるかだ。それには……。

『ゴムがないね』

 そう言われてあの時はお預けになったのだ。なら今日も。でも、真里は、湿っていると分かる下の部分を感じる。

「きょうちゃん……下、触って」

 なんとなく意味は分かったがどうすればいいのか、戸惑いがあった。とりあえずおそるおそる触ってみる。少し冷たかった。人差し指、中指の二本を動かし刺激してみる。

「あっ、ああ」

 それと同時に深い口づけ。きっとこの先、卒業してからはもっといい感じになるはず、そんな想いを馳せた。

 ただ無我夢中で動かす事しかできなくなっていた。顔は無表情。そんな事は気にする事なく彼女もまた無我夢中になっていた。途中から楽しくなってきたと言わんばかりのとろける笑顔になる。姿勢を変えて真里は磯村から背を向けて体を委ねる。両足はだらんと大きく開いている。そこからはもう勢いを衰えさせる事は許されなかった。その笑顔にも変化があり何か一点に集中しながら陰りがみえた。苦しんでいるようにも見えたが絶え間なく何を望んでいる顔。

 そこから数十分後——

「あっ、あぁっ……うっ、うっ……」

 すごい形相だった。両足を勢いよく閉じて磯村の右手が真里の内股に挟まる、弾力がある感触。斜め下を向いて顔全体が歪んでいる。僅かに痙攣にも似た震え、それが数秒続いた。

「はぁ……」

 息を吐いて真里が首を動かして磯村の方を見つめる。疲れが見えていたが満足そうな顔になっていた。

 磯村の濡れた指をじっと見る。その視線に気がつき指を動かすと粘っこい半透明な線が出てきた。

 ものすごいものを見た。当事者でありながら傍観者のような感想。放心状態で何も声が発せなかった。

 この気持ちは前にも感じた事がある。それは小学5年生の頃。昔の事でも強烈に刻まれている記憶。一人でも電車に乗ってどこかへ行けるようになっていた。地下鉄の駅に乗るべく階段を降りようとする。その数メートル前方に20代後半くらいの髪の長い女性が先に階段へ降りようとしていたが、下から強い風が吹いており女性の膝より少し下くらいまで長い白のスカートが大きく捲りあがった。急いでその女性は前は押さえるものの後ろはカバーできず白い下着が丸見えになってしまった。風は容赦なく吹きつける、見えない何かに襲われているように女性は困惑の表情を浮かべてスカートを懸命に押さえるが風の方が優勢であった。女性はたまらずしゃがみ込んでしまう。

 その様を磯村は硬直したままただ見つめていた。小学生には刺激が強い光景だった。高鳴る胸、乾いた喉。ただずっと見ていたいと思っていた。今でも時々あの光景を思い出しては息が荒くなる。

 今もそれと状態は何ら変わらない。そういった刺激にも慣れてきているつもりだったがこの光景は別格であった。できれば今度こそ動画にでもおさめて繰り返し見たいくらいだ。今度もう一度やってもらおう、早くもその欲が頭を過ぎった。

「恭ちゃんもやってあげようか? その代わりこれからも卒業まで学校に来る事が条件だけど」

 自分は別にどうでも良かった。が、彼女の機嫌を損なわせるわけにはいかない。もっと彼女とは楽しい事ができる気がしてきた。



 ずっと気になっていた。しかし、どうすることもできない。誰にも相談できない。生活に支障があるわけではない。

 凛があの日を最後に顔を見せなくなった。

 だからその前に日本を案内してほしいと頼んだのか。もしもそうなら色んな事に気が回る凛である、別れ際に暫く会いに来れなくなるなら何か一言あってもいいはずであった。

 なぜなのか見当がつかない。何かトラブルでもあったのか、どうしても嫌な方向へ想像を膨らませてしまう。

 そもそも凛とは、上手く磯村の事故死を回避させることに成功したら、それこそもう本当に会えなくなるのか。生きる世界、時代が違う人である。いつかまた会おうという言葉は通用しない。まさに今生の別れである。

 だったら尚更、もう一度会って、ちゃんと話しをしたい。ありがとうも言えぬまま別れるのなんて嫌だ。

 真里はいつも凛が訪れそうな時間帯にはなるべく部屋に居て、今日も会えることを願った。

 玄関の鍵を開ける音がした。母か父、どちらかが仕事から帰って来たようだった。こうなると今日も来ないであろう。天井を見上げる真里。このまま凛の存在も、タイムマシンも夢の話になりそうな感覚さえした。幼い少女が体験した不思議なお話のように。



 なぜ落ちてしまったのかなんとなく分かっていた。それでも推薦をもらったのだからという甘い考えがあった。

 出願した時点で悪い印象を与えてしまっていた。大学へ提出した願書に入れ忘れた書類があったという痛恨のミスを犯してしまう。しかもわざわざ大学側から連絡が来てそれに気がついた。大急ぎで真里はコンビニに行きファックスでそれを送った。

 悪い事はさらに続いた。試験一週間前に高熱を伴う風邪をひいてしまい、試験当日までには熱は下がったものの声は明らかにガラガラの状態で臨むことになってしまった。面接官からも声が小さくて聞き取りにくいと言われる始末であった。

 そこに追い討ちをかけたのが電車を乗る時間を勘違いしてしまい、大学に着いたのが試験開始時間とほぼ同時であった。入学試験というこの大事な日に、試験開始時刻に集合場所へ着くなどとは遅刻とほぼ同義である。

 最初から最後まで散々だった。もうこんな過ちは犯さないと今度は万全の準備で臨んだ。

 12月23日。合格通知が自宅に届いた。それは磯村とライブへ行く前日の事、真里は最高の状態でその日を迎えられる。


 12月24日。午前6時過ぎ、二人は既に電車の中に居た。磯村の中ではお昼頃に会場へ着けばいいのではないかという考えがあったが真里はそれは甘いと一蹴した。今までのライブの中で一番チケットが取り難かった。アルバム発売に伴い音楽番組出演など積極的にプロモーション活動をして新規ファンの獲得にも成功した模様、これらの情報から察するにツアー初日である今日は場所が首都圏というのもありとんでもない人数のファンが朝早くから会場を訪れてグッズを買い求めるはず、そう見込んだ真里は早朝から家を出て並ばなければグッズを買うのは無理だと磯村を説得した。

 磯村は半信半疑であったが真里は別の歌手のライブの経験から確信があった。

「こんな朝早くから電車に乗るなんて初めてだよ」

 磯村はいつも以上に顔が冴えない、まだライブが楽しみだという感情は湧いていないようだった。

「グッズ欲しいんだったらこのくらい仕方がないよ」

 今日の会場であるさいたまスーパーアリーナまで電車で1時間弱、世間的には休日にあたるため電車内がさほど混雑していないのが救いだ。

「あっ、そういうえば大学合格おめでとう」

「ありがとう、これで私も気が楽になったかな」

「今日はクリスマスイヴでもあるんだよな。真里の誕生日月でもあって、今年は大学にも合格できて、今日はライブ。色んなことが一気にきて忙しいね」

 誕生日、その言葉で引っかかるものがまた込み上げてきた。の誕生日ではあの腕時計をプレゼントされた。今は腕にその腕時計は巻かれていない。二回目の誕生日ではライヴチケットに変わっていた。これはこれで悪くはない。が、でも……という心残りもあった。確かに存在した思い出。それは今の彼と共有はできずに、やがて無かったも同然になるのかと思うと、可哀想に思えてきた。あの時の二人が。

「本当だね。このタイミングでこうして合格できてやっと心から気が休める。今日は思いっきり楽しみたいな。今日の席、凄い良い席なんだよね?」

「うん、アリーナAブロックだから。しかも座席表を調べてみるとちょうど真ん中のブロックのはずだから、最高の位置だよ」

 初めて彼女と訪れるライブに、オークションに出品すれば今回のライブの人気を考えたら数十万の値が付いてもおかしくない良い席を引き当て鼻が高くなる磯村。好きなバンドのライブを良い席で、彼女とみる、これほど至福なひと時はない。

 さいたま新都心駅には7時過ぎに到着した。改札前に人はそれほど多くなかったが、目の前にある会場へ近づくと厚手のジャンバーを着たスタッフが立て看板を持ってグッズ売り場の案内をしていた。その方向へ進むと既に列が出来ていた。

「おっ、やっぱりもう並んでいる人けっこういるのね」

 グッズ売り場の特設テントの前でその列を確認するが、どこが最後尾なのかこの位置からは分からなかった。同じようにスタッフが最後尾と記されている看板を持っている、その矢印の方向へ進むとその列の全容が見えてきた。

 進めどまだ列の一番後ろは見えてこない。気がつけば2、3分ほどは列を辿っていた。ようやく最後尾へ着いた時にはけっこう歩いたという感想を抱いた。

「多分、千人以上はもう並んでいるんじゃない? 私の言った通りでしょう」

 後ろを振り返れば早くもさらに列は長くなっていた。10分も経てばもうどこまで続いているのか、背伸びをしてもここからは確認することはできない。磯村は「そうだね」という言葉しか出てこなくやや気後れしている様子だ。

 当初グッズ販売開始時刻は午前10時を予定していたがあまりにも並んでいる人数が多いことから1時間早く開始するとスタッフが拡声器を使って何度もアナウンスした。

 12月の朝から野外で長時間並ぶのは体に辛い。二人は寄り添いながら磯村が持参したウォークマンでイヤホンを片方ずつ取り最新アルバムの曲を聴いて時間が経つのを待っていた。

 申し訳程度に動く列、それを何度も繰り返してようやくお昼の12時にグッズを買えた。実に約5時間並んだことになる。これだけで午前を費やした。列から抜け出して並々ならぬ解放感を味わう。「やっと買えた」

 そう一言漏らす磯村。さっきまでその渦中にいたグッズ売り場を振り返ると列は途切れる気配はなさそうだった。一体どこからこんなにも人がわいてくるのか不思議にさえ思った。

 会場を背に真里は磯村から買ってもらったライブグッズのマフラータオルを両手で持ち、上に掲げて記念の写真を撮る。そして通りすがりの人に頼んで二人でも写真を撮った。お昼を迎えて会場周辺の混雑はピークを迎えようとしていた。静けさもあった朝とは一転、お祭り状態である。

 お昼ごはんを食べようと一旦、会場から離れようとした時、今からグッズ売り場にお並び頂いても開演には間に合わないという驚くべき案内がされていた。駅近くではチケットを譲ってほしいと書かれた用紙を持った多くの人々。こんなライブを最高の席で今日みられる幸せを今から噛み締めていた。

 やはり近くの飲食店はどこも席が空くまで待つというのが当たり前である。店を選ぶ余裕はない二人は無難によく利用するファーストフード店に入る。そこで開場時間である16時まで時間を潰すことにした。

 ようやく座れる、そう思いながら席に座りコートを脱ぐ真里。その下に着ていた服を見た磯村は眉をピクッと歪ませた。

「(あれ……?)」

 どこかで見たことある服装であった。埋もれかけていた記憶が掘り起こされる。





 今、真里が着ている服って確か、夏に、横浜駅で見かけた時に、一緒に居た友達が着てた服と同じ服じゃないか?

 間違いない、全く同じだ。どういうことだ? 真里の服をあの時、その友人に貸していた? いや、そうだとしてもなんであんな季節外れの服を貸すんだ。そもそも、友人に服上から下までを貸すということ自体があまり考えられない。

 二人が同じ服をペアで持っている、そういうことか。上着だけだったらよく見るけど、上下揃えるなんてなかなかだな。

 本当のところはどうなんだろう、聞いてみたいが今更というのも否めない。聞くとしたらどう切り出そう。その服、夏に……なんだかものすごい長い、説明するのが面倒な質問になりそうだ。

 あの隣に居た子は誰なのかも含めて聞けるチャンスでもあるが、止めておくか。この疑問は胸にしまっておこう。今日は楽しいライブだし。




 決して小さくない疑問を抱えてライブが始まる。予想通り席は最前列から12列目で、区切られているブロック真ん中に座れる番号で最高に見やすい席。その席からの眺めは半ば信じられなかった。こんな大きな会場なのにステージがこんなに近い。もう直ぐあそこにバンドメンバーが立つのかと思うと気分は昂ぶる。

 普段は画面越しでしか見られない人達がそこにいる、夢のようでステージに釘付けになる。ボーカルがこちらに向けて手を振ってくれた、目が合ったような気がした。

 演出で使われた銀テープが頭上からたくさん降ってきた。ベースの人が演奏の終わり際にピックを投げる。

「あっ」

 それが真里の胸元に飛んできた。一度は落とすが直ぐに足元に落ちたピックを拾う。

「やった、恭ちゃん、取れたよ!」

「すげーじゃん!」周りにいるファンもざわついていた。隣にいるファンからは見せてくださいと声をかけられる。終始、笑顔が絶えない最高のライブと言えた。

 ライブの余韻に浸りながら電車に揺られていた。

「楽しかったな。席も最高だったし」

「恭ちゃん、これ、あげようか? どちらかと言えばミーハーな私が持っているより良い気がする」

「えっ、いいよ。それは真里の元へ来たんだから。初めてのライブの思い出の品として」

「でも、チケット代とグッズも買ってもらったし、このくらいのお返しは」

 磯村も内心、そう言ってくれるならお言葉に甘えてという気持ちがあった。メンバーがステージから投げたピック、それだけで何倍もの価値に膨れ上がる。それを手にするのはファンであれば誰もが悲願として思う。

 真里が差し出したピックを手に取る、真里は笑顔で応える。

 急に、あの疑問がまた浮かび上がる。これから先ずっと、この疑問が解消されることはないだろうと悟った。

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