第一章「繰り返す螺旋」 1-7

 日本の夏はいつの間にか危険な季節へとなっていた。あまりの暑さに外を歩いているだけでも体調を崩しそうになる。室内にいても温度管理をしっかりしていないと危ない。最悪の場合、死に至る。それでもこの夏を楽しもうと真里と磯村は8月中旬、ある場所で行われる花火大会へと赴く。

 混雑は必至のイベント。花火会場周辺は移動するだけも苦労する。その教訓から今年はそこから離れた場所で、遠くから花火を見ることに決めた。そんな穴場的なスポットを事前に調べて落ち着いて花火を見て、帰りもスムーズに。そんな賢い選択をした。

 髪型をお団子にして浴衣を着た真里は可愛かった。磯村にも浴衣を着てきてほしいと要望したが着るのが面倒だということでそれを拒んだ。ならせめて夏らしい格好をしてきてほしいと言ったら磯村はヤシの木がプリントされたスカイブルーのアロハシャツにサングラスをしてきた。どこかで見たことのある格好である。

 人はそんなに居ないはずである、そう見込んで花火が打ち上げられるのは19時、その30分前に目的地へ着くように向かった。

「ちょっと行くのが面倒だけどあの混雑を回避できるって考えたらこれで正解だったかもな」

「うん、もう去年は疲れたって記憶しかないし。そういえばさ、さっき返したCD、すごい良いね。ライブに行くくらい好きなんでしょ? 今度あったら私も行きたいな」

「あっ、本当? それは嬉しいな。分かった、次のライブが決まったら教えるよ」

 人もまばらな電車内で余裕な表情で会話をしている時、雨粒が窓に当たった。サーっという音を立てる。これは本降りの雨のようであった。

「えっ、雨降ってるじゃん」

 それとほぼ同時に電車は減速しており目的地の駅へと辿り着いた。とりあえず電車へ降りる二人。雨音に濁音が加わる、瞬く間に土砂降りの雨へと変貌していた。駅のホームに居ても飛び散った雨粒が衣服にかかる。

 改札は出るも、とても駅から出る気にはなれなかった。予報外の豪雨にそこに留まる人は多数おり不満と驚きの声が飛び交う。

「また雨かよ」 大雨でデートの予定が狂う、これも真里は既に経験していた。

 真里は普段出すことのない、締めつけたような声でなにか不満を漏らしているようだった。打ちつける雨音でその声はよく聞き取れなかった磯村だったがその異音に慄いた。

「よし、帰ろう!」

 今度は勢いよく声を発する真里。ちょっとそう決断するのは早いんじゃないかと異を唱える磯村だったが真里の意思は固そうであった。

「傘も持ってきてないし、こんな雨で花火打ち上げると思う?」

 もう1年前、何があったかなど覚えていない事も多いがこの時期、多くの花火大会がこのような局地的豪雨、加えて台風で中止になったということは覚えている。もしかしたら今日の花火大会も中止になっていたかもしれない、そう思えてならなかった。

「そうだけど、もしかしたら直ぐ止むかもしれないし」

 ピカっと閃光が空を一瞬照らす。間髪入れず雷鳴が聞こえてきた。

「うん、帰ろうか」


 先ほど一度降りた電車にまた乗ることになりため息を漏らす磯村。これでは何しに来たのか分からない。

「このまま解散するのも嫌だし今日はうちに来て。帰ってたこぱでもしよう。うちたこ焼き作れる器具あるんだ」

 たこぱ、たこ焼きパーティの略。

「たこぱって流行っているの? それに急にお邪魔して大丈夫?」

「うん。今日はね、うちに誰も居ないの。お母さんとお父さん帰省して今日は帰って来ないから。せっかく恭ちゃんと行く花火大会を優先して私は留守番したのに」

「そうなんだ」

 今日は一日中、真里の両親は居ない。そこへ今から行く。この状況を飲み込んだだけで瞬く間に妄想が頭に浮かび上がる。真里はどういうつもりで誘ったのか? ただ今日は帰れそうにはないとは直感的に思った。思わぬ展開に胸の中では右往左往している自分がいる。なるべく平常心でいようと心がけた。

 ものすごい湿気が充満していたが電車を降りる頃には雨は止んでいた。1時間ほどで止んだ豪雨だったが花火大会は雷も鳴っていることから一発も打ち上がることもなく中止が告げられていた。真里の決断は正しかったというわけだ。

 混雑にも巻き込まれず、体を濡らすこともなく豪雨を凌いだ点では運が良かった二人。駅前のスーパーでたこ焼きを作る材料を購入する。

「もしかして最初からここまで予定していたの?」

「ううん。だったらさすがに事前に言うよ。終わったらうち来ないって」

 花火を見ることができなかったのは残念であったが、こうして二人で夕食の買い物をすることになり、それも悪くないと思っていた。ただの作業となっていた買い物もこうして好きな人と居ることによって、特別な時間になっていく。

 磯村がレジ袋を持ち真里のマンションへと着く。中は当然、暗闇に包まれていた。そこに明かりが点く。隣にはいつもはいない人が居た。

 学校で行われた調理実習以外、料理経験は皆無の磯村はせいぜい卵を割ることしかできずにただ見ているに等しかった。真里の初めてみる料理する姿に感心する。

「あっ美味い。家でもこんな美味しくできるんだ」

 形も綺麗にできたたこ焼きは味も上々だった。予め作れてパッケージされたたこ焼きとは違うなんだか新鮮な、まさにできたてという味が口に広がり磯村の顔も緩む。

 まるで結婚とまではいかなくても、同棲生活を擬似体験しているようだった。真里はいつの間にかこの時間がずっと続けばいいと密かに願っていた。これこそ望んだいた形である。

 食器洗いは磯村がやってくれた。その後デザートに材料と一緒に買ったカップのアイスクリームを食べた。真里がスプーンで掬ったアイスを磯村の口へ運ぶ。ここから発展して口に一度入れたアイスを一方の口に移すという遊びをして楽しんだ。

「うっ、ちょっとこぼれている、やっぱり無理だって」

「すごい甘いキスだね。恭ちゃん寝てよ、上から私が移せばきっと大丈夫」

 真里は興奮気味だった。もうやめようと言っても聞かなさそうなので従うしかない。

 女性が上になり自分の体に乗っている、こんな状態になるのは初めてであった。愛しむような表情で近づいてくる、そこから目を離すことはできなかった。

 触れる瞬間、目を瞑る真里。溶けたチョコレート味のクリームが磯村にも共有される、この味以上に甘い何かを感じ取っていた。これは真里の唇の味なんじゃないか、そうも錯覚していた。

 唇を離して咳き込む真里。

「上手くいったかな?」

 じゃれ合いの中で真里の浴衣はだらしなくはだけていた。下に目線をやると太ももを覗かせる。その視線に気がついた真里は――

「どこ見ているの?」

 やや怒った口調で言うものだから磯村は咄嗟に、申し訳なさそうに斜め下を向く。立ち上がる真里。後ろを向いて乱れた浴衣を一旦は直すが。

「嘘だよ」

 そう言いながら微笑む、そして振り向き大胆に右の太ももを、磯村に惜しげもなく披露した。それをただ黙って眺める磯村。目線を逸らす事ができなかった。

「汗かいているし、シャワー浴びようか」

「い、いいね。じゃあ真里、お先にどうぞ」

 それを聞いて同意はできないという表情だった。まだやっていない事をたった今、見つけてしまったからだ。

「一緒に浴びない? あっ、なんならお風呂も沸かすけど」

「い、一緒に? それは……」

「嫌なの? 一緒にお風呂入るの」

「嫌ではないけど……いきなりプライベート空間を共有する心の準備が」

「いいじゃん。ただ純粋にお風呂入るだけだよ。そこでイチャイチャとかは別にしないから。それはあがった後でいいでしょ?」

 この言葉で真里はもう就寝までの事を考えていると分かった。母親に今日は帰れないとメールしようと思った。理由は? 彼女ではなく友達の家に急遽、泊まる事になったにしておこう、携帯をポケットから取り出し文章を打つ磯村。ついでに、「分かった。じゃあ入ろうか」

 断れる流れではないので観念したようであった。嬉しそうに早速、湯船にお湯を溜め込む。彼氏、彼女が二人っきりで同じ空間にいる。時間もたっぷりある。そうなれば最後は裸となり体と体を重ね合わせるのはもはやお決まりコースではないか。一緒にお風呂に入るくらい、何をためらう必要があるのか、ようやく覚悟を決めた。真里にはもうその準備ができているように見えるが少し意外のように磯村は思えた。

 さすがに二人同時に服を脱ぎ頭や体を洗う広さはない。先ずは磯村が先に一通りの事を済ませた後、真里を呼び磯村は風呂へと入りスペースを空ける。

 彼女の裸も裸、生まれた時の姿を見るのはこれが初めてだ。だが逆に磯村の性癖からして全て見せてしまうというのは興奮しなかったりする。先ほど浴衣姿で太ももを見せてくれた時の方が性癖に突き刺さりおかしくなりそうなくらいだった。そういう事情もあり、わりと平静を保てたりしていた。どちらかといえば芸術観賞の感覚に近いかもしれない。実際にそうであるように女性の裸体を描いた絵画などは幾つもある。

「お邪魔します」

「どうぞ。真里ん家の風呂だけど」

 いつも通りの事をやっているようであったが横に話し相手が居るからには雑談も交えた。

「なんかもう花火大会よりもこっちの方が楽しいんじゃないかって思えてきた」

「そうかもな。花火は去年も見たけど、こんな風に過ごすのは初めてだもんな。すごい新鮮だよ、いつも入っている風呂に真里が居るだけで」

「お風呂に限らずうちに来てからずっとだよ。ご飯、作って食べて、デザート食べながらじゃれ合ったり。きっと新婚生活もこんな感じなんだろうね」

「はは、新婚生活か」

 その後の言葉は続かなかった。真里は石鹸の泡を洗い流して風呂へと入ってきた。大人と幼児が入っているとはわけではない。なんとかギリギリ入れる広さ、二人の体は常に密着せざるを得なくなる。真里は背中を向けて磯村の胸から胴体に寄りかかる。

「あっ、ちょっとなに、もう」

 そんな姿勢になるやいなや磯村は手を回して真里の胸を揉んだ。

「つい……どんな感触なのかなって思って。良い感触だと思う……それにしても真里、良い体してるんだな。いや、いやらしいな意味じゃなくて単純にスマートな体しているなって意味で。スポーツとかしてないでしょ?」

「高校に入ってからはしてないけど、これでもこういう時のために備えて定期的に筋トレとかストレッチ密かにやってたんだよ。恭ちゃんは逆にもうちょっと筋肉付いていれば良いね。それだとガリガリにしか見えない」

「それは申し訳ない。俺も少し鍛えようかな」

 ここまできたら互いに裸でも違和感を感じなくなり、恥ずかしさも何もなくなっていた。肌と肌が直接、触れ合う事で安心感にも似た気持ちにもなった。このままのぼせるまで二人はこの状態でいた。


 部屋の中は冷房の風で過ごしやすくなっていた。この人工的に冷やされた冷気に当たるのも夏だと思わせてくれる。風呂上りに飲む冷えたカルピスは格別であった。

 時間は22時半を過ぎたところ。今時、小学生でもまだ寝る時間でもなかったが今日ばかりは普段しないことをした疲れからか強烈な眠気が襲ってきた。特に真里は目に見えてそれが分かった。

「もう寝た方がいいんじゃない?」

「……そうだね。お布団には入ろうかな」

「ちなみに俺はどこに寝れば?」

「ここまできてそんなこと普通聞く?」

「念のため聞いただけだよ」

 明かりはテーブルランプのみの真里の部屋。二人寝るにはやはり狭かったが常に体を寄せ合う二人にはこれでちょうどよかった。

「今日はすごい幸せな日だった。こうして恭ちゃんと家でご飯食べて、お風呂に入って、こうして一緒に寝られるんだもん」

「俺も今日はこのまま気持ち良く寝られそうだよ」

「このまま、朝なんてこなければいいのに」

「なんで?」

「だって朝がきたら恭ちゃん帰っちゃうでしょう? それで家で私一人になると思うとすごい悲しくなっちゃいそうで」

「そんな風に考えるなって。また直ぐに会えるんだから」

「そういう意味じゃないの。なんというかこのまま時が止まればいいなってこと……それができなくても私、このまま眠りについて目覚める事なく人生が終わっても、悔いはないって言い切れる」

「……」

「ごめん。ちょっと重い話になっちゃったね。したいならしてもいいよ。私は大人しくしているけど」

「いや、いいよ。安眠を妨害するほど俺も飢えていない。でも、しばらくこうさせて」

 先ほど決めた覚悟は無意味になってしまっていたがどこかで安心してしまっていた。背を向けている真里の肩あたりに顔をうずめる。子供がお気に入りのぬいぐるを抱いてように安らかに目を閉じた。振り向きその顔を見て真里は磯村の方に体の向きを変えて胸に顔を沈める。




 なんで真里はこんなにも俺を。嬉しいけど、あまりにも重たすぎて俺は受け止め切れそうにない。

 でもこのまま朝が、夜明けが来なくていいというのは妙に共感してしまった。だって今、俺達二人はこんなにも幸せな気持ちでいっぱいなんだから。

 人生で誰もがこんな気持ちを味わえる? そうは思わない。世の中には小さな幸せも感じられないまま、大変な人生を送っている人もいる。

 その中で俺達はそれを掴み取れたんだ。これ以上、何を望む?

 このまま、永遠の眠りにつくのも、悪くはない。このこぼれそうになるくらい満たされた気持ちのまま。それでも――




 残酷にも夜は明ける。磯村はそっと手を伸ばしてテーブルランプの明かりを消して深い眠りにつく。叶わぬはずもない祈りを胸に。真里の熱い体温を、感触を味わうように。




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