第19話 人と動物の未来
冬馬はバイクのトランクからリュックに荷を移し、院長の車に同乗した。
院長は車に乗ると「家に電話」とナビのマイクに話しかけ、出てきた家人に「小野先生が来ておられたのでお連れする。明日の予定を今日に」と言った。
「今のは?」
「家内です。お会いするのを楽しみにしている」
車は十五分ほど走り、郊外の林の中に立つ白い土塀に囲まれた屋敷についた。
出迎えた院長夫人と挨拶を交わした冬馬は、食事の準備をする間にと、先に風呂に案内された。
途中、「当分この部屋で寝起きしていただきますので」と示された部屋は八畳ほどの広さの洋間で、ベッド、ソフア、机、書棚が置かれ、クローゼットが作り付けられている。
「今着ている下着は洗濯機の中に」と言われ、風呂から上がると下着からパジャマまで準備されている。
旅館のような広い建物は一度通っただけでは、とてもどこに何があるのか分からない。
同じ所を二度通り、ようやく玄関を見つけてそこから最初に通された座敷に辿り着いた。
浴室が複数あるのか、院長も風呂上がりの様子でパジャマに着替えている。
「明日から、ここに帰ったら先ず入浴してほしい。後はパジャマでかまわないからね。朝食もここで」
酒が好きだと言ったので冬馬には吟醸酒。院長は洋酒の水割りが用意されていて、院長夫人は白ワインをグラスに入れている。
乾杯の後、院長は動物病院を作った理由を説明した。
「きっかけは湯原さんです。彼女は以前勤めていた動物病院で動物虐待を目の当たりにしていてね」
夫人も頷いて
「ペットショップでもそうなんですよ。売れ残ったまま成犬になったら病院で殺されて燃やされてしまうの。そうでないところは動物園に行くんですって。そんなことをさせられていたのね」
「湯原さんはとうとう精神を病んでしまってね。勤めをやめて、うちの病院でPTSDの治療をはじめたのだけど、皮肉な事にあの人を癒やして回復のきっかけをつくってくれたのが殺処分寸前に引き取った犬だった」
「そうなのよ。自宅療養に切り替えて家に帰ったら、人間に虐待されていたワンちゃんが出迎えてくれて、おかえりーって舐めてくれたそうよ」
夫人がティッシュを取って目に当てたまま、
「それで自分がしてきた事を、『いいよ。しかたが無かったんだよね』って許してくれてる気がしてね……救われたんだって言ってらしたわ」
横を向いて「グスン」と鼻をかむ。小さな声で「御免なさい」と言った。
院長は、
「そんな訳で、私はそういった犬猫を引き取ってだね、このクリニックで元気にしてやりたい。人を好きにさせてやりたい。そうなったら次は病室に連れてきて、動物と患者のコラボレーションだ。動物による癒やし効果を期待している。それをあなたにやって頂きたい」
冬馬が、何度も頷く。
「人間と犬猫という、まったく違う生き物が接触する事で、両方の脳の下垂体から、オキシトシンというホルモンが分泌されることが分かりました。そのオキシトシンは絆を深める仕組みがあることが確認されています。それによってコルチゾールなどの怒りや攻撃の作用を誘発する分泌物も減少すると、実験で証明されています。確かにアメリカの刑務所や病院で、病んだ精神を犬によって回復した症例がいくつも上がっている事は事実です……ですからそれをPTSDの治療の手段として採用することは学術的にも効果が期待できますね。しかもその為の動物クリニックだとは……素晴らしい」
「これでこそ人と動物の共存共栄の姿だと思わないか」
「思います。私の研究テーマも行き着くところはそこだと思っていましたから。方法としては触れ合いゾーンみたいなものをつくることでクリアできると思います。是非私にもお手伝いをさせてください」
「本当ですか」
院長は夫人と手を握ると、「つまりそれは、あなたがあのクリニックを率いた、フジグループの一翼になる事を意味するのだが」
「承知しました。誠心誠意努めさせて頂きます」
「よかった。その言葉を何より聴きたかった」
院長と夫人は、互いにうなずき、院長が、「動物と人の未来に」と言ってグラスを掲げた。
「ところで、小野先生はご結婚は?」
夫人が訊いた。
そう言えば。と改めて振り返る。
尚美と別れて以来、今まで結婚を意識したことはなかった。
それは仕事に打ち込んできたからでもあるが、結婚を意識させる女性が周囲に皆無だったからでもある。
尚美への想いに、いまだに捕らわれている。そう言われればそうかもしれない。
だが、妥協するつもりはなかった。妥協は相手も、尚美の純粋さをも冒涜するように思えた。
「いえ。結婚の予定はありません。それに結婚したいという意識もないのです」
「でも、それではご不自由ではありませんか」
「慣れてますから、何でもないですよ。それに愛情も持てないまま性欲や便利さに負けて結婚すれば、いつか破綻します。人を不幸にするぐらいなら初めから結婚などしないほうがいいと考えています」
院長が「女性よりも男性が……ということではない?」と訊いた。
「違います。実は学生時代に好きになった女性が居ました」
酒のせいか、反論するように言ってしまった。だが人に話してもよいと思った。それよりも聴いて欲しい気がするのは、今日来るときに大学通りを歩いたせいかもしれない。
「ほう。それはどんな……」
「一応は相思相愛だったと……いえ、でした」
冬馬は言い直した事が可笑しくて笑った。
「彼女は医者の一人娘で、同じ大学の医科でした。ですから婿探しの為に大学にきているという事情もありましたが、私はそれを知りませんでした。当然獣医科の私とは最初から方向が違ったのですが、私は彼女の家の事情を知らず、彼女は逆に私と結婚を意識する必要がなかったので、それが遠慮の無い間柄になり、二人は惹かれあいました」
「……」
「卒業して国試に受かったら結婚を前提とした付き合いをして欲しいと、想いを打ち明けたとき、彼女の立場を知りました。私にとっては突然のことで、頭がパニクっていたのでしょうね。本当は残された時間をより大切にして、彼女の良き友として、幸せな結婚になるように応援するべきでしたが……僕は卑怯にも別れを悲しむ彼女を置き去りにしたのです」
非常階段の下で別れた朝。
振り返る余裕もなく、明け方の白い通りを、胸に沁みた彼女の涙を冷たいと感じながら、
心に穴が開く……
そんな表現が本当にあるんだと、父や母をなくしたときとは違う喪失感、寂寥感に襲われ、「それぞれに感じ方が違うものなんだな」とぼんやり考えていた。
「尚美も同じ寂しさを感じているのだろうか」
相手のことを考えることができたのは一日経ってからだ。どうすればいいのかな。そう思ったとき、霞子から話したいとメールがあり、すぐに電話が鳴った。
「冬馬。教えてあげる。女性ってね、あなた達が思っているよりずーっと男と別れることは平気なの。あなた達を観察していて、男性のメンタルの弱さがよく判ったから言っといてあげる。尚美のことは心配しないで、国試のほう頑張りなさい」
その言葉が、女性達の思いやりから出ているという事ぐらい、理解出来る程度には落ち着きを取り戻していた。
猛男も安幸も、暗黙の内に別れの儀式は通過しているようだった。
冬馬は院長が注いだ杯の酒を一息に口に含み、ゆっくりと呑み込んだ。
「卒業式の日、これで彼女の気配さえも消える。そう思って防具を取りに道場に行き、誰もいない道場で彼女と最後の立ち会いをしました。これで二人は二度と会う事はない。そう思うと剣がとまらなくなりました。ながい、本当に長いあいだ打ち合っていましたが、とうとう僕も彼女も腕が動かなくなって剣を振るえなくなりました」
ここに来る途中で歩いた、あの道で感じた熱いおもいがふたたび蘇った。
そのあと二人は、尚美のマンションで四夜を共に過ごした。それは冬馬が墓場まで持っていく大事な秘密だ。
「医師試験の最後の日、迎えに行きましたが彼女には出会えませんでした。彼女は言ったとおり僕の前から見事に姿を消しました」
院長夫妻は黙って聞いていたが、時折、顔を見合わせては頷いていた。
冬馬は恥ずかしそうに頭に手をやり、苦笑いをする。
「どうも……。 喋りすぎました」
そう言いながら言葉を継いだ。
「その人を今も好きです。いまだに忘れられません。多分……こういうことは、花が咲き代わるように自然に変わるのだと思います。今はそれを待っているときかもしれませんが、でも……忘れることはないのかもしれません」
「今の言葉……聞いたらその方は嬉しいでしょうね」
「いい思い出になっているようでよかった。そうやって思い出せば経験として心が豊かになっていくもんだ。素敵だったことをいっぱい思い出せば良い。そして心に留めて置けばいい。無理して忘れる必要はないと思うね」
夫人が二度三度頷く。
「ほんとうにそうなのよ。忘れる必要は無いの。新しいことは上から積み重なるの。
メモリーのように上書きなんかで消えなくてね、模様のように重なるものだと思うわ。そしてあなたが、より素敵な人になるわ。私達だって、いまだにあの頃のことを思い出して、胸がキュンとするときがあるもの。一緒に居たときはあなたも楽しかったのでしょう」
冬馬は夫人が勧める酒を杯に受けて一口含んで「本当にそうでした」と言った。
「私どもには孫娘がいてね。あなたに逢わせたいのだが」
それが何を意味するかは理解できた。
「有り難うございます。ですが……今も言いましたように……」
つまり尚美を超えた存在――そんな者が、いきなりいるはずがないのだ。
しかも、女性から見れば、尚美への想いを持ち続けようとする未練がましさに加えて見ようによっては女々しいとさえ感じるはずだ。
愛情は時をかけて育てるものだ。しかも愛情とはときとして方向が変わり、憎悪さえ産み出すことがある。
「恋愛感情を持たないと言う前提であれば、ご紹介頂いても問題はないと思いますが……」
冬馬はそう答えた。
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