第20話  そよ風

「それは当事者同士の問題だ」

 院長が笑った。

 冬馬は一般的な病院について詳しくない、と言うよりも無知に近い。

 それでも湯原涼子の言葉や院長の説明から、Fuji総合病院は精神神経科が抜きん出た実績を持ち、近隣からの患者も多いということ。Fujiハウスペットクリニックが、Fuji総合病院の精神神経科に組み込まれているという事が解ってきた。


 翌朝、冬馬をクリニックまで送った院長は、スタッフと挨拶を交わし、涼子の正式な就職願いを受理し、冬馬と入れ替わりに高校生の久未を車に乗せると、

「じゃあ十三時に本院のカンファレンスルームで」と言って、坂を下りていった。

 車は坂の下の本院を通り過ぎ、交差点を右に曲がって見えなくなった。

 涼子が「久未ちゃんはああやって誰かが学校まで連れて行かないと、途中で消えてしまうんです」と可笑しそうに言う。

 久未もまた本院に入院した経験があるのだと涼子が説明する。

   

 十二時半。電話が鳴り、涼子が受ける。

「十三時にお山の皆さんを紹介するので二階のカンファレンスルームに来てほしいとのことです」と、電話の内容を冬馬と純に伝えた。

 電話は本院の内線としての機能も持っているようだ


 「『お山』というのがここの事なんですか?」冬馬は涼子に訊くが、涼子も、「今初めて聞きました」と、首を傾げた。

 純が「フジハウスペットクリニックが長すぎるからじゃないですか」と言った。


 十三時五分前。三人で本院の階段を上がる。

 待ち構えていた事務局長が三人をカンファレンスルームに案内した。

 中には本院に勤務する、各技師、看護師、医師が集まっていて、院長が三人を紹介する。

 特に純は、入賞こそしなかったが昨年のトリマーコンテストに出場したほどの腕前だとか、湯原さんは以前救急救命センターで医師を指導するほどの高い能力を身に付けていてそのスキルの高さは今もおとろえていないこと。

 また小野冬馬先生は老人のペットロスについての研究論文が認められて論文博士の学位が検討されている事など、本人以外知らない事までも飾り立てて紹介した。


 そして、動物病院はこのような高い能力を持つ人達の手によって運営され、人間の精神治療にまで効果を期待できる重要な新部門であると位置付けして紹介を終えた。


 次いで冬馬はクリニックを『お山』と呼称された事に鑑み、『そよ風』と命名したい旨発議して了承された。

 事務の女性が、

「こういう場面は必ず動画で記録してありますからコピーして自由に閲覧して下さい」という。

「記録しておかないとほら、今日も夜勤明けの看護師、受付、間に合わなかった研修医とか必ず四~五人欠席者が出るでしょう。但し指定したパソコンでしか開きませんけど」

「なるほど」

「各人の名前は名札を見て覚えて下さい。ここはひらがなで名前表示です。同じ苗字の人が多いので」

「わかりました」

「因みに私の名前はゆかりです。先生はとうま、先生ですね。ネームプレート作って後でお届けしますね。皆さんのも」 

「お願いします」

 それで顔合わせが終わった。

 帰る間際、

「湯原さん」と涼子は院長に呼ばれ、冬馬は事務局で、そよ風の地籍図を見せて貰った。

 帰り道で、 院長のことを話しながら歩いた。

 純が言った。


「院長があんなに詳しく私の事を知っていてくれたとは思いませんでした」

「うん。俺も、論文の事は前の職場にさえも言ってなかったんだけど読んでくれてたな。純ちゃんの採用は結婚祝いの意味もあるみたいに言ってたぞ」

「そうなんですよね。ほんとに感謝です」


 涼子が、満面の笑顔で冬馬を見る。


「涼子さん。嬉しそうですね」

「はい。私、院長からとっても良いこと聞きましたから。それに私、人と動物のコラボによる治療って、実際に経験したから本当に嬉しいんですよ」

「涼子さん。そよ風は動物に優しく、愛情を持って扱うようにしよう。動物は必ず人より先に死ぬ。だから生きてて良かったと思う最後にしてやりたい。看取るのは人間の責任。その辺りのことは全部僕がやるから、安心して可愛がってやって」

「有り難うございます。私も冬馬先生で良かったし冬馬先生がここに来ることは必然だったと知りました。教えてくれた院長に感謝してます」

「僕もなんだよね。本来小型動物の病院は、命がギリになった患畜が持ち込まれる割合が殆どと言っても良い。動物が生きるのは、危険、汚い、臭い、と表裏一体だから、純ちゃんも覚悟しててよ」

「はい。でも、そのなかでもそよ風は、怯えて噛みつく動物に愛をもって接するんですよね」

「そのとおりだ。純ちゃん素晴らしい」

 涼子が「はい。それぐらいで身内同士の盛り上がりってやめましょう。きっと、はたからみたら気味が悪いわ」

 

「ほんとだー。自画自賛ってやつー」

 純が手で口を覆いながら笑った。


 涼子と純が診察室のドアの後にカーテンをつけた。

 前室が無いと診察室が待合室から見えるからという理由からだが、冬馬は別の意味でも必要だからと言って、ドアとの距離をかなり広くした。

 人に抱かれた猫などは、カーテンを開けた途端、いきなり見知らぬ人間が目の前に現れると、飛び出して逃げることがあったので、その経験から空間を広くしたのだ。


 冬馬は診察室でドッグランの図面を引きなおしていた。

 事務局で『そよかぜ』の敷地の図面を見せて貰ったところ、驚いたことにこの丘全体が病院の敷地になっていたので、それならと設計し直していたのだ。

 

「誰か来た」

 という純の声がした。

 続いて湯川が「久しぶり。待ってた」と言って迎えに出て、子供をあやす声がする。

 冬馬は湯川の友達が来たのだと解釈して再び図面に取りかかると、湯川から「先生。診察いいですか」っと声が掛かる。


 冬馬は急ぎ図面を片付けて、カルテを一枚机に置いて湯川に合図した。

「どうぞ入って頂いて」

 

 記念すべき第一号の患畜だ。カルテにR3MA0001と番号を振る。

 扉が開いて人影がカーテンに映ると湯川がドアを閉めた。


 人影は前室に入ったまま動かず「お願いがあります」と言った。

「はい。いいですよ。何でも言って下さい」

 カーテンが揺れて人影がしゃがんだように見えた。

「あなたを……幸せにさせてくれませんか……わたしが幸せになるために……」


 聞き覚えのある声が、聞き覚えのある言葉を言った。 


 冬馬は驚愕してカーテンを開けると尚美が座っていて手を差し延べた。

「なッ、ナオ」

「冬馬。嬉しい。逢いたかった」

 冬馬は尚美の横に腰を落とし、抱きしめた。

「どうなってるんだ……訳が判らない」

 尚美の頬を涙が伝った。

 子供を抱いた湯原がドアを開けた 

「それとあなたの子供、一馬。あのときの」

「俺のッ」

「うん。そうなの。私はあなたを失って代わりにこの子が生まれてきてくれた。だからこの子のお陰で今まで頑張れたし、あなたに会えた。もう嬉しくて嬉しくてどうにかなりそうなくらい」

「うん。会えたな。でも何がどうなっているのか……説明してくれないか」


「院長は私のおじいちゃん。ここ、スタッフは名前で呼ぶから気がつかなかったでしょう」

「そう言えば、やたら藤本ばかりだなって思ってた」

「おじいちゃんは、私達が駆け落ちするかも知れないと思ったみたい。私、試験が終わった後、実家に連れ戻されて佐藤先生と婚約したの」


 そのことを冬馬は霞子からのメールで知っていた。


 だが佐藤医師には祖父が結納の席で破談を申し入れたという。

 彼は医療事務の女性と関係があり、もうすぐ赤子が産まれると、佐藤クリニックの看護師が結納のその日の朝に駆け込んで、祖父に教えてくれたのだそうだ。


 それからほどなくして尚美の妊娠が判った。

 その時、尚美は「しまった」と地団駄を踏んで口惜しがったといった。


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