第53話 命の記憶

 コヂカはこれまで、お盆やお彼岸のお墓参りに特別な思い入れはなかった。ただ家族3人が集い、海のそばにある小規模な霊園に行って、墓前に鬼灯や花を供える。それだけの儀式、あるいはルーティーンのようなものだと捉えていた。




「お墓参りはね、亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんに会いに行くものなのよ」




 母からそう教えられてはきたが、コヂカにとって死の匂いは身近なものであり、お盆やお彼岸の時だけの特別な感覚ではなかった。だからこんな形だけの『対面』になど意味を見出せず、いつも墓石の向こう側にある海原を遠い目で見つめていた。線香の煙が目にしみて痛い。幼い頃からコヂカは、暑い日のお墓参りがあまり好きではなかった。


 しかし高校3年の夏の終わり。コヂカはいつもと全く違う気持ちで、海岸沿いを進む車の後部座席に揺られていた。半開きになったリアガラスからは涼しげな潮風が抜け、カーステレオからは父の好きな『はっぴいえんど』の『風をあつめて』が流れる。助手席に座った父はCDの中にいる細野晴臣に合わせてはもり、母も首を揺らしながらゆったりとしたスピードで車を霊園に走らせた。お盆休みの昼前に、急いで追い越していく車はいない。外を見ればどこまでも遠い海に、入道雲が山岳のように連なる。


 家族だけの限られた時間。17歳になったコヂカは、お墓参りの本当の意味をその尊い時間に見出していた。亡くなった者の「死」と向き合うのではなく、生きている者たちが亡くなった者を鏡にして「生」と向き合う。どう生きていたかを何度も思い出して語り合い、どう生きているかを見つめかえす。忙しい毎日の中で、家族との暮らしの記憶を刻む周期的な習慣。それは決して陋習ろうしゅうなどではなく、存在を認め合い、忘れ去られてしまわないようにするための先人たちの知恵。墓石が焼けるように熱いのにも、線香の煙が目にしみるのにも、すべて意味がある。




「そういえば母さん、水子供養ってたしか、一度しかしてなかったよね?」




 お墓参りを終えて、霊園の駐車場を歩く父が母にふと言った。




「そうね。してあげられなかったわね」


「博物館の柿谷さんにその話をしたら、そういうのは何回忌ごとに必要だって言われちゃって。やっぱりした方がいいのかな」


「うーん。でもお金もかかるし、難しいわね」




 知らない言葉の羅列にコヂカは前を行く二人に尋ねた。




「あのさ、みずこくようって何?」


「水子。生まれてこなかった赤ちゃんのことよ。コヂカ、あなたには弟がいたって話、前にもしたわよね?」




 母はそう言って足を止めて空を仰いだ。コヂカはあの日、小さな骨壺になって帰ってきた未だ見ぬ弟の姿を、雲の彼方に思い描いてみた。消えてしまいそうな笑顔や泣き顔が、想像の中で薄雲の上に浮かんでくる。




「うん、聞いた。残念だったけど、お母さんだけでも助かってよかった」




 生まれてこなかった弟の話は、なんとなく家族の中でタブーのような気がしていた。だからコヂカはその話を振られた時、いつもこう返すようにしている。母子ともに危険な状態だった出産で、母だけでも助かったことは奇跡に等しかったのだ。しかし普段はコヂカの言葉に黙って頷き、「ありがとう」と言ってくれる母が、なぜだか今日は話したがりだった。父も歩みを止めて、誰もいない車止めに両足を乗せる。今日が特別な日で、霊園の駐車場がやけに静かだったのがその理由なのかもしれない。




「どちらか一方が助かるのだとしたら、私は迷わず自分の命を差し出した。それくらい悔しかったわ」


「そうだな。あの時は母さんと僕で、コヂカ寝てからわんわん泣いたもんな」




 はじめて聞く両親の痛みに、コヂカは胸の裏側がひゅんと冷たくなった。




「カナタ。あの子にはそう名付ける予定だった。そういえば、前にコヂカに言ったかしら。あなたの名前には意味はないって」


「うん。父さんが『何々子』って、母さんが『チカ』ってつけたかったから、間をとってコヂカにしたって聞いた。適当な名付けだなって思ったよ」


「そうよね、そう思うわよね。でも本当は違うの。本当はね、あなたたちの二人の名前が対になるはずだったの。コヂカとカナタ、小近ちかく彼方とおく。そうやって世界でたった一組だけの姉弟が、お互いを意識し合って生きていけるように願いをこめていたのよ。だけどカナタは生まれる前に亡くなってしまった。もしもコヂカが名前に込められた真実を知ってしまったら、きっと悲しむだろうと思って、あの時は咄嗟に意味はないって嘘をついてしまったの」




 10年越しの母の告白。暑い日差しに照らされながら、コヂカはその告白を包み込むようにして優しく受け取った。じりじりとした熱にこめかみから汗が流れる。




「ごめんなさいね、コヂカ。あなたは私たちの、自慢の娘よ」




 そう言った母も、横で聞き入る父も、コヂカを慈しむ目で見つめていた。コヂカは両親の深い愛情を感じながら、乾いた風に髪をなびかせて言った。




「ううん、大丈夫。つまりはさ、私の名前の中に、カナタの命がある。そう思っていいんだよね?」




 コヂカのその言葉に二人は驚いたようにして顔を見合わせた。そして答えを声に出すことなく、コヂカを抱きよせると、二人はそれぞれの手をコヂカの頭に置く。




「もう、暑いってば二人とも。それにこんなところで恥ずかしいよ!」




 コヂカは苦笑いを浮かべながら、二人の温度を肌で感じた。汗ばんだ皮膚と皮膚のその向こう側に、いつか荼毘に付されるであろう固く冷たい骨の感触がある。それを胸の上で真っ向から受け止めたコヂカは、いつか必ずくるその日に、今日をちゃんと思い出せるように、記憶の中にこの瞬間を刻み込んでおく。父の背中、母の胸元、カナタの面影。みんなと、一緒に過ごしてきた記憶。そうやってたくさんの命の記憶を頭の中に刻みながら、少女は、海野コヂカはその命たちを連れて、ゆっくりと大人になる――。


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コヂカとクリヲネの神隠し同盟 藤 夏燦 @FujiKazan

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