第16話 カヅキの日常

 透明な存在でいるメリットは、普段は入れない場所に入るか、こっそり誰かを覗き見ることができるくらいしかない。せっかくだから普通ではできないことをしよう、とコヂカは意気込んでいた。


 だがその前にコヂカにはやるべきことがあった。元気な姿を両親に見せることだ。コヂカが申し訳そうにリビングに戻ると、二人は驚き、すぐに泣きながらコヂカを抱きしめてくれた。突然に消えた理由を「お腹が痛くて早退して、部屋で寝ていた」なんて適当に誤魔化したが、二人は問い詰めることも怒ることもせず、ただただ黙って強くコヂカの感触を確かめた。二人にとってはコヂカが無事だったという事実だけで十分だった。


 カンナやマリからも心配するLINEが来ていた。特にカンナからは何度も電話があり、コヂカは悪いことをした気持ちと同時に嬉しくもなった。風邪をひいて休むことになったのだが、携帯がそのタイミングで壊れてしまったという旨の長文をカンナに送った。するとカンナからすぐに返信がきた。




『ほんとに心配したんだよ よかった』


『ほんとうにごめん! まだ熱が引かないから、明日も休むね』


『ゆっくりしてて お大事に』




 可愛いスタンプとともにカンナからメッセージが届く。コヂカはすぐに返信して、その日はそのまま眠った。




☆☆☆




 自分でもどうかしていることは分かってはいたが、コヂカは翌日、一年生の教室に向かい、カヅキの隣に立っていた。今は古文の授業中で、先生が『落窪物語』の現代語訳を読み上げている。カヅキは真面目に先生の話を聞きながら、達筆でノートをとっていた。本人しか見ないはずのノートなのに、丁寧に仕上げるあたりは実にカヅキらしい。誰にも見えないことをいいことに、コヂカはカヅキを独り占めする。机の高さまでしゃがんで、下から見上げてみた。普段は優しそうな見た目だが、こうやって見上げると精悍な顔つきに見える。コヂカは授業中のカヅキの姿が見られて少し嬉しかった。




「先輩に生徒会長をやってほしいですっかぁ……」




 コヂカはカヅキを眺めて、満足げにそう呟いた。カヅキが来年も生徒会にいるのなら、会長も悪くはないなと思ったからだ。シグレとの一騎打ちになれば、勝算は確実にコヂカの方にある。


コヂカは4限目の終わりまで、カヅキの傍にいたり、ぼんやりと授業を聞いて過ごした。ヲネも一緒に学校へついてきたが、なんだか退屈そうにしていた。時々、女子生徒のスカートをめくったり、先生が読んでいる教科書を逆さにしてみたり、見えないことをいいことに悪戯ばかりしている。コヂカがクリアの魔法を使って何をするかはあまり興味がないらしい。


お昼休みになるとカヅキが足早に教室を出て行ったので、透明なコヂカは堂々とその後を追いかけた。片手にはお弁当箱を手にしている。誰かとお弁当でも食べるのだろうか。途中で振り返ると、ヲネはどうやら着いてきていないようだった。


人気のない校内の廊下まで歩いたカヅキは、そこで思いがけない人物と落ち合った。




「ユリカ先輩?」




 ユリカはカヅキを見るなり彼の頭を撫でる。その光景はコヂカが普段見慣れている生徒会長と一年生役員の関係ではない。




「おつかれ」


「おつかれさまです」




 カヅキは照れ臭そうに頭をかいた。その表情はコヂカからは伺えない。2人はそのまま生徒会室へと入っていくので、コヂカも急いでこっそりと後に続くと、ユリカは生徒会室の扉に鍵をかけ、電気も消した。室内は窓から入ってくる日光の明かりだけである。外から見ると生徒会室には誰もいないように見えるはずだ。




「今日はカヅキくんのためにお弁当作ってきたよ」


「えっ、ありがとうございます」




 2人は会議用の長机に椅子を用意して座り、肩を寄せ合ってお弁当を開く。いつもそうやってお弁当を食べているのか、その状態になるまでにそう時間はかからなかった。




「美味しそうな玉子焼きですね」


「でしょでしょ。上手く焼けたと思わない?」




 ユリカのこんな表情をコヂカは初めて見た。何事も器用にこなす生徒会長としての顔ではなく、年相応の女の子の顔をしている。カヅキも満更でもない顔だ。




「めちゃくちゃ美味しいです」




 カヅキが嬉しそうにほほ笑むと、ユリカは頬を赤くして笑窪を作り、




「カヅくんはかわいいなぁ」




と言って頭をまた撫でた。カヅキもユリカも、まさかこの部屋にコヂカがいるなんて思いもしなかったはずだ。当のコヂカはあまりのショックで、目に涙が浮かんだことさえ気づけないままだった。絶対にコヂカには見せないカヅキの表情がここにはある。会長に推してもらえただけで舞い上がっていた自分が恥ずかしい。それはあくまで、シグレと比較してという意味だったかもしれないのに。


 お弁当を食べ終えた二人はそのまま手を握り合っていた。コヂカは確信した。もう生徒会長をやる気なんかない。それどころか残りの任期の生徒会活動をする気にもなれない。二人がお互いの愛を確かめ合うために手を強く握り合うと、コヂカも一人で拳を強く握りしめた。




「カヅくん……」




 ユリカは甘い声でカヅキの唇に優しく口づけをする。カヅキも抵抗することなく彼女のキスを受け入れた。その時コヂカの涙は頬を伝い、制服にぽたぽたと落ちはじめた。もうここにはいられない。コヂカの心は砕けて塵になりかけている。そのまま駆け出して、コヂカは生徒会室を抜け出した。カヅキもユリカもコヂカには構うことなくキスを続ける。コヂカは爽やかな午後の学校を、鼻水を垂らしながら泣いて走り抜けた。どうせ誰からも見えないんだ。不細工な顔を隠す必要なんてない。


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