第43話 消化試合

 左腕をズボンのポケットに突っ込んだ、陰気なな老人が表通りを歩く。

 少し猫背、小股でヨチヨチした歩き方は小柄な体格を余計貧相に見せる。


 しかし身なりは悪くない。シャツも皺一つ無く、この界隈を歩くに相応しいモノだ。


 ……クライスだった。


 いつの間にかシャツが縦縞のモノに変わっている。

 そして、左腕が生えていた。

 ズボンのポケットに掌が突っ込まれている。

 義手……おそらく……自宅に戻って装着してきたのか?

 シャツはリバーシブルなのかも知れない。


 クライスは高級店舗の建ち並ぶ本通りを歩く。

 早々にマクシミリアーノのブティックが見える。

 繁盛店。

 一際大きく。

 そして高い。

 店舗も価格も。


 ブティック脇には綺麗に剪定された庭があり、そこには小洒落たテーブルと細かい細工を施した椅子が置かれている。


 そこに似つかわしくない青年達。

 小指を立てて珈琲を啜っている。

 三時のおやつの時間はとうに過ぎている。

 下卑た笑いが聴こえてくる。

 この後に及んで、自分達がどれ程危険な状態に陥っているのかを全く理解していない。


『のんびりカフェを決め込んで……』


 組織として体を成していない。

 指示がなければ動かない。

 正に他人事。

 コイツらは危なくなれば、そそくさと逃げるだろう。

 だから有る意味、一番しぶといとも言える。

 自分が生き残る事が最優先だから……

 マクシミリアーノに取り入って、甘い汁を吸う事だけが、コイツらにとっての組織の存在意義。

 もはやチームではなく、只の個人の集合体、一時的に利害の合致をみただけに過ぎない、利益が得られないと判ったら個人に戻るだけ、そんな輩だ……しかし彼等にも責任は取って貰わねばならぬ。

 コイツらのリーダーであるマクシミリアーノは病院送りだろう。

 あの張り紙のスケジュール通りなら、もうそろそろ定期清掃で発見されよう。


 しかしその頃には……もう手遅れだ……


 まぁ、眼の前の三人を仕留める算段を立てようか……

 クライスが密かに彼等を観察していると、三人の前にブティックからガタイの良い男が近づいて何やら二、三事話した。


 その間にもクライスはブティックを遮蔽にして三人に歩み寄る……


 クライスの存在に気付かぬまま、三人は飲みかけのコーヒーカップをテーブルに置いて立ち上がる。


 互いにヒソヒソと何やら話しながら足早に歩く。

 流石に読唇出来ない距離だった……遠いのではない、近すぎるからだ……視線でバレてしまう。

 

 ヨチヨチ歩きのクライスは通行人を装い、既に三人の半径8m付近まで近づいていた。

 相手と視線が交わるのは裂けたい。


 三人の歩行速度が早い、ウインドショッピングを愉しむ通行人を避け、ずんずん歩く。

 現場から離れようとする速度……


 読心術を駆使しなくても判る……

 こいつらマクシミリアーノを見棄てたのだ……


 恐らく、あのガタイの良い男はブティックの用心棒兼ドアマンで、ブティックの出入口で客を選別し入場制限を行う為に雇われた、格闘経験や戦闘経験の有る者だ。

 彼からマクシミリアーノの所在について何かしらの報告があったのだろう。

 ドアマンは三人分のコーヒーカップ片付けた後、彫像の様にブティックの出入口に立っている。

 ドアマンは通り過ぎるクライスを一瞥し、そして視線を戻し、また微動だにしなくなった。


『……よろしくお願いします……』クライスにそんな声が聞こえた様な気がした。


 クライスは三人を尾行する。

 仕留めるに容易な場所を探しながら、着かず離れず……逃げる事に全力の彼等は、後ろを振り返ることもない。

 彼等の行き先を考える。


 クライスにはこの王都の脇道まで全て頭に入っている。


 他にも……


 閉店店舗、

 建設中店舗、

 道路補修工事、

 上下水道配管工事、

 etc


 ……そう全てだ……


 定期的にヨミを王城へ向かわせて建築確認申請を確認し、この街がどう変わって行くかを、常に監視していた。毎月、毎に王城に出向くヨミにクライスは、

『己の戦場じゃ……地形効果の変化は常に把握して置かねば……戦いには常に真摯で……そうじゃろ』そう言って薄く笑う。


『安心しろ……消化試合でも手は抜かぬ』クライスの脳内の独り言。


 三人の向かう先がクライスには判る。

 「よりによってソコに逃げ込むか……」口角が上がる。


 王都の南側……旧の繁華街……今では大半が廃墟……盗賊や暴漢共の隠れ家兼仕事部屋。


 紛れ込めば、警吏も早々捜査には入れぬ。

 確固たる証拠が無ければ捜索に時間を要すからだ。

 あそこは住民全員が怪しい、住民の証言も怪しい、何を信じて良いか判らぬ場所。

 至る所に、掘っ立て小屋が好き勝手に建てられ、住民登録もしていない人間が入り浸っている。


 故に、周辺地理を把握しているクライスにとっても唯一状況把握が出来ていない地域だった。

 ……というか、国民全員に訊いても完璧に把握している者など居ないだろう。


 だから潜伏するに非常に最適と考えたのだろうが、考えが浅い。


 クライスでさえココの地理は判らない、だが人間は見知っていた、それも山程。

 クライスの暗殺者の半生……

 そりゃ、ここに住む人種とも親しく成るに決まっていた。

 チンピラ

 情報屋

 犯罪者

 盗賊

 そんな奴等ばかり相手にしてきたのだ。

 ここは最早、クライスの古巣だった。


 そんな場所に三人は逃げ込もうとしている。


 クライスの読み通り、三人は一直線に南下して行く。


 王都内の石畳の道は無く、既に草を刈っただけの簡素な道に変わる。

 道の先に、1日で建てられそうな小屋が見えてくる。

 壁が歪んで、角々が90度を成していない。歪んだ正方形、いや台形と言った方が正解か?

 この旧繁華街の入口だ。まぁ、柵や石垣も無いから、どこもかしこも入口なんだが……

 先を行く三人はそそくさと奥の集落に一直線。


 クライスはそれを確認すると、道脇に逸れて、叢に入る……ゴソゴソ……小便か?

 しかしあっという間に、動きやすそうな質素な服装に変わって道に戻った。

 もう既に、王都の賑やかさからは遠く離れ、それでも人の気配は感じる。

 見られているのだ。ココの住人達に。

 相手は観察するが、自分は隠遁している。

 相手の情報は知りたいが、自分の情報は隠す。

 ココはそういう連中の溜まり場。

 そこに『類は友を呼ぶ』が如く、三人が入っていく。

 もう、どいつもこいつも同類だ。

 まぁ、クライス自身も一般市民から見たら、こいつらと似たりよったりではあるのだが……


 逃げ込む先が悪すぎた。


「よう!クライス!」歪んだ小屋から禿げ散らかした頭が飛び出す。

「これはこれは、サルマル、久しいな」クライスは仰々しく頭を垂れる。

「なんじゃ、どした?なにしに来た?」矢継ぎ早なサルマルの詰問。

「相変わらず、忙しいな……先程ワシより先にここに入った……」クライスの言葉を遮り、サルマルが言葉を被せる。

「好きにせい……わしらは知らぬ……今までも……これからも……」サルマルの声が冷える。

「……そうじゃろうな……迷惑は掛けぬ、半刻頂戴する、それで十分」

「……ならば良し……復讐の肩代り、あの犠牲となった男女はそれに値する」サルマルはスラリと立ち上がり、クライスを集落内に招き入れる。

「……すまぬな……」クライスはサルマルに詫びる……サルマルの「男女」という発言、知っているのだ、さすが裏の情報通……この街の犯罪に関して、彼が知らない事はない。

 ヨミがクライスの情報屋になるまで、彼に何度助けて貰ったか……

「ワシでもこの集落全員を掌握できる訳もない……だが、少々の叫び声などここでは日常、誰も気にせん……」言った後にサルマルの下品な嗤いが続く。

「判っておる……」クライスは耳穴をほじほじ……

「こんな場所に敢えて潜り込む、あの者共の神経を疑うわ……」そして指先の耳糞をフ〜と吹く。

「おおぅ、そこは同感……ハイエナの巣に雛鳥が紛れ込んだのだ、撒き餌だな」サルマルは肩をすくめる。

「では、準備不足だが、何とかするよ」そう言ってクライスは集落の細い路地を分け入って行く。

 それをサルマルが掌に顎を載せて見て、そして大欠伸を一つ、欠伸で出た涙を空いた手で拭う。

「えらい大人に目を付けられたモンだ、御愁傷様」そう言うと二度寝でもするのか、歪んだ小屋の中に入っていった。


 ……クライスはゴミを避けつつ通りを歩く……


『はてさて、アイツらどこに逃げ込んだ?』

 しかしサルマルと無駄話をしている間もクライスは三人から目を離さなかった。

 歩いて行った方向は集落の南西、この掘っ立て小屋大半の集落内でも、唯一大きな建物が残っている地域だ。


『判りやすいなぁ〜』目線の先に1軒の家。

 珍しく玄関が有る平屋の家。

 窓には季節外れな厚めのカーテンが掛かっていて中の様子は見れない。

 そこに先程まで尾行していた三人の内の1名が、家から引っ張り出した椅子に腰掛け、煙草を燻らしている。

 ジャンケンで負けて門番をしている様にしか見えない。

 ただ……『ぼ〜〜〜』と道を見つめているだけ、先程のブティックのバウンサーとは雲泥の差。


 クライスは目的の家のかなり手前で脇道に入る。

 絶対、糞尿が落ちていそうな家と家の間を、身体を半身にして慎重に進む。

 未使用の角材が山と積まれている。

 そこから数本の錆びた釘が刺さったままの角材を拾う。

 角材を纏めていたのだろう、頑丈そうな麻縄も放置されている。それも拾う。

 角材の釘はそれなりに長い。角材から5センチ以上飛び出している。数本ある。

『こんなに長くなくとも良いのだが……』

 しかし現地調達なのだから、仕方無いだろう。

 全ての角材を脇に挟み、奴等の家の裏側に進む。

 家の裏は畑になっていた。キャベツが実っている。

 家の裏外壁を見る。

 煙突と換気の為の通風口が見える、ここが台所。通風口の斜め下には勝手口。

 かまどの横に有るのだ。


 内部構造を推察する。


      ㊚

 |─窓窓──玄関──────|

 |    |  |     |

 |    |  |─────|

 |────|  | トイレ |

 |  ㊚食卓㊚ |─────|

 |   台所  |     |

 ★|勝手口────|─────|

  クライス(作業中)


 家の敷地面積から想像して、玄関から通路を数m歩くと、突き当りにこの台所がある。

 その手前は食卓だろう。

 残りの二名がいるならソコ。

 平屋で二階が無いのだから。

 外壁を沿って歩き、採光用の小窓から中の様子を見る。手前にキッチンが見える。

 奥に人影が2つ、食卓に腰を掛けている。

 恐らく酒瓶が二本

 逃げ込んだ安堵感からか、早速酒に手を出している。下品なゲップが聞こえる。


 ここまで臭う……しかしゲップではない……

 

 眼の前の畑に使う肥料としての肥溜めがある。

 まとめて角材を漬ける。ぐ〜るぐる、ぐ〜るぐる回す。

 錆だけでも良いが追加サービス。

 勝手口の下の叢でクライス、なにやらゴソゴソと小細工。


 今一度、室内を観察する。

 クライスに背を向けて座る男が片手に酒瓶?を持ちながら立ち上がろうとする。

 対面の男が手で制し、瓶を食卓に置く。


 ……もう酔っている……


 男はふらふらと玄関に向かう。

 門番の交代の時間?いや流石に早い。

 ならば便所か?

 まぁ、どちらでも三人が分裂するのは有り難い。

 案の定、男は歩きながら股間をもぞもぞ、玄関横の扉を開けて入って行った。


 便所確定。


 そしてこちらも準備万端。


 義手をポケットから引っ張り出す。

 義手の指は第一関節で折れ曲がり様々な場所に引っ掛ける事が出来るようだ。


「コンコン……」勝手口の扉を足でノック。


 しばらくしてゴソゴソと鍵を外す音。

 警戒しながら少しづつ勝手口の扉が開く。

 左右を安全確認。

 下を見て鼻を摘む。

「くさッ!?なん!?う○こじゃね、汚ッっ……」若者の声。

「ゴッ!」下を見ている若者の後頭部に小さいが重い音。

「いッデッ!アッ……」若者の声。

「ブッズッ……ドンッ!」重い物体が落ちた音。

「イギッーギィ……」手を突いた叢に長い釘が敷き詰めてあった。右手を1箇所、左手を2箇所釘が貫通した、そして恐らく顔面にも。

 叫び声は急に途絶えた。

 釘板にキス直後、義手で後頭部を殴られ気絶。


 クライスは、義手を壁の木材の凹凸に引っ掛けて、地上から2Mの高さに位置していた。

(平面図で★印の位置)

 そして、勝手口から頭を出してきた若者が糞尿の臭いで下を向いた隙きに、上から後頭部を蹴り下ろした。


『少々長すぎたか……釘……』手足だけで良かったんだが、勢いで顔面まで刺さってしまった。

 そんな手の甲から突き出た釘を、義手の人差し指に引っ掛ける。

 義手を捻る。

 錆びた釘はU型に曲がる。残り二本も同様に。


 釘板ごと、若者を室内に引き摺る。

 そして勝手口を閉める。


『長いのも使い道があるな……しかし臭い』そんな事を考え、室内を見渡しながら、拾った麻縄で両足を縛り、そのまま釘板ごと頭までぐるぐる巻に縛った。


 室内では「ゲーゲー……ゲボゲボッ……」という聞くに耐えない BGMが大音量で流れていた。


 トイレから途切れなく聴こえる。

 ここに来てから呑んだけでは、ここ処まで成らぬ。

 コイツ暇さえ有れば呑んでいるのだ。


 或いは、現在のこの苦境を一時的にでも忘れる為に酒に溺れているのか……そんな所か。


 奴等が今まで犯した罪の量からすれば、細雪程度の苦悩。


 再度、家の配置。


 トイレは玄関横、便座の後ろ、つまり座って背中側が外壁面。

 恐らく換気用に小窓が付いている、便所だから。叫ばれれば面倒。

 トイレの先には玄関が見える。

 安造りの平屋は、扉がなく食卓から玄関まで遮るものは無い。


 玄関扉の磨りガラスの向こうに門番の若者が立っているのが辛うじて判る。

 門番の役割を果たしていない門番。


 徐々にゲロの音が小さくなる。

 クライスはトイレに近づく。

 先程から立ちん坊始めた門番の交代は未だろう。

 コイツから仕留める。


 トイレ扉の丁番側にしゃがむ。

 トイレの扉が開く。

 開けている人間の気持通りに、気怠く、ゆっくり開く。


 空ゲロをしつつ、クライスより少し大柄な痩せっぽちが出てくるのを、壁と扉の隙間から観察する。


 後ろ手で乱暴に扉を閉める。

 扉が閉まったか?否か?確かめもせずに左前方の食卓に戻る。

 案の定、勢いが良すぎた扉はバウンドして中途半端に開いて止まった。


「バコンッ!」

 クライスが思いっきり扉を閉める。大きな音が鳴る。

 左後方からの音に若者が反時計回りに振り返る。

 右後方からクライスも反時計回り滑る。

「ん?」と何かしらの影を視界の隅に見た若者の声に成らない声。

「グボッ!」股間に激痛。

 叫ぼうとしたら口に硬い塊が突っ込まれた。

 顎が砕けんほど噛むが塊は外れない。

 クライスの義手だった。


 直ぐに睾丸を掴まれ、引き落とされた。

「ブチチィ……」引き千切れる様な嫌な音。

 鮮血が股ぐらから溢れ出る。

 若者は口から泡を吹いて失神していた。

 ズボンの中で玉袋は破れ、睾丸が露出した。

 鼠径部が赤黒い血で染まる。


 クライスのズボンのポケットから紐が出てくる。

 手首と足首を背中で縛る。

 若者の身体は弓なりに反る。

 トイレとは反対の小部屋に入る。

 窓のカーテン端をナイフで裂く。

 カーテンの向こう、窓から門番の男が見える。

 家を背に向け、石垣に腰を降ろし表通りに顔を向けている。

 アイツは監視していない、只見ているだけ。


 カーテンで猿轡を2つ作り、うんこまみれと股間血だらけの二人の後頭部で縛る。


 切れたカーテンの窓から門番を観る。

 かなりの長身180センチを越えている。

 男はジャケットの内ポケットからスキットルを引っ張り出すやいなや、グビグビと呑む。


「ゲフッ……」とゲップ。窓越し故に音は聴こえない……が動きで判る……空いた手は自身の腰の剣のグリップを握っている。

 自身が持ち出した椅子が有るのに、家の門柱に凭れて視線は動かない。

 完全に凭れず、恐らく利き足は門柱の根本に置かれている。

『ほう、すまぬ、そなたはまだマシか……』クライスは心の中で謝る、コイツは三人の中では上出来だ。

 ならば、相手の力量も上方修正し、且つ第三者に見られる危険性を少しでも減らすなら、宅内でヤルのが得策。

 新聞の情報ではまだ、犯人(クライス)の情報は漏れていない。

『え〜と……』クライスは周囲を一瞥し、玄関を静かに開けた。

「……ん?」門番の男が気付く。

「なんだよ、もう交代してくれんのか?」玄関に軽口を浴びせる。

「……チッ……なんだよ、返事ぐらいしろ!ボケが!」すくと立ち上がり、顔を半分、片目で玄関を覗く。


 ……ホンの一瞬……視線が留まる……


 前の前に、股間から出血したクリスが床に倒れている……俺の次の門番役……


『何だッ!』思考が巡る。


 ドアの左脇……

 門番の視界の外れ……

 黒い影が門番に絡みつく……


 門番は小声で「むッ……」とだけ。

 大声を出さないのはそこそこ訓練されている証拠。


 クライスと門番は0(ゼロ)距離。

 左腰の剣はクライスの腰がピタリと付いて握れない。

 チェストメイルに挿したナイフも、クライスの胴で抑え込まれ触ることすら出来ない。


 そしてクライスの頭と門番の頭の高さは同じ。

 身長が15センチも違うのに、頭の高さが同じなのは、門番の腰が曲がっているから……


 クライスは門番にすがり付いている体勢……

 門番はクライスを支えている体勢……


 徒手で殴るしかない。

 武器の距離まで離す。


 俺は右肘を相手の肩口に振り下ろそうと……した……

 相手は俺の左腕を自身の脇に抱え、後ろ向きに倒れる……右肘を入れようと前方に勢いをつけいてた俺のベクトルと重なる。


『そのまま、倒して、このチビの後頭部を床に!』一瞬、勝ち目が観える。


 ……!!!……


「ヒイー!」思わず今度は声が出る。

 理性で抑え込めない。

 勝ち目が無くなる。

 頭に稲妻が走る。

 初めての経験。


 一瞬に様々な事を夢想する。


 ……俺の腕がこのチビより先に床に接地する事が判ったから……


 このチビは俺の肘関節を極め、それ故に真っ直ぐ伸びた俺の左腕は、チビの背中よりもゆうに10センチは飛び出していた。この左腕は、二人分の重量と加速をその腕一本で吸収し減速する事になる。


 この硬い床板で……

 拳を作るべきか?

 掌で支えるべきか?

 何が最適解なのか?

 もう何も一切判らない?


『嗚呼……もう……じき……』

 1秒も無いのに永い……そして直ぐに……


「ゴッジャ!!!」何とも言い難い音。


 痛みは無い……というか感覚が無い。


 チビはくるりと身体を一回転。

 中腰で立つ。

 視線が会う。

 顔半分は黒い布で隠され目しか見えない。

『私は今、中腰で立っている』という以外に何も述べない、その視線。


 出来の悪い人形かと錯覚する。


 チビが退いた事で、漸く俺の左腕が視界に入る。


 ……短い……


 俺の左腕は元の8割程度の長さに成っている。

 手甲で縛ってある為、前腕が開放性骨折なのかどうか判らない……ただ少なくとも元の長さでは無かった。手首から血が溢れている。

 痛みは感じない。

 視線が上に伸びる。

 肘に位置が左右で違う。

 左腕の方が明らかに短い。


 状況を見て、そして辛うじて認識するや否や……

「ギィィィィーァァァァッ!……」激痛、激熱で、口が開く。

 チビの事など、構っていられない。

 その痛みを堪えるのに、叫ばずにいられ……

 その瞬間、チビの拳が口を占領した。

 叫び声が塞がれる。

 無意識に噛む!

 鉄の味!

 俺の血?

 否、この硬さ、肉ではない。

 認識した直後、チビの膝が顎に跳んできた。


 ……卒倒……


 ……痛みからの解放……



 ……。。。……


 クライスは気絶した門番をカーテンの端切れで縛る。

 縛りながら、門番の状況を診断する。

 門番の手首は二名分の体重で圧迫され、恐らく橈骨の手首根本で折れている。出血から判断するに、折れた橈骨の切断面が皮膚を突き抜けている可能性がある。

 しかし、そこだけで今の衝撃を吸収出来た訳ではない。

 クライスは肘を極めていた。その為に衝突の衝撃が、肘の曲がりで緩和されない。

 衝撃吸収の役割は、その先の関節、つまり肩関節に委ねられた。

 その結果、上腕の肩付け根、所謂ボールジョイント形状となっている手前で折れている。、それが門番の左腕が縮んだ理由だ。

 ついでに肩は脱臼もしている……肘も脱臼か或いは肘頭骨折、そんな事を、作業をしながら診る。

 元来、コイツを診断する意味など無いのだが、クライスは職業柄、自身が与えた損傷と、それによる敵の行動制限を常に考える癖が染み付いて、こんな時でも自動演算の如く、相手の損傷具合を計算していた。


 自力で脱出出来ない様に彼等を縛り上げ、三名を平屋に残したまま、正面玄関を施錠。

 クライスは勝手口から滑り出る。


 ……棄ておこう……

 ココならば最悪もみ消せる。

 クライスは平屋を後にした。


 平屋からは、ゆっくり歩いても5分程度でサルマルの掘っ立て小屋まで戻れる。


 まるで帰ってくるのを観ていたかの様にサルマルが出てくる。

「……終わったか」

「あぁ、それなりに……」

「いい年してよくヤルな」

「お主に言われたくないな」

「では、またしばらく」

「たまに来るが良い、募る話もある」

 そんな会話。

 その後は早々にサルマルと別れ、クライスは来た道を戻る。

いつの間にか、義手は杖に変わっていた。


『そろそろマクシミリアーノは入院したかな』

 そんな事を考えるクライスに人影が近づいてくる。

紺色の地味なズボン。

黄褐色の襟付きのシャツ。

一重の地味な中年男性。

男の肩口から傾いた陽光が刺す。

もう夕方5時。


ヨミだった。





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