第7話 橘麻衣 その三

 麻衣は水を汲む音で目を覚ました。毎朝、下男の吾平が裏庭の井戸で汲んだ水で、台所の水甕を満たすのだが、いまではすっかりその音が目覚まし代わりとなっている。

 平成の世でなら熟睡している時間とはいえ、この時代ではそうも言っていられない。そろそろ起きださなければ、下女のつるにまた嫌みを言われてしまうだろう。

 なんとか布団から這いずりだし、身支度に取り掛かる。帯を結ぶのにもたついているうちに、台所のほうから音がしはじめて、麻衣を急かすのに一役買った。  

 太陰太陽暦二月中旬、太陽暦で言うなら三月の下旬と言ったところ。土間いっぱいに広がった湯気は暖かげだが、朝の空気はまだまだ冷たい。

 高窓から射しこむ光が整然と並べられた調理器具や竈を照らし出し、優しい鰹出汁の匂いが台所いっぱいに充満していた。

 麻衣は式台に正座すると、頭を下げ、忙しそうに歩きまわる吾平とつるに挨拶した。なぜか和服を着ると背筋が伸び、挨拶やお辞儀が丁寧になる。

 朝のこの瞬間は、時代劇の世界に入っていくようで、いまだにわくわくする。

 襷がけで土間へと下りていくと、まな板のうえの魚が乗っていた。その捌き方を思案しはじめたとき、春平太がひょっこりと顔を見せた。

「おはようございます。ひと晩たって心が決まったかと思いまして……」

 となりにすり寄ってくるなり、春平太は言った。

「一晩って……あれからまだ数刻しか経ってないんだけど……」

 どういうつもりだろうかと麻衣は怪訝に思ったが、顔を上げたとたんその謎は解けた。

 春平太は土間の中を歩きながら、笊に盛られた食材をあれやこれやと物色して回っていたのだ。どうやら気になるのは麻衣の返事よりも朝食の献立らしい。

「目的はただ飯か……」

 白い視線を向けると、ちょうど春平太の腹の虫が鳴った。そのあまりの絶妙さに、麻衣は思わず吹き出しそうになったが、そこはしかめ面で誤魔化しておく。

「いや、これは失礼」

 春平太はヘラヘラとばつの悪そうな笑みを浮かべつつ腹を撫でまわしていた。

 そのすがたを横目で見ながら内心ため息を漏らしてしまったのは、自分のなかの理想の武士像を壊された気がしたからだ。武士は食わねど高楊枝とはもはや死語ということなのか。これほど武士らしくない武士を見たのは初めてだった。

 麻衣はまな板に顔を戻した。

 慣れたつもりの江戸の包丁だが、つるが心配そうにチラチラとこちらの手元を覗きこんでいるところを見ると、自分で思っているほどではないのかもしれない。

 なんとか切り分けた身を鍋に放りこんでふり返ると、ちょうど家の主が顔を出した。挨拶を交わしながら土間に下りたつと、百閒は麻衣の横に寄り添うように立った。

「なにか手伝うことはありますか?」

 鍋の中を覗き込みつつ尋ねる。

「では鍋を見ていてください。火の調節がどうも苦手で……」

「お安い御用です」

 答えると、百軒はしゃがんで焚口を覗きこんだ。とたんに、はじまるのはつるの小言である。

「まったく旦那様が甘いからこうやって新入りがつけ上がるんですよ」

 というわけだ。が、しかし、その程度のことで黙る麻衣ではなかった。

「あのね、つるさん」と、いつものごとく持論を繰り出す。「女がただ黙って男の命令を聞く時代は、本来なら二百年も前に終わってなきゃいけないんですよ。そんな考え、太平の時代に合いませんから―――」

 語りはじめたのは、ここで黙ればこのさきずっと封建社会的男尊女卑の世界のなかで生きなければならなくなるかもしれないという危機感のせいだ。この家のなかでだけでも男女同権を浸透させておかなければ、百地家での生活は絶望的で、未来に戻ることが危ぶまれるいまの状況では尚更であった。

 講釈を終え、麻衣はせいせいとした気持ちで春菊の乗った笊を掴んだ。いったんは井戸に向かおうとしたものの、ちょうど耳に入った春平太の言葉が気になり、思わず足を止めた。

「百軒殿は女にこき使われてていいんですか?」

 その口調はつるほどではないが、否定的な響きを伴っていた。

 改めて考えればそれもそのはず、春平太は侍であるにとどまらず、九州男児という厄介な生き物なのだ。麻衣の立ち居振る舞いをこころよく受け入れるはずはなかった。

 いや、あっさりと麻衣の説く男女同権を受け入れた時右衛門や百軒がどうかしていたと考えるべきだろう。彼ら近世の大学者が、新しい物好きのアバンギャルドな男たちだということをあらためて痛感し、同時に彼らの庇護を受けられることになった幸運に感謝した。

 麻衣は手作業するふりをしながら会話のつづきに耳をそばだてた。

「ミス・タチバナはわしの英語の師でしてね、弟子が師匠のお手伝いをするのは当然です。性別は関係ありません」

 即答する百軒に、春平太はさらに驚いたようだった。目をしばたたかせながら聞き返す。

「麻衣殿が師匠……?」

「ええ、麻衣殿の博識は大したものです。シー・イズ・グレート・ティーチャー」

「へえ……」半信半疑といった相槌を打ってから、春平太はつづけた。「それにしても英語ねえ……それ、役に立つんですか? どうせやるなら蘭語のほうがいいんじゃ……」

 麻衣がうっかり声を上げたのはそのときだった。

「いまからやるならぜったい蘭語よりも英語のほうが―――」

 失態に気づいたのはそこまで言ってしまったあとである。あわてて口をつぐむが、もう遅い。

「いまからやるなら……ね。なんだか意味ありげな言い回しですね……」

 その鋭い視線にどきりとしたのは、初めて出会ったときのことを思いだしたからだ。

 あのとき、広場の隅に追い詰められた麻衣のまえにあらわれた春平太は、刀の柄に手を掛けるやいなや、一切のためらいもなく次々に五人もの人間を斬り伏せたのだ。

 いくら助けてもらった身の上とはいえ、あの悪鬼のようなすがたはいまだに目に焼き付いている。一見するとただのチャラ男のようだが、あの愛嬌のある笑顔にも、腑抜けたような物腰にも惑わされてはいけないし、けっして気を許してはいけないのだ。

 麻衣は自分にそう言い聞かせながら、春平太のまえにずいと歩み出た。そして、春菊の笊を突きつけ、こう言った。

「じゃあ、永井様、これを洗ってきてください」

「私がですか……⁉ あの、私これでもれっきとした侍なんですけど……」

 よほど驚いたらしく、春平太は素っ頓狂な声を上げた。が、麻衣は怯まなかった。毅然と胸を張ると、さらにつづけた。

「下女だろうが学者だろうが侍だろうが、働かざる者食うべからず―――食べたいなら働いてください」

「はいはい……」と、渋々ながら返事をしたのは束の間の睨み合いのあとだった。「わかりましたよ、まったくこれだからよそ者は……」

 ぼやきながらも笊を受け取ると、裏庭のほうへと向かって歩きだした。

 出ていったときには仏頂面をしていた春平太だが、朝食が完成するとすぐに機嫌をとり戻し、自分で洗った春菊で作った煮びたしは格別に美味しいなどと、可愛げのあることまで言い出していた。

 麻衣と百軒と春平太は、しばし江戸の観光地や食べ物、芝居などの話題で盛り上がった。

「気持ちは固まりましたか?」

 春平太が本題に触れたのは食事後、茶が出されたときだった。なにげないふうを装ってはいるが、はじめからその話題を切り出すころあいを計っていたにちがいない。

 麻衣は無言で茶をすすっていた。答えはすでに出ているが、なにをどこまで彼らに教えていいものかを考えあぐねいているのだ。

 やがて顔を上げると、慎重に言葉をついだ。

「これは言うべきかどうか迷ったのですが、あと半月ほどで水野忠邦は幕閣から追放されます。そうなれば、幕府は一本木から手を引く可能性があるということです。少なくとも、以前程度には一本木逮捕に消極的な態度に戻るでしょう」いったん顔を上げて反応を窺ったが、ふたりはまだ話の真意を掴みかねているようすだった。麻衣はさらにつづけた。「私とカラクリ師と江戸音痴の隠密の三人がいくら頑張ったところで、町奉行より先に一本木忠太を見つけ出せるとは思えません。ですが幕府が手を引いたら、また尚之介様たちの協力を仰ぐことができるかもしれませんし、そうなれば犬養様だって―――」

 そこでようやく、春平太が得心したようすで口を開いた。

「つまり、それまでただ町奉行が無能なことを願って待つべきだと言うわけですか」

「たしかに消極的な案だとは思いますが、ほかにできることがあるとは思えません」

 麻衣が断言すると、百軒も口添えしてくれた。

「わしは麻衣殿の意向に従うのみ」

 春平太はしばらく無言で茶をすすっていたが、やがて顔を上げた。表情はあくまで穏やかである。

「なるほどよくわかりました。当分ひとりで一本木忠太を探すしかないようですね」

 そのあとはふたたび他愛のない話題に花を咲かせ、会話がひと段落すると、春平太は丁寧に頭を下げて猫屋をあとにした。

 しかし、ことはそれで一件落着とはいかなかった。

 翌朝、春平太は前日とおなじように土間にあらわれたかと思うと、勝手に手伝いをはじめ、当然のように朝食をとって帰っていったのだ。そして、それからというもの、昨日は朝食、今日は夕食といった具合に、まるで行きつけの煮売酒屋のように頻繁に猫屋にあらわれるようになった。五日目の晩酌の折には、料理に舌鼓を打ちながら、ついに英語の勉強会にまで参加すると言い出した。

 迷いながらも受講を許可したのは、春平太の持つ情報とスキルに興味が出たということもあるし、敵なら敵で、やはり近くに置いておくべきだということもある。

 百軒の口から花見の話題が出たのは、そんなわけのわからない状況がしばらくつづいた二月の半ばごろだった。

 春平太はその話にすぐさま飛びついた。

「一本木がもうしばらく捕まらないように神様にお願いしておかないと」

 どこまでが本気でどこからが演技なのかはわからないが、少なくともそう言って屈託なく笑う表情には敵意も悪意も感じられなかった。

 あれよあれよという間に話はまとまり、麻衣と百軒と春平太は少しばかり遅い梅見に出かけることになった。

 当日、江戸は朝から花見日和で、日本橋通を行き交う商人や旅人の表情も、彼らの頭上に注ぐ光も春の色だった。

 麻衣とて例外ではない。すっかりお江戸デート気分で湯島天神へと向かって歩いていた。考えていたのは常夜燈のことでも一本木忠太のことでもなく、中野先輩の袴すがたである。  

 となりに歩いているのが中野先輩だったらどんなに素敵だろうと思わずにはいられなかったのだ。

 まずは湯島天神で弁当を食べ、そのあと不忍池のまわりをゆっくりと散歩し、土産に赤いサンゴのかんざしを買ってもらう。夜はロマンチックな大人の雰囲気の店でしっとりと酒を呑み交わし、成り行き次第では……ニヤニヤと緩みっぱなしの麻衣の表情を、しかし春平太の無粋な言葉が打ち消した。

「あのう……」と、口をとがらせつつ、切り出した。「この重箱、すごく重いんですけど……」

 夜明け前に起きだして、吾平とつるとともに作った重箱入りの弁当を春平太に持たせていたのだ。

 張り切って作りすぎたことと、大層な重箱のせいでたしかにずっしりとした重量感ではあるが、中野先輩だったらそんな愚痴なんて言ったりはしないだろう。

 幸福なひとときを邪魔され、麻衣は大仰なため息で応じた。

「作るの手伝わなかったんだから、せめて運んでください」

「まったく……」と、春平太はさらに大げさなため息で応酬したかと思うと、小声でこんなことを付け加えた。「そんなんだから嫁に行けないんですよ」

 反射的にカッとなったものの、麻衣はすんでのところで罵詈雑言を呑み込んだ。この時代、二十五と言えば中年増と言われる年齢なのだ。

「まあ、まあ。百五十年後では事情もいまとはちがうでしょう」

 百軒のとりなしが唯一の救いだった。

 聞き覚えのある声に立ちどまったのは、三人がそんなやり取りをしていたとき、神田鍋町に差しかかった辺りだった。

「これは、お嬢じゃねえですかい」ふり返ると、こちらに駆け寄ってくる蔵六のすがたが目に入った。「ここんとこ見なかったけど、たまには長屋ウチにも顔出してくだせえ、旦那がひまを持て余して困ってんですよ」

 挨拶もそこそこに、蔵六は早口でまくしたてた。その背後から、尚之介が顔を出す。

「油を売ってる場合か。俺は先に行くぞ」

 それだけ言うと、尚之介はあっという間に走り去った。よほどのことがあったらしい。あとを追おうとする蔵六の袖をつかんで、麻衣は尋ねた。

「なにかあったんですか?」

「それが、たったいま多町で一本木忠太の大捕り物をやってるって噂を耳に挟みやしてね、ちょうど向かおうとしてたところなんでさあ」

 聞くや否や、麻衣は即答した。

「私も行きます!」

 麻衣は百軒に詫びを入れると、蔵六とともに駆け出した。

 三人は衆目を集めながら―――とくに通りを全力疾走する女は珍しく、通行人の視線を一身に浴びながら走りつづけた。

 やがて通町を外れ、青物市場が軒を連ねる多町に入った。

 野菜をのせた大八車や、買いもの客、出かけようとする俸手振りで賑わっているのはいつものことだ。が、麻衣はすぐにただならぬ雰囲気に気がついた。奥に進むにつれ、なにやら不穏な怒鳴り声も聞こえはじめてくる。

 三人は、不安げな表情を浮かべた野次馬たちをかき分けながら木戸をくぐった。

 視界が開けると、突棒つくぼう刺叉さすまたなどで武装した十数名の取り方たちのすがたが目に入った。中央にいる同心は犬養である。腕を組み、いつもどおりの不機嫌を顔面に貼りつけていた。

 対峙しているのが一本木忠太そのひとだろう。

 小袖の着流しに雪駄穿き、総髪を無造作に結い上げている。体は大きいというわけではないが、ずっしりとした存在感のある男で、視線の鋭さは浪人か侠客といった雰囲気だった。

 張りつめる空気に、麻衣は思わず身震いした。野次馬たちもしわぶきひとつ起こさず、固唾を呑んで成り行きを見守っている。

「もう逃げ場はねえ、観念しな、一本木」

 犬養の声が静寂を打ち破った。

 匕首あいくちを持つ忠太の左手が動くと、取り方たちのあいだに一触即発の緊張が走った。が、忠太がその鞘を抜くことはなかった。

「この後におよんで抵抗なんて野暮はしねえさ」穏やかな口調でそう言うと、唯一の武器である匕首を犬養のまえに放り投げ、さらには、こんなことを付け加えた。「それに、俺もあんたに話したいことがあるんでな、南町奉行定廻り同心犬養登殿……」

「ほう、そいつは楽しみだ」

 まったく楽しそうではない顔で犬養が答えると、その目配せをうけて取り方のひとりが縄を手に動いた。一本木は縄をかけられると、取り方に従って与力の前まで進み出た。

 犬養はいかにも面倒くさそうな足どりで尚之介の前までやってくると、前置きなくこう言った。

「俺の勘では今度こそ当たりだ」

 今度こそ、というのは以前に誤認逮捕の経験があったということだろう。つまり先ほどの男が本物だと言いたいらしい。だが、尚之介は納得しなかったようだ。

「さっきの男もそれなりに修羅場を潜ってきているようだが一本木ほどではない。本物ならあの程度の包囲は突破しただろうからな」

 江戸城での経験から、目のまえの男が人違いだと判断したらしい。

 相槌を打ちながら、蔵六も言い添えた。

「旦那が子供扱いでしたからねえ」

「お前がか……?」

 珍しく驚いたようすで、犬養が聞き返した。

「ああ。向こうにその気があったらやられていただろうな。あの腕は少なく見積もっても四大道場の師範並みだ」

「俺の勘では当たりだがな……」釈然としないようすで犬養はしばし何ごとかを思案していたが、すぐにいつもの調子に戻ると、こう言い放った。「まあいい。要するに俺の勘が鈍ったか、お前の腕が鈍ったか、そのどちらかってことだろう」

「そうだな」

「どっちにしろすぐにはっきりさせてやるさ」

 最後にそう言い残すと、犬養はきびすを返し、麻衣たちのまえから立ち去った。

 通りには、腰縄を引かれながら口ずさむ、一本木忠太の歌声が響き渡っていた。

 野次馬たちとともに、麻衣もしばらくその声に聞き入ったが、やがて雑踏に紛れて聞こえなくなった。


「一本木が捕まった以上、俺はもう江戸にいられないだろうな」

 尚之介がそう漏らしたのは、来た道を戻りはじめてしばらくしてからだった。

 答えに窮し、麻衣はうつむいた。

 たしかに、常夜燈を奪い返す手立てもなく、正式に追放が解かれたわけでもないとなれば、そういうことになるのかもしれない。

 斜めうしろからでは、その表情をうかがい知ることはできなかったが、口ぶりから、尚之介がちかいうちに旅立つつもりだということが察せられた。

 三人はしばらく無言で歩いた。

 麻衣が口を開いたのは、大通りに戻ってふたりに別れを告げる直前になってからだった。

「時右衛門様暗殺の黒幕が老中水野忠邦だという証拠があります」

「証拠……?」

 尚之介がふり返った。

「はい。あの証拠があれば、最悪の事態―――水野が常夜燈を手にすることだけは阻止できるかもしれません―――」

 歴史上、水野忠邦は弘化二年二月に老中を罷免となり、九月に蟄居、十一月に山形へ転封となる。つまり、水野は常夜燈が完成するまえに権力を失うはずだった。しかし、麻衣が未来から完成した常夜燈を昨年七月の時点に持ってきたことで、その時系列が変わり、本来なら手にするはずのないカラクリを、水野―――つまり時の権力者が手にしてしまう可能性が出てきてしまったわけだ。     

 いまになって証拠の話を持ちだした最大の要因は、この先幕府が常夜燈を持った状態で幕末を迎えるという最悪のシナリオに危機感を覚えたからだ。常夜燈の影響が世界規模に広がることだけはなんとしても回避しなければならない。

 いくら常夜燈が完治していなくても、あのカラクリが危険であることに変わりはないのだ。

 だが、尚之介の反応は麻衣の期待とはかけ離れていた。

「お前の言う証拠とやらがなんのことかはわからんが、老中を脅迫でもする気ならやめておけ。命がいくつあっても足りんぞ」

「でも、幕府はちゃんと法が行き届いてて、吟味やお裁きもある法治国家と聞いています。ちゃんとした手順で訴えれば役所は動いてくれるのでは―――」

「百五十年後にどう語られているのかは知らんが、公儀はお前が渡り合えるほど甘くない」

「そうはいっても、尚之介様だって六年前まではその役人だったのでしょう……」

「だからこそ言ってるんだ」

 尚之介の声に苛立ちが混じる。

「でも、私はどうしても―――」

「だめだ」

 と、尚之介は麻衣の言葉を遮った。

 三人は通町まで戻っていた。本来なら、蔵六の長屋に向かう尚之介たちと、百軒たちのもとへと戻る麻衣が別れるべき辻である。

 麻衣は迷わず、ふたりについて大通りを横断した。足のはやい尚之介に追いすがりつつ、尋ねた。

「つまり、なにもしないってことですか」

「左衛門少尉様からの新しい下知もない。もうなにもするなということだろう。お前も余計なことはするな」さらに食い下がろうとする麻衣に、尚之介はぴしゃりと言った。「俺はお前に頼んでいるわけじゃない。これは命令だ。わかったな」

 麻衣は足をとめ、しばし去り行く尚之介を見つめていた。だが、やがて意を決したように駆け出すと、その前に回りこんだ。気の強そうな眼差しを向け、言った。

「女が男の命令に無条件で従うという慣習は、いざというときには、男が妻子の代わりに死んでくれるという前提があってはじめて成り立つものです」

 常々思っていた持論が、感情にまかせてあふれ出した。

「なにが言いたい?」

「言いたのは、私に命令しないでくださいってことです。そのかわり、私もあなたにかわりに死んでくれとは言いませんから」

「……好きにしろ、死ぬ覚悟があるならな」

 尚之介は大きなため息を吐きだすと、麻衣に背を向けた。

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