第8話 橘麻衣 その四  2020.7.20加筆修正

 百軒の家の小ぢんまりとした裏庭には小さな蔵と稲荷があって、川越の時右衛門の家の造りとほとんどおなじである。板屛の向こうは裏長屋が建ち並ぶ区画で、漏れ聞こえる声や生活の匂いが江戸の人々の生活を想像させた。

 麻衣はその裏庭に面した縁に腰を下ろし、空を見上げていた。

 夜の五つ。夕餉を済ませ、日に一度は顔を出す三毛猫の満に餌をあげてしまえば、ほかにやることがない。仕方なく、となりで丸くなった満を撫でながら月が出るのをぼんやりと待っていたのだ。

「恋煩い、ということばは百五十年後にもあるのでしょうか?」

 声に顔を向けると、おなじように空を見上げる百軒のすがたが目に入った。縁伝いにとなり合う自室の障子を開き、敷居をまたいで立っている。

 質問の意図をはかりかね、麻衣は顔に怪訝な表情を浮かべた。

「そりゃまあ、ありますけど……」

「そうですか」百軒がにっこりとほほ笑み返す。「どれほど見識を広め、どれほど技術を発展させようが、人の悩みというのは別段変わらぬようですな」

「はあ、それはそうかもしれません。……ですが、それと恋煩いになんの関係があるのでしょう?」

 おや、と意外そうな顔を向けてから、百軒は答えた。

「てっきり木島殿のことを考えているのかと思いましたが、ちがいましたか?」

「そ、それはたしかにそうですが……」

 図星を当てられ、麻衣は思わず赤面した。とはいえ、百軒の言うような、色気のある話では、もちろんない。考えていたのは、捕り物を見物した帰りに尚之介が蔵六に言った言葉である。

 時間が経つにつれ、尚之介が居なくなるという現実が、想像以上の負担となってこころに重くのしかかってきている。同時に、頭のなかを様々な思いが目まぐるしく駆けめぐってもいた。

 ここに来るまえに知っていた江戸のこと、来てからはじめて知ったこと。未来での人生やここでの生活。時右衛門や百軒、犬養や蔵六やイチとの出会い、そして木島尚之介という侍のこと。

 いったい何のために出会ったのだろう、と考えずにはいられなかった。単なる偶然か、それともなにかしらの意味のある出会いだったのだろうか。尚之介が江戸をたってしまえば、その答えも永遠にわからないままになってしまうだろう。そんな思いが、胸をかき乱しているのだ。

「月が、出ましたな」

 空を見上げつつ、百軒が腰を下ろした。猫なで声でその膝にすり寄る満を見ながら、麻衣は切り出した。

「ちょっと見て欲しいものがあるのですが」

「はて、わしに見て欲しいものとは……」

「待っててください」

 勢いよく立ちあがると、いったん自室に戻って文箱からスマホをとり出した。ふたたび縁に座り直すと、百軒の膝元にそれをさしだした。

「これは私が未来から持ってきたスマホっていうカラクリなんですが、ここに水野忠邦が時右衛門様の暗殺の黒幕だという証拠があります」

「証拠……? いったいこれのどこが……」

 百軒は眼鏡の奥の細い目をしばたたかせながら、床に置かれたスマホをためつすがめつした。

「下手人の顔と声を、私がこのスマホに録音したんです」麻衣はそこで説明の無駄を覚り、言い方を変えた。「とにかく、このカラクリは永遠に動きつづけるわけではありません。菜種油が尽きると行燈の火が消えるのとおなじようなものとお考えください。つまりお聞かせできるのは一度だけです」

「聞かせる?」

「はい」

 麻衣は手元に視線を落とすと、スマホの電源を入れた。百聞は一見に如かず。録音したデータを実際に聞いてもらうのが早いだろう。

 再生ボタンを押したあとは、なにかがこすれる音や、マイクが麻衣の息をひろって起こる雑音がながれているだけだった。

 百軒は何が起こっているのか理解できないでいたようだったが、やがてはっきりとした人の声が聞こえはじめると、低い唸り声を上げた。

「なんと……」興奮に声を震わせながら言った。「これはつまり、現実の音をそのままこのカラクリが記憶し、再現して聞かせているということか……⁉」

 蓄音機すらまだ発明されていない時代に、音声データひとつでその本質を見抜く慧眼けいがんに麻衣の方が驚きを隠せなかった。

「あのとき、隙を突いて逃げだすことに成功した私が、ふたたび捕まってしまったのは、やつらの会話を盗み聞きしてたからなんです」

 時右衛門が凶刃に倒れ、常夜燈をやつら奪われたあと、麻衣はいったんは逃げ出すことに成功した。録音を開始したのは、そのあと空き地に集まった下手人たちの声がたまたま耳に入ったからだ。

 会話の内容は概ね作戦の成功と、その後の段取りだった。むろん、目撃者―――つまり自分を探し出して始末するという指示も出ていたが、一番耳を疑ったのは、その頭格の男がはっきりと黒幕の名前を口にしたことだった。

「筑前守様に報告だ―――」

 麻衣は無意識のうちにスマホを向けていた。とはいえ、遠すぎてなにも録音されていなかった。しかも、そのせいで存在を覚られることになったのはなんとも間抜けな話だ。が、結果的にそれが功を奏した。

 麻衣を捕えて安心したあと、男たちはえらく多弁になった。むろんのこと、録画、録音されているという心配など露ほどもなく、麻衣の質問にぺらぺらと口を開いたのだ。

 とくに花井と名乗った頭格の男は、自己顕示欲の塊のようなタイプで、自分の手柄を自慢げにしゃべり倒した。

 花井は、最後に麻衣の始末を配下に命じると常夜燈を持ってその場をあとにした。春平太が颯爽とあらわれたのはその直後である。

 再生が終わると、百軒は無言のまま庭を見やった。

 手入れの行き届いた庭の草木が、月明かりを受けてぼんやりと照らし出されている。

「麻衣殿が考えていることは聞かずとも想像できます」百軒は顎を撫でながら、ゆっくりと切り出した。「おそらくこの証拠をしかるべき筋―――たとえば同心の犬養様などに聞いていただき、常夜燈がその手にもどるまえに筑前守を追い落とそうと、そういう腹積もりなのでしょう」

「最悪私が未来に帰れなかったとしても、常夜燈が水野に渡ることだけは阻止したいんです。百軒様もおなじ気持ちでしょう。時右衛門様の仇に常夜燈を奪われるなんて―――」

「たしかに」厳かな口調で、百軒が麻衣の言葉を遮る。「常夜燈はまちがいなく久松時右衛門の最高傑作。師がその人生をかけて作り上げたカラクリを弟子が守りたいと思うのは至極当然。仇を討つことはできなくとも、一矢報いるためなら、この百軒、命をも辞さない覚悟がある」

「だったら―――」

 麻衣の言葉が途切れたのは、百軒が首をふってその言葉を制したからだ。

「先ほどの証拠のなかで花井という名前が出ていましたね……」もったいぶった口ぶりに、麻衣はピンときた。固唾を呑んでつづく言葉を待つ。「おそらくその花井、蛮社の獄のときに暗躍した花井虎一でまちがいないでしょう」

 あの事件を紐解けば、水野や鳥居とならんでかならず目にする悪名である。

 やはり、との思いと、まさか、という衝撃が、麻衣のこころに渦巻いた。

 そもそものはじまりは、水野筑前守が当時の西丸附目付鳥居耀三に、『戊戌夢物語』の著者探索を命じたことだった。

 『戊戌夢物語』とは、日本列島に近づく異国の船を、異国船追放令によって打ち払うという幕府の強硬姿勢を批判した高野長英の著書である。むろん、幕政批判が御法度であったこの時代においては処罰の対象になることは明白で、『夢物語』の存在が幕閣に知れるや、その著作者の特定がはじまったことは当然の成り行きだった。

 かねてから高野長英ら大物蘭学者たちが所属する『尚歯会』を危険分子と目していた水野が、『戊戌夢物語』をきっかけにしてその主要メンバーを一網打尽にしようと目論んだ、という側面もある。

「たしか、このとき尚歯会の高野らを密偵していたのが木島様だったんですよね……」麻衣は考えながらつづけた。「ということは、花井が張っていたのは密航計画のほうでしょうか……」

 蛮社の獄では、尚歯会の高野長英らとともに、僧侶や商人たちのグループが有罪を言い渡されている。罪状は、無人島(小笠原諸島)への密航を企てた、というものだった。

 百軒はうなずき返してから、麻衣の話を引き継いだ。

「たしかに『夢物語』は高野殿の著作でした。だが、水野たちが思い描くような情報―――つまり、尚歯会を壊滅に追い込めるような証拠は出ませんでした。当然です。尚歯会の本文は、蘭学の知識の向上とその活用、御政道に反するようなことは本意ではありませんでしたから……」

 ため息を吐く百軒に、麻衣が言い添えた。

「渡航計画のほうも、おなじようなものだったと聞いています」

「そのとおり。彼らの密航計画は、計画と呼ぶにはあまりにも拙く、実行性の薄いものでしたし、それどころか、実行の際にはちゃんと幕府の許可を得るつもりだったと供述したそうです」

「それでも彼らが処罰されたのは、やっぱり証拠のねつ造が行われたたということなんですね?」

「そう考えて差し支えないでしょう」

 予想どおりの答えにうなずき返してから、麻衣は思いきって核心に切り込んだ。

「木島様がその不正に関わったわけではないんですよね?」

「はい」と、百軒が深くうなずく。「花井だけが出世し、木島様が追放に処された事実を考えればそう考えるのが自然でしょう……」

 尚之介が、証拠のねつ造や偽証を拒んだことが原因で鳥居の恨みを買い、追放になったと言いたいらしい。あくまで推測の域を出ない話だ、との注釈を入れたものの、百軒はその自説に自信を滲ませた。

「あのとき、拘束されたのは、十一名。そのうち獄中死を遂げた者が四名、のちに切腹した者、時右衛門様のように関係性を証明できない死を入れるともっと多くなります。わしの言いたいことがわかりますか?」

「……はい」

 尚之介と同様、百軒は水野に関わるなと言いたいのだ。自分でもそれが正しい判断だと思う。同時に、この場所をどこか夢のなかの世界だと思っていた自分に、麻衣は気がついていた。

 当然ながら、ここに生きる人々はファンタジーの世界の住人ではない。痛みも感じれば腹も減る。フィクションのなかの登場人物のように、必ずしも英雄的な死が待ち受けているとも限らない。明日階段から落ちて死ぬ可能性だってあるのだ。

 修士論文を読んだ教授が、「ファンタジーのようだ」と、言った意味がいまやっとわかった気がした。

 肩を落とす麻衣に、百軒は笑みを向けた。まぶしそうに目を細め、言った。

「あなたを見ていると、立場の弱い女子供が安心して暮らしていける社会が未来にあるのだということが想像できますな。だれもが自分自身の善を信じ、発言できる。いや、素晴らしいことです。だが、それはこの先、何十年もの時間と、何千何万という犠牲をともなってはじめて達成しうる大事業。もしかしたら蛮社の獄の犠牲者はその犠牲のなかの最初なのかもしれませんが、麻衣殿をそのひとりに加えるわけにはいかないのですよ」黙ってうなずく麻衣に、百軒がつづける。「仕事はいくらでもある。好きな人も家族もつくれる。この時代に来てすでに半年。そろそろここで本気で生きることを考えてもいい時期だ。この江戸は空想の世界じゃない」

 言葉が見つからなかった。

 答えを探しあぐねいて、麻衣は空を見上げた。天中に浮かぶ月が、厚い雲に覆われていくのを長いあいだ見つめていた。

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