第6話 橘麻衣 その二

 話を終えると、麻衣はふたりの顔を見渡した。

「あの……旦那様、あのときはほんとうにお世話になりました……」

「旦那様はやめろ」と答えてから、犬養は尋ねた。「それで、なんで江戸にいる? 時右衛門とやらには会えなかったのか?」

「いえ、時右衛門様にはあのあとすぐに会うことができました。しかも、突然押しかけた私の突拍子もない話をすぐに信じてくださいました。常夜燈を作ったのが時右衛門様自身なのだから、まあ当然かもしれません。時右衛門様は、私の持つカラクリを見た瞬間、いま自身が作成している常夜燈の完成したすがたなのだと気がついたようでした」

「それでどうした?」

「私はなんとか未来に帰りたいのだと時右衛門様に訴えました。当然ながら私はここに来てから何度も未来に帰ろうとしてカラクリをいじりましたが、結果は……言わなくてもわかりますよね……」麻衣はそこで深いため息をはさんだ。「ですが、そのあとすぐに常夜燈が壊れていることがわかって、修理していただけることになったのです。私は修理を待つあいだ、時右衛門様の家で下女の仕事をすることを申し出ました」

 当初時右衛門は麻衣が働くことを拒否した。意図的ではないにしろ、自分のカラクリの犠牲になったのだから家に置いて面倒を見るのは当然というわけだ。

 数日は時右衛門の言葉に甘えてぼんやりと過ごしたものの、すぐに落ち着かなくなって、麻衣は勝手に仕事をはじめたのだった。 

 それからの日々は朝食の支度、洗濯、掃除、そして昼食の支度と多忙だった。だが、慣れくると、午後の自由な時間をつかって江戸観察までするようになった。元の時代に帰れることがわかって、その状況を楽しむ余裕が生まれたのだ。英語や国外情勢についての家庭教師を時右衛門に頼まれたのも、その観察記がきっかけだった。

「時右衛門様は温厚な方で、私はその生活を楽しみはじめていました。でもあの日……」麻衣はそこで声をつまらせたが、ひとつ深呼吸を入れてからつづけた。「そう、あの日、時右衛門様は私に話があるとおっしゃいました」

 夕食を終えてから、麻衣は時右衛門の居室を尋ねた。いまから十五日前、川越に行ってから、三カ月ほどが経った一月の終わりごろである。

 時右衛門は、居室に入った麻衣を神妙な面持ちで迎えた。腰をおろすと、三尺ほどの包みをその膝元に差し出し、言った。

「残念ですが、あなたをここに置いておくことができなくなりました」

「どういうことですか?」麻衣は身を乗り出した。「いったいなにがあったというんです?」

「今日、怪しげな男が尋ねてきました。客を装っていましたが、公儀に場所を覚られたと見るべきでしょう」時右衛門は文机の上にあった一通の文を麻衣に握らせ、さらにつづけた。「明日一番でここをたってください。そしてこの文を持って日本橋に店を構える百地百軒というカラクリ師のもとへ向かうのです。きっと協力してくれるはずです」

「だったら時右衛門様も一緒に―――」

「麻衣、あなたにはほんとうに迷惑をかけてしまいました。許していただけるといいのですが……」

 時右衛門の思いつめた表情に、麻衣はそれ以上なにも言えなくなった。そもそも、聡明な時右衛門が出した結論を、自分ごときが変えることなどできるわけがない。

 かろうじて出てきたのはこんな提案だった。

「もしよかったら最後にあとひと授業だけしませんか? このあいだ、アヘン戦争後の清のようすを気にしておられましたよね……?」

 麻衣が切り出したとき、ちょうど行燈の火が揺れた。外気が入りこんで室内の空気をかき乱したらしい。気づけば、時右衛門の顔が緊張にひきつっていた。

「だれかがこの家に侵入したようです。残念ですが、最後の授業はあきらめなければ」  

 困惑する麻衣をよそに、時右衛門は荷造りをはじめた。常夜燈の入った木箱を風呂敷に包み、麻衣が未来から携えてきた小ぶりのリュックに百軒への文を仕舞いこむ。

 それらを麻衣に手渡すと、こう言った。

「麻衣、いますぐここから出てください」

「だったら、やっぱり時右衛門様もいっしょに……」

 時右衛門は首をふってその言葉を遮ると、麻衣の顔を両手で包んで励ますように言った。

「門前町まで行って、今夜はそこへ泊り、朝一番で早駕籠を雇って、明日中に百軒のもとへたどり着くのです。荷の中にそれくらいの銭は入れておきました。大丈夫、このふたつき見ていましたが、あなたは聡明な女子です。きっとやり遂げられるでしょう」

 時右衛門の言葉には有無を言わせぬ響きがあった。

 麻衣は引きずられるようにして縁に向かった。終始現実味がなく、夢見心地で足は雲の上を歩いているようにふわふわとおぼつかない。障子を開けて庭に下りても、まだ覚悟を決めることができなかった。

「さあ、お行き、勝手口から逃げるのです」

 背中を押されて一歩を踏みだしたが、数歩行ってふり返った。

「こんな言い方変かもしれませんが、私、このふた月、ほんとうに楽しかったです」

「未来からやってきてくれたのがあなたでよかった……」

 時右衛門は満足げな笑みを麻衣に向けた。

 ―――が、つぎの瞬間、その笑みは唐突に途絶えた。

 時右衛門は口からどす黒い液体を吐き出したかと思うと、ふらりと一歩よろめき、畳にくずれ落ちたのだ。

 黒い人影に気づいたのはその直後だった。針金のような体を黒装束に包んで、抜き身を提げた男が目の前に立ちはだかっていた。

 行燈の光でもわかるほどに顔色が悪く、目は落ちくぼんでいた。口の端が吊り上がっているのは、ニヒルな笑いを浮かべているのではなく、頬骨の下の傷のせいだろう。

 男の下げた刀身が鈍い光を放ち、ぽたぽたとしたたり落ちる血が畳を赤く染めていった。

 麻衣は状況を理解するまで数秒を要し、それから短い悲鳴をあげた。

「常夜燈をよこせ」男は無機質な声で言った。「大人しく渡せば命だけは保証してやる」

 麻衣はあとじさりつつ、包みを抱えた両腕に力を込めた。頭のなかにあったのは、逃走経路のことだけだ。常夜燈を渡すなどもってのほかである。

 しかし踵を返した瞬間、麻衣は絶望した。すでに裏庭から侵入した二人が背後に立ちふさがっていたのだ。

「……麻衣、常夜燈を渡しなさい」そう言ったのは時右衛門だった。声はこもっていて途切れがちだったが、聞き違いではなかった。「カラクリなど、命をかけるほどのものではない……」

「でもこれは……! これがないと私は……」

 麻衣の頬に絶望の涙がつたった。

「命があればなんとかなる……麻衣、私を信じて……そして、百軒のもとへ……必ず」

 時右衛門はそう言い残すと、力なく目を閉じた。


「―――そのあとは木島様の知っているとおりです」

 麻衣はそう言って話を締めくくると、尚之介に話を向けた。

「なるほど。俺が倒れている百軒を見つけたのはそのあとということか……」少し思案してから、尚之介は尋ねた。「それにしても賊どもはよくお前を見逃したな」

「見逃されたというより、隙を見て逃げたんです」

 麻衣が常夜燈を渡すと、男たちは風呂敷をといて中を確認した。みなの目が包みに注がれている隙を見て、麻衣は庭に飛び降りたのだ。

 むろん、それだけで逃げきれたわけはない。頭格の男も逃がさない自信があったのだろう。落ち着いたようすで手下に指示を出していた。

 逃げきれたのはほかでもなく、ポケットに忍ばせていたスマホのおかげである。勝手口で追手に肩を掴まれた瞬間、スマホのシャッターを切って文字どおり目をくらませてやったのだ。パニック状態に陥った追手を振り切るのは容易だった。

 とはいえ、ここでスマホの話を持ち出すつもりはなかった。最後の、そして唯一ともいえる武器をここでさらけ出すわけにはいかないのだ。

「越前守の手先はとんだ間抜け野郎ってことか……」

 犬養が、心底無念だとでも言わんばかりに吐き捨てる。

 尚之介がふたたび口を開いたのは、しばしの沈黙がながれたあとだった。

「あとひとつ。腑に落ちないのは、俺がお前を見つけたとき、空き地で賊どもに囲まれていたことだ」

「それは……逃げる途中、空地で彼らの話声が聞こえて立ちどまってしまったからです」

「つまり、賊に囲まれたお前を、運よくとおりかかったあの永井とかいう侍が助け、そこへ俺があらわれた、ということか……」


 酌をしていた艶っぽい女が酒を持ってあらわれた。

 犬養が思いだしたかのように箸を手にしたのは、去り際、女の視線が放置されて冷めきった料理にとまったからだろう。釣られるようにして尚之介が箸を手にとると、麻衣もそれに倣った。

 三人は黙々と料理を口に運んだが、終始心ここにあらずといったようすだった。

 やがて犬養は箸を置くと、キセルに煙草を詰めながら切り出した。

「大女の話がすべて事実だとしたら、上は本腰を入れて一本木の捕縛に乗り出すだろうな」

「実際のところどうなんだ。捜査はどこまで進んでいる?」

 応じたのは尚之介である。

「候補は何人かいる。……俺たちも遊んでいたわけではないからな」

「なるほど。例の代官某の二の舞になりたくないって考える連中の及び腰のせいでこれまで放置されていたってわけか……」

「かもな……」犬養は眉間の皺をいっそう深く刻んでからつづけた。「だが、現職の老中の屋敷が狙われたとあっちゃ、そうも言ってられないだろうよ」

「つまり、常夜燈はじき幕府の手に渡って厳重に保管されるというわけか……」

 ほのかな煙が三人のあいだを漂っていた。平成の時代なら逃げ出したくなるほど嫌悪していた煙草の匂いがそれほど気にならないのは、フィルターが燃える煙が含まれていないからだろうか。

 しゃべり疲れた頭でそんなどんなどうでもいいことを考えていたが、最後の尚之介の言葉が気になって、麻衣はふいに箸を止めた。

「それってもしかして今度こそ常夜燈を取りかえせなくなるってことじゃ……?」

「そういうことになるな。お前には酷なことだとは思うが、そうなったら常夜燈は諦めるしかない」

「ちょっと待ってください」と、麻衣があわてて反論する。「木島様はあのカラクリがどれほど危険なものかわかっておられません。あんなものが幕府の手に渡れば歴史がめちゃくちゃになっちゃいますよ!」

「歴史……?」

 事の重大さを理解できなかったのだろう、ふたりの反応は思いのほか薄かった。

「たとえば、慶長五年にいって、西軍にとって有利な情報を石田三成に与えたと想像してみてください。そんなことをすれば、関ヶ原の戦いの勝敗がひっくり返ってしまうかもしれませんよね。つまり、あのカラクリを使えば、過去をまったく別ものにしてしまえるってことです」

「ほう……」

 と感心したように声を上げたのは犬養だった。口もとにかすかな笑みを浮かべ、話をおもしろがっている雰囲気さえ漂わせている。

 一方の尚之介の反応はこうだった。

「その心配はないだろう」

「どうしてそんなことが言いきれるんですか?」

 慎重な男らしからぬ物言いに麻衣は面食らったが、尚之介は淡々とつづけた。

「理由は簡単だ。常夜燈の修理がまだ終わっていないからだ。そう考えなければ、時右衛門が事前にお前を百軒のもとへ向かわせようとした理由が説明できない。常夜燈の修理が終わっていたなら、その場でお前を未来に送り返せば済んだはずだからな。おそらく身の危険を感じた時右衛門が、カラクリの修理とお前を百軒に託そうとしたのだろう」

「それは……」

 常夜燈を取りかえすことばかりに気をとられ、そのことをすっかり失念していた。

 言われてみれば、たしかにそのとおりである。そして、時右衛門が死に、唯一それを修理できる可能性のある百軒が大の幕府嫌いとくれば、カラクリの危険性は著しく低下する。  

「つまり、常夜燈を諦めろってことですか……?」

「左衛門少尉様がどう判断するかはわからんが、少なくとも、俺たちが立ち入ることはできなくなるだろうな」

「そうですか……」

 これで、尚之介―――つまり公儀(遠山景元派)と常夜燈を奪い合うことがなくなったのはたしかだが、そもそも尚之介の協力なしに公儀(水野忠邦派)から常夜燈を取りかえすことなどできるものだろうか。麻衣の心境は複雑だった。

 口を開く者がいなくなると、犬養が腰を上げ、ぶっきらぼうな挨拶を残して立ち去った。そのあとを追うように、ふたりは座敷をあとにした。


 店を出ると、西に傾いた陽が江戸城の甍を赤く染め上げていた。暖簾を下ろす大店や家路を急ぐ人々の頭上に夕闇が迫っている。

 こうして日本橋を歩いていると、博物館のジオラマのなかに紛れ込んでしまったような錯覚に陥るときがある。そのたびに麻衣は、常夜燈がタイムマシンではなく、幻を見せるカラクリならどんなによかっただろうかと考えずにはいられなくなる。

 自分ははじめからずっと研究室のソファで眠っていて、目を覚ましたとたん心配そうに顔を覗きこむ先輩と目が合うのだ。そんな夢を何度見たかわからない。だが何度目覚めてみても、終わることのない悪夢のように江戸の風景が目のまえにひろがっていた。

 浮世絵や江戸名所図解で見た風景にいちいち目を奪われることがなくなったのは、すでに自分がその風景のなかの一部だと自覚していたからだ。が、麻衣はこのとき、一歩前を行く尚之介の背中を眺めながら恐怖を覚えた。常夜燈の奪還に尚之介たちの協力を得られなくなった以上、二度と元の時代に帰られないかもしれないという想像が、限りなく現実にちかづいたことに気づいたのだ。

 猫屋にたどり着いたころには通りはすっかり暗く、中から漏れ出るほっこりとした明かりに出迎えられた。少しばかり心が軽くなっていくのを感じながら引手に指をかけた。中から漏れ聞こえる覚えのない男の声に気づいたのはそのときだった。

 麻衣は慎重に引き戸を引いた。

 目に飛び込んできたのは、框に腰を下ろして握り飯をがっつく若い侍と、そのとなりでにこやかに談笑する百軒のすがただった。

 数瞬後、愕然となったのは、その侍に見覚えがあったからだ。「あっ」と声を上げたのは麻衣だったが、そのつづきを口にしたのは尚之介だった。

「貴様、あのときの永井とかいう侍か」

 尚之介が刀の柄に手を掛けて警戒心をみなぎらせる。だが、当の本人は平然と握り飯を食らいつづけていた。最後のひと口を汁物で喉に流し込んでから、やっと口を開いた。

「どうも、川越ではお世話になりました。改めまして、鍋島家家中永井春平太と申します。以後お見知りおきを」

「なんでお前が……?」尚之介は問い質そうとしたが、思い直して百軒に顔を向けた。「これはいったいどういうことでしょうか?」

「いえね……」百軒は困ったように目をしばたたかせながら、一同の顔を順番に見やった。「この永井様がわざわざ尋ねて来てくださったのですが、訊けば、麻衣殿の命の恩人だというので、ひもじい思いをさせるのは忍びないことと、あわてて握り飯をこしらえさせ、召し上がっていただいた次第なのですが……なにか問題でもありましたか?」

 尚之介はため息まじりに首をふりつつ、ふたたび永井に顔を戻した。

「いったいなにを考えてる? 俺たちが常夜燈を持っていないことはお前がよく知っているはずだろう、目的はなんだ? 鍋島家と言ったが、もしかして佐賀藩の隠密かなにかか?」

「さすが、木島殿、よく見抜きましたね」

「……なにがだ?」

「だから、隠密ってことをですよ」

「隠密なのか?」

「はい」と答えてからやや間を置き、こうつけ加えた。「あ、これって言っちゃいけないっていわれてたんだった……まあ、いいか」

 そして、あわてるようすもなく、ポリポリと小気味のいい音をたてながら新香をかじりはじめた。

「……それで、佐賀の隠密が俺たちになんの用だ?」

 警戒していることが馬鹿らしくなったのか、尚之介は柄から手を下ろして尋ねた。

「だから、腹が減ったもので、あのときの借しを返してもらおうと思っただけですよ」

「それは返しただろう。宿代としてな」

「人の命ひとつがたった二百文だと?」

「だったら、いつまでたかるつもりだ」

「嫌だなあ。ひとを物乞いみたいに言わないでくださいよ」春平太は茶で喉を潤してから、いかにもなにげない口ぶりで言った。「じつは協定を結んでいただけないかと思いましてね―――」

 聞くところによると、春平太は藩主からの直々の命で、脱藩した久松時右衛門と常夜燈を追っているらしかった。半年がかりで居場所を突き止めたものの、すんでのところで幕府に先を越され、あまつさえ常夜燈を奪われたというのだ。

「つまり、私は初仕事で大失態をしでかしてしまったのですよ。このまま、のこのこと故郷に戻ったりなんかしたら、下手をすれば切腹です。どうしても常夜燈を取りかえしたいのですが、右も左もわからないこの町で常夜燈を探すのは不可能と覚り、こうして恥を忍んで協力をお願いしに来たという次第です」

 半信半疑といった表情を浮かべつつも、尚之介はため息まじりに応えた。

「協定は利害関係が一致して初めて成立することだろう? 俺たちのあいだには敵対関係しかないんじゃないのか。それに―――」口を挟もうとする春平太を手で制し、さらにつづけた。「すでに俺たちは常夜燈から手を引いている」

「……本気ですか?」

「ああ」

 しばらく尚之介を見据えていたが、やがてふっと表情を緩めると、「わかりました。そういうことなら仕方ありませんね」拍子抜けするほどあっさりとそう答え、すぐに猫屋をあとにした。

 間もなく尚之介も帰っていき、麻衣はほっと息をついた。が、それもつかの間のことだった。夜半頃、その永井春平太という隠密がふたたび猫屋に舞い戻ってきたのだ。

「木島様には聞く耳を持っていただけませんでしたが、あなたは興味がおありかと思いまして」

 気づいたときには、春平太は裏庭に面する縁に座っていて、障子越しにそう語りかけてきた。

 悲鳴を上げそうになるのを手で押さえ、麻衣はなんとかしとねから這い出し、障子を開けた。

 春平太は背を向けて縁に座っていた。となりに立つと、その横顔に月明かりが差し、輪郭を浮かび上がらせた。美しいがどこか冷たい微笑を浮かべていた。あるいは隠密だという先入観がそう見させているだけかもしれない。

 下駄をつっかけて庭におり、春平太を促して庭の片隅へと誘導する。となりの部屋に寝ている百軒に覚られまいという心理が働いたためだ。

「説明してください」

 麻衣は震えを気取られないように努めたが、内心心臓は張り裂けんばかりに高鳴っていた。なんといっても、自分はいま隠密と江戸の夜空の下で密談しているのだ。恐怖と興奮の入り混じった緊張である。

「さっきも言ったとおり、私の目的は常夜燈です。ですがその真の目的が回収ではなく破壊だと言えばどうでしょう?」

「破壊? そんなこと私が協力するわけ―――」

 春平太は首をふって麻衣の言葉を遮った。

「要は常夜燈がこの世からなくなってしまえばいいんです。麻衣殿が未来から持ってきた常夜燈を未来に持って帰ると言うのなら、それで手を打つのもやぶさかではありません」

「どうしてそれを……?」

 目を瞠る麻衣に、春平太は淡々と言い放った。

「隠密にとって敵情視察は基本です」

「信じるんですか?」

「常夜燈の利用価値と危険性を知っているからこそ、私たちは躍起になって時右衛門の行方を追っていたんですよ」

「つまり、私が常夜燈を持って未来に帰るのを邪魔しないということですか?」

 春平太がこくりとうなずく。

「贅沢は言ってられない状況です。あれが幕府や他藩の手に、それどころか国外に渡ってしまうよりははるかにましというわけです」

「でも……」麻衣は考えながら言葉を継いだ。「協力と言っても、私ができることなんて……」

「常夜燈のことは家中でも一部の者しか知らず、藩邸に協力を求めることもできないうえ、江戸にほかの伝手もない。私は孤立無援です。常夜燈を取りかえすために利用できそうな情報が欲しいんですよ。そしてあなたにはそれがある」

「いったいなにが聞きたいんですか?」

「たとえば時右衛門のふだんの会話のなかによく出てきた人物や地名、死ぬ直前に尋ねてきた人や届いた荷物など、とにかくなんでもいいんです。情報はどこに隠れているかわかりませんからね」

「まあ、その程度のことなら……」

 気持ちは揺れていた。尚之介の協力が得られなくなったいま、これほど頼りになる相棒はそうそういるものじゃない。

 だが、ほんとうに信じていいのだろうか。麻衣には判断できなかった。

 もしも常夜燈が手に入っても、そのとたんに刀を抜かれてそれを寄越せと言われてしまえば差し出すほかなくなる。最悪、その時点で斬り捨てられる可能性すら否定できない。

 いや、大いにあり得る話だ。なにせ、相手は隠密なのだから、そのくらいのことは簡単にやってのけるだろう。尚之介たちが付いていてくれるならともかく、ひとりで春平太と渡り合うのは無謀に思えた。

「一両日中にまた来ます。それまでに答えを出しておいてください」

 黙りこくった麻衣にそう言い残すと、春平太は背中を向けた。

 立ち去るうしろすがたを見送り、部屋に戻ろうとしたときだった。背後に感じる人の気配に麻衣はハッとした。あわててふり返ると、縁に立つ百軒と目が合った。

 なぜか悪事を見つかった気になり、麻衣はバツの悪そうな表情を浮かべた。脳が急速に言い訳を考える。が、百軒の反応は意外なものだった。

「麻衣殿、いまの話、このわしを誘わないつもりじゃありますまいな」

 神妙な面持ちでそう言ったかと思うと、ふいに頬を緩ませ、眼じりに皺を寄せて笑った。

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