第5話 橘麻衣 その一

橘麻衣、二十五歳。

 八王子市にある大学に通うために長野から上京して七年目、平成三十年の梅雨の終わりごろのこと。

 客観的にみればおよそ百七十年後の日本だが、麻衣の主観で言えば、いまから半年ほどまえということになる。

 本業は小説家だが、その日はコンビニのアルバイトに精を出していた。

 シフトが明ける少し前だった。いちど店を出て行った客が、戻ってくるなりレジに立つ麻衣に向かって怒鳴り声を上げた。

「ちょっと、箸入ってなかったんだけど」

 弁当の入った袋をガサゴソさせながら、居丈高にそう言った。謝りながらあわてて割り箸を差し出しすと、客はひったくるようにしてそれを受け取り、舌打ちを吐き捨てて出て行った。

 客が店から出て行くと、麻衣はがっくりと肩を落としてサッカー台に両手をついた。

「橘さん、眠そうですね。もしかしてまた原稿の書き直しですか?」

 夕方の混雑がひと段落すると、となりのレジに入っていた学生バイトの長谷川が声をかけてきた。理系の大学院生で、研究室に籠る時間が長いらしく、バイトは週に一、二回程度。  

 小説家という仕事をおもしろがってか、長谷川はたびたび麻衣の仕事を話題に出してくるのだった。

「ああ、うん……」

 曖昧にうなずくと、長谷川が茶化す口調で言った。

「また担当さんにダメ出しされて凹んでるとか?」

「それなんだよォ……」顔を上げ、麻衣は身を乗り出した。「たしかに幕末もの書きたいって言いだしたのは私だけど、べつに新選組とか、坂本龍馬を書くとは言ってないんだよね。プロット書いたあとになって、松本良順は地味だとか言われてもさ、じゃあ最初から新選組で行きましょうって言ってくれればいいじゃん! ね、そう思うでしょ? で、新選組もののプロット書いてみたら、こんどはそれをファンタジーにしましょうとか、挙句の果てには、『思いきってタイムスリップものにしましょう、主人公は女子高生で』とかマジで意味わかんないんだけど。なんでタイムスリップ? それってもはやSFだよね⁉ 時代小説ですらないよね⁉ 私もともと歴史研究したかったんだよ? それがなんでSF小説書かにゃあならんのよ⁉」

「言いたいことはわかりますけど、橘さん書いてるのってラノベでしょ? そりゃ松本良順はウケないでしょ……それより橘さん、手が空いてるなら前出ししてくださいよ」

 長谷川はレジ横の缶ウォーマーを顎でしゃくりながら言った。朝から冷たい雨が降りつづけているせいか、たしかにホットドリンクの減りが早く、中が乱れていた。

 麻衣はしぶしぶ指示にしたがったが、むろん、内心では自分から話題を振ったくせにとののしっていた。

 手が空くと、麻衣はふたたび口を開いた。

「はあ……私の人生どこでどう間違ったんだろ……」

 麻衣の嘆きに、長谷川は間髪入れずに切り返した。

「それはやっぱりあそこじゃないですか? あの卒論……」

「あんた、いま完全に馬鹿にしたでしょ」

 持ち出されたのは、麻衣が文学部史学科四年のときに書いた卒業論文のことだった。研究テーマは『鎖国緩和がもたらした技術の発展と江戸の衰退』。

 三ヵ月を費やして書き上げた論文に対する教授の評価はこうだった。

「面白く読ませてもらったよ。まるでファンタジー小説を読んでいるようだった。君は研究職よりも小説家に向いているんじゃないかな?」

 なんとか卒業だけは許されたものの、大学院に進むことは諦め、かといって一般職に就く気にもなれず、卒業後はアルバイトに明け暮れる日々を送った。

 卒業後半年ほどが経ったある日、ふと思い立って時代小説を書きはじめたのは、たしかに長谷川の言うとおり、教授のあのひと言がきっかけだったのかもしれない。少なくとも、司馬遼太郎や山本周五郎に憧れて執筆のまねごとをしていた高校時代を思いだすきっかけになったことはたしかだ。

 書籍化の話がきたのはネット小説サイトに連載をはじめて一年が経った頃だった。異例のスピードデビューに喜び勇むということはなかったが、かといって断る理由もなく、麻衣はそのまま小説家への道を歩むことになった。

 以来約一年、流されるままにバイトと執筆に追われる生活をつづけている。

 書いたプロットがことごとく中途半端な出来となって書き直しを求められてしまうのは、こころのなかに居座りつづける研究職への未練のせいだろう。このままでは小説家生命も時間の問題だとわかっている。わかっていながら、どうすることもできないでいるのだ。

 いつの間にか交代の時間になっていたらしく、店長が深夜バイトをともなって店に出てきた。引継ぎを済ませると、ふたりはそろって事務所と休憩室を兼ねたロッカールームにさがった。

 さきに帰り支度をととのえた長谷川が言った。

「お疲れさまでした。原稿がんばってくださいね」

「お疲れ、そっちも修士論文がんばってね」

 髪を整えつつ、麻衣が鏡越しに応じる。

「ほんとそれ、俺も教授に、『君の論文はサイエンス・フィクションのようだね』って言われないように頑張らないと……」

「あんたねえ……、いい加減にしないと怒るよ」

「じゃ、お先っす」

 言いながら、長谷川はちゃっかりとその日の廃棄で一番高価な竜田揚げ弁当をとって帰っていった。

 ひとりになると、麻衣はソファに腰を下ろして残り物のおかかおにぎりを手にとった。

 最近夕食をここで済ませることが多くなったのは、家に帰ったら小説を書かなきゃいけないという強迫観念に苛まれるためだ。なんだかんだ理由をつけてできるだけ帰宅時間を遅らせている。

 ぼんやりとスマホを眺めつつ、温いお茶でおにぎりを流し込んだ。

 着信を告げるスマホの振動音にわれに返ったのは、八時を回ったころだったろうか。あわてて電源を入れると、院で研究をつづける大学の先輩からのメッセージが目に飛び込んだ。

《麻衣ちゃん久しぶり。中野です。いま研究室に、教授が見つけてきた十九世紀初頭に作られた『常夜燈』っていうカラクリがあるんだけど、もし興味あったら見に来ない? 明日の夕方なら僕も研究室にいるし、どうかな?》

 とたんに鬱々とした気分が吹き飛び、心は小躍りをはじめた。

 麻衣は承諾のメッセージを返すと、意気揚々と店を出た。言うまでもないことだが、突如として執筆への情熱が沸き上がったわけではない。明日大学へ着ていく服を選ばなければ、という想いからの興奮だった。


 麻衣が母校へ向かったのは翌日、昼のシフトを終えてからだった。

 いったん自宅アパートに戻って、厳選に厳選を重ねて選んださくらんぼ柄の紺のワンピースを身につけ、その上に薄手のカーディガンを羽織った。念入りに化粧し、髪をセットする。久しぶりの作業に思ったよりも時間を要してしまい、研究室に到着したときには陽が傾きつつあった。

 遅くなったことを詫びると、先輩はこう言った。

「そのワンピースかわいいね、よく似合ってるよ」

 期待通りの反応に気分を良くしつつ、麻衣は狭い研究室の片隅に置かれたソファに座った。

 ガラスのローテーブルの上に、『常夜燈』は置かれていた。

 まず目を奪われたのは台座に施された装飾である。なんのためのカラクリかわからなくとも、それだけで価値がありそうな、繊細な螺鈿だった。

 その上に立つ長方形の箱は、素材が真鍮であるため酸化がひどく、描かれている字や模様は読み取れないものが多かった。さらにその上、頂点に乗っているのが、直径十センチほどの天球儀である。

 天球儀は中心の球体と、それを取り巻く同心円状の輪をつかって星座の位置や軌道を示すための模型のことであり、この場合、中心の球体が地球、取り巻く輪についた玉が月ということになる。全長はおよそ四十センチほどもあった。

「時計みたいだけど……」

 麻衣のつぶやきがこぼれたのは、長い沈黙のあとだった。

「そう思うよね、田中久重の万年時計と似てなくもないし……」

「違うんですか?」

「ここ見て」

 先輩はそう言うと、真鍮部分の下方を指さした。目を凝らすと、取っ手のようなつまみと、それを囲うような切れ目が入っていることに気がついた。

「引き出しですか?」

 思ったとおり尋ねてみると、先輩はこう応えた。

「引いてみなよ」

 麻衣は直接手で触れぬよう、ハンカチ越しにつまみを引いてみた。

 力をくわえた瞬間、幅七、八センチ、奥行き十五センチ、高さ一センチほどの引き出しが、するすると手前に引きだされてきた。

 そのあまりの滑らかさに、麻衣は感嘆を漏らした。

「すごい……」

 先輩が満足げにうなずいた。

「当時の技術でそんな精密な造りのカラクリを作るなんて、時右衛門ってひとただものじゃないよね」

「もしかして有名なカラクリ師の偽名なんでしょうか?」

「その可能性も否定しきれないけど、一緒に出てきた古文書に書かれた経歴を見るかぎりそうでもないみたいだね」

 先輩が説明してくれたその古文書の内容は、およそこうだった。

 カラクリ師久松時右衛門は常夜燈の構想を閃いた時点で故郷の佐賀藩を脱藩すると、長崎で工業や窮理を学び、そのあと京都に出て土御門家に入門、天文学を修めた。さらに江戸に出て蘭学者たちと交流を深めたらしいが、そのときに尚歯会の高野長英や渡辺崋山らと交流したことがきっかけで、蛮社の獄のとばっちりを受けたのだ。

「それで、時右衛門さんは獄中死ですか?」

 麻衣が口をはさむと、先輩は苦い顔でこう返した。

「いや、晩年は川越城下の大通りでからくりを作ってたって書いてあったな……」

「え、それって釈放されたってことですか? それとも、もしかして脱獄……」

「そのへんはよくわからないんだけど……」

「その古文書、見せてもらっていいですか」

「もちろんそのつもりだったんだけど、ちょうど教授が持っていっちゃっていまここにないんだよね」

「そっかあ……」

「わざわざ来てもらったのに、ごめんね」

 肩を落とす麻衣に、先輩は頭を掻きながら言った。

 先輩は相変わらず優しく、顔も性格もファッションも文句の付けどころがなかった。

 そのうえ女性に対する目線がほかの男ども、たとえばバイト先の長谷川などとは一線を画している。上からでも下からでもなく、対等の存在として相手を尊重し、そのうえで優しい言葉をかけてくれる。

 麻衣はずっとそんな先輩に憧れていた。だが、それ以上の関係になるなど望むべくもないことと、スタートラインに立つまえから諦めもしていた。昨日メールがきたとき、麻衣が浮かれたのにはそういった事情からだった。

「いえ、それはぜんぜん大丈夫です。久しぶりに先輩にも会えたし……」

 軽い気持ちで言ったつもりだったが、そのとき、先輩は意外な反応を見せた。

「じつは白状すると……」手を口もとに当て、落ち着きなく左右に視線を揺らしながら、「カラクリの話は口実で、ほんとうは僕も麻衣ちゃんに会いたかっただけなんだよね……」

「え……?」

 おどろいて麻衣が口ごもると、壁の時計が刻む秒針の音だけがしばらく響いた。

 この世がどうなろうとも、たとえ核戦争が起ころうとも、天変地異が起ころうとも、それらの可能性よりもずっと低いと思っていた先輩とのめくるめくロマンスがこれからはじまろうとも、時間はひたすらに前へ前へと進んでいく。

 いつの間にか先輩の左手は麻衣の右肩にのっていて、触れ合った右手は互いの気持ちを確かめ合っていた。高鳴る心音が、秒針を置き去りにしてどんどん加速していた。

 あまりの展開の早さに頭がついていかなかったが、それでもこのチャンスを逃してはいけないということだけははっきりとわかっていた。

「先輩……」

 先の展開を予想し、麻衣は顔を上げて目を閉じた。

 ―――が、その直後、ゴウッと音をたてながら室内に風が入りこんできた。窓がきしみ、カーテンが翻り、ロマンチックな雰囲気をいっきに吹き飛ばした。残ったのは、気まずい空気だけである。

「窓閉めようか……」

 ひとり言のようにつぶやくと、先輩は頭を掻きつつ窓辺に向かった。窓を閉じ、カーテンを引いてから、尋ねた。

「コーヒーでもどうかな?」

「あ、はい。ありがとうございます……」

 手持ち無沙汰になると、自然に常夜燈へと目がいった。

 改めて眺めてみると、やはり気になるのは引き出しの存在だ。

 よく知っている大きさ、よく知っている形―――はじめて見たときから、なにかに似ていると思ったが、なんてことはない、いまもカーデガンのポケットに入っているスマホの形と瓜二つなのだ。

 もういちど引き出しを開けてみると、手前内側にある出っ張りに気づいた。どう見てもライトニングケーブルの端子にちょうど差しこめる位置だ。

 いや、そのための出っ張りでないことはわかっている。しかし、わかってはいても、差してみずにはいられなくなった。

 振り返って、先輩がこちらを気にしていないことを確かめると、麻衣はそのまま引き出しにスマホを納めた。幅、奥行き、厚さ、すべてが完璧だった。まるでスマホケースのように、麻衣のスマホは常夜燈に完璧にフィットした。

 そうとなれば、もう引き出しを戻すしかない。

 麻衣は興奮を抑えながら、ゆっくりとつまみを押した。

 やがてキーンと精密機器が発するような細くて高い音が聞こえてきた。空耳かとも思ったが、音はたしかに常夜燈から聞こえていた。

 麻衣は全身の毛が逆立つのを感じながら、常夜燈に起こった変化に刮目した。

 はじめに気づいたのは真鍮部に付いた時計のような文字盤の針がぐるぐると逆時計回りに回転をはじめたことだった。次いで天球儀の月が地球のまわりを回り、つづいて、目のまえがパッと明るく光り輝いた。

 そのとき、麻衣は「ああ、だから常夜燈なんだね」と納得した。

 感じたのはかすかな歓びと、恐ろしく精巧だが、たんなる照明器具であったことに対する落胆。ただそれだけだった。

 いや、ただそれだけのはずだった、と言い直すべきか。もしもほんとうにそれが単なる照明器具であったなら、物語はこれから起こる先輩とのロマンスで完結したはずだ。だが、目が眩むほどの光がやんだとき、麻衣は一八四四年の江戸にいた。先日、麻衣がSFだなんだとこき下ろした展開が現実に起こってしまったのだ。

 どの時点でそこが江戸だという確信を得たのか、あまりはっきりとした記憶はない。だが、この現象が常夜燈のせいだということは確信していた。

 はじめは夢か幻かと疑い、次にドラマのセットか映画村かなにかだと考え、自分の記憶がどこかで途切れているのかと疑ったりもした。たしかなのは、自分がワンピースすがたでふらふらと江戸風の町をうろついていたということだけだ。そのときは無自覚だったが、腕のなかには常夜燈も抱えていた。

 町方に見咎められたのは当然の展開だろう。

 気づいたときには、麻衣はちょん髷に尻はしょりの男たちにまわりを囲まれていた。恐怖に慄いたものの、頭のなかでは江戸の吟味や拷問、ドラマで見たお裁きや市中引き回しのシーンが浮かんでいたことなどを考えると、意外に冷静に現状を分析していたのかもしれない。

「待て、そこの女、なに者だ」

 それが平成生まれの麻衣と江戸住人とのファーストコンタクトだった。

「あ、あの、私はけっして怪しいものではありません……」

「そのいで立ちでなにを言う、すでに人心を惑わしているではないか」

 男たちに従うことにしたのは、抵抗の無駄を悟ったということもあるが、このまま町をうろつくよりは役人に捕まるほうがましだと考えたからだ。

 奉行所に連れていかれるものと高をくくっていた麻衣だったが、果たして、たどり着いたのは古めかしい貧乏長屋が建て込む町人町だった。その一画が、役人と思しきしかつめらしい役人たちであふれかえっていた。

 長屋の一室から漏れ聞こえた怒声に、麻衣の心臓は跳ね上がった。

「遅ェぞ、てめえらッ! なにしてやがった!」

「申し訳ありません、町で怪しい女を見かけまして……」

「怪しい女だと?」

 そんな会話がしばらくつづいたが、やがて引き戸が開かれた。出てきたのは、それまで目にした誰よりも目を引く男だった。縞の着物を着流して黒の羽織をはおった粋を絵にかいたような二十七、八歳の男。麻衣はひと目で同心だと思った。

 相手の同心はひと目麻衣を見てこう言った。

「なんだこの大女は?」


「ちょっと待て」と、尚之介が割って入ったのは、長い長い麻衣の話に犬養が登場したときだった。「じゃあお前たちは、半年も前から知合いだったってことか?」

「そういうことだ」応じたのは犬養である。「だが、おまえが聞きたいのはそこか? もっとほかに気になる点があるだろう」

 もっともな問いかけではるが、尚之介はなにをどう尋ねていいかさえわからないようすで首をかしげた。

「そう言われてもな、俺にはこの女の言っていることがよくわからん。そもそも未来っていうのはどこのことだ?」

「どこっていうか、場所はここなんです」たまらず、麻衣が切り出した。「この場所の明日、明後日、明々後日、来月、来年のそのもっとずうっと先って言えばなんとなくわかりませんか?」

「それで……それがすべてあのカラクリのせいだと言いたいわけか?」

「はい。……信じられないのは私もおなじです」

 尚之介はしばし沈思していた様子だったが、やがて助けを求めるように犬養に視線を向けた。

「お前のほうはどうなんだ。麻衣の言うことを信じたのか?」

「まあな」と、犬養は煙草の煙を吐き出しながら、こともなげに言い放った。麻衣でさえ驚きを隠せないほど淡々とした口調である。「そもそも俺があの長屋にいたのは自殺騒ぎの検死のためだったが、だれもが自死だと信じて疑わなかった女の死体をひと目見てコロシだと言い当てたのは、俺たちが知り得ない知識があったとしか思えなかったんでな」

「どういうことだ?」

「おい、大女、説明してやれ」

 その呼び方に不満を抱きながらも、麻衣はうなずいた。

「吉川線のことだったら、そうです。いまから七十年くらいあとに吉川澄一っていうひとが発見した、他殺か自殺かを見極めるひっかき傷のことです―――」

 麻衣は当時のことを思いだしながらゆっくりと話しはじめた。

 たしかあのとき、犬養は事件の後始末を配下に任せると、大家の奥座敷に陣取って麻衣の吟味をはじめた。

「名と生まれを答えろ」

「麻衣と言います。松代藩の生まれです」

「何しに江戸に来た?」

 馬鹿正直に長野生まれなどと言えば、こう尋ねられることは目に見えていた。江戸生まれと答えるべきだったが、もう遅い。麻衣はなんとか辻褄を合わせようと必死に言葉を継いだ。

「このカラクリを直してくれるひとがいると聞いてやってきたんですが……もう江戸にはいないらしくて……でも川越にいることがわかって、これから向かおうと思っていたところなんですが、お金が底をついて……それで、着物も売ってしまってこんな格好に……」

 口から出まかせで紡いだストーリーだったが、麻衣はその物語に一縷の希望を見出した。このカラクリを見せれば時右衛門が協力してくれるはずだと、このとき気がついたのだ。

「なんなんだ、それは?」

 畳に置かれた常夜燈を犬養が顎でしゃくった。

「詳しくは言えませんが大事なモノなんです」

「お前は馬鹿か。カラクリなんかより自分の身を案じろ、そんな恰好で町をうろうろしていたらいずれ岡場所に売り飛ばされるぞ。それが嫌ならさっさと家に帰れ」

「帰れるもんなら帰ってます。できないから困ってるんですよ」

「だったらそれを売り飛ばした金で家に帰ればいいんじゃないのか?」

「だからこれがないと家に帰れないんですってば!」

 およそこんなやりとりを半時もつづけた。

 その要領を得ない会話に犬養はだんだん苛立ちはじめたが、それと比例して麻衣の焦りも募っていった。理由はもちろん、ここで放り出されてしまえば生きていけないことが分かっていたからだ。役人がどれほど信頼できるかは未知数だが、町に放り出されるよりはましだという程度には江戸幕府という国家を信じていた。

 自分の行動が歴史に与える影響に震えながらも、意を決して吉川線の話を切り出したのは、そんな切羽詰まった事情があったからだ。

「さっき亡くなった女の人、自殺だとおっしゃっていましたが、殺されたんだと思います」

「なんだと……?」

 長屋の一室から運び出された若い女の遺体が、戸板に乗せられるのを麻衣は偶然目にしていた。思わず目を背けたが、筵がかぶせられる直前、策条痕とは明らかにことなるひっかき傷が見えたのだ。

 むろん口を出すつもりはなかった。役人たちが自殺だと考えたのなら、いまここにあるはずのない知識でその結論を覆すべきではない。それくらいはわかっていた。だが、ほかに選択肢がないということも麻衣はすでに理解していた。生き抜くためにはこの時代にない知識を活用し、彼らの信用を勝ち得るしかなかったのだ。

 親が蘭方医だったという嘘が功を奏したのか、犬養は意外にも麻衣の話を言下に否定することはなかった。

 これはあとになって知ったことだが、犬養はもともとその自殺に疑問を抱いていたらしく、麻衣の話の裏をとるために遺体の爪のあいだから皮膚片まで採取してきた。むろんDNA鑑定などないが、他殺という線がいっきに濃厚になったのは事実だった。

 そして数日後、真犯人を捕まえた犬養は、麻衣にこう言ったのだった。

「着物代と旅費が溜まるまで俺の家に置いてやってもいい」

 そうして麻衣は八丁堀の犬養の組屋敷で下女として働くことになった。着物とぎりぎりの旅費を手にして川越に向かったのはそれから三か月後のことである。

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