擬胎

春海水亭

産女


十歳の妹が、膨らんだ腹を撫ぜている。

食べ過ぎたわけではない、お腹に赤ちゃんがいるのだという。

妊娠するはずのない者が、妊娠するはずのないものを孕んでいる。



白い病室に、黄色いカーテンの隙間から赤い夕陽が差し込んだ。

まりあの病室は、自分の部屋と変わらない場所であるかのように、

いつの間にやら増えたぬいぐるみやら漫画本がベッドの上に乱雑に転がっている。

夜になるまでは個室病棟は、まりあの世界だ。

本棚に漫画をきっちりと片付けるだとか、

ぬいぐるみを規律ある状態に保てなどということは夜になるまでは注意されない。

まりあはうっとりと目を蕩かせながら、少女漫画を読んで過ごしている。

十歳の少女の肉体に、成長が早すぎるであるとか遅すぎる、といった問題はない。

ただ、腹部だけが赤子一人の命を宿してもおかしくはないほどに膨らんでいる。


時折、少女は愛おしそうに腹を撫ぜる。

それがハルにはおぞましくてしようがない。

春は十と四年離れたまりあの姉である。

両親はいない、二人暮らしである。

これまでは保険金と遺産である程度の不自由なく暮らしてきた。

そして今だけは、二人だけの暮らしで良かったと春は思っている。


まりあの妊娠は何の前兆も伏線もなく、あまりにも唐突な出来事だった。

一ヶ月前、夕方。

仕事から帰ってきた春にまりあは膨れ上がった腹部を見せてきた。

「食べすぎでしょ」

その時は、笑って言ったことを春は覚えている。

学校に大量の休みでも出て、狂ったようにカレーでもおかわりしたか、

その程度のことだと思っていた。

もちろん、昼食が未だに腹に残っているとはおかしいとも感じている。

ただ、問題が楽に解釈できることを春は望んだ。


「お姉ちゃん、赤ちゃん……」

十の少女がうっとりとした目で、夢を見るように微笑んだ。

丸みを帯びた腹部を円で包むように撫ぜるその様は、

何も知らぬものが見れば聖母の様であっただろうが、

姉から見れば、理由のないおぞましさそのものだった。


「アンタねぇ……」

妹はまだ小学生であるし、

仮にそうであったとしても、いきなり腹が膨れ上がるわけがない。

宿した命は段階を踏んで成長するものである。

悪辣な冗談だ。

腹部にバスケットボールでも仕込んでいるのだ。と春は解釈しようとした。

手を伸ばし、妹の腹を撫ぜてやればいい。

ボールの感触を確かめて、変な冗談はやめなさいと言えばいい。

それで解決することを願った。


すい、と春はまりあの腹部を撫ぜた。

服越しにもわかる、体温。人間の温度が伝わってくる。

「……っ!」

思わず、春はまりあの服を捲りあげた。

ひょんと腹部からこぼれ落ちるボールはなかった。

冗談のように膨れ上がる妹の腹が、そこにはあった。


食べすぎか、飲みすぎか、いや、何かしらの病気か。

いずれにせよ、病院へ連れて行かなければならない、と思った。


「赤ちゃんができたんだよ」

まりあはそう言って笑う。

春はとても笑える気分にはならなかった。


「想像妊娠です」

病院を何軒も巡り、最終的にはそうなった。

診断を聞く春とまりあよりも、むしろ医師の方が驚いているようである。

眼鏡の医師は、元々の白い肌をよりいっそう青ざめさせてそう言った。


「想像妊娠ですか?」

「おそらく、そうでしょう……しかし」

増加した皮下脂肪や、詰まった便が、腹部を膨張させているわけではないと、

あたかも胎児が腹の中にいるかのように、身体に空白があるのだと医師は言った。


話している本人にも自信がない様子である。

その説明を、春はやはり半信半疑で受け止め、

まりあはただ、優しく腹を撫ぜて「ここにいるのにね」と言った。


「まりあ、妊娠は一人だけでデキるものじゃないんだ。

 もしも妊娠したっていうなら……」

春はまりあの肩を掴み、睨みつけるようにまりあの目を見た。

夢を見るように蕩けた、違う現実を生きているかのような妹の目を。

妊娠は現実のものではないと認めさせなければならない。


「相手は誰なの」

児童間での悪ふざけか、大人の魔の手に掛かったか、

このような状況になると、まりあが仲良くしているという男子生徒も、

男の担任教師も何もかもが怪しく思える。

しかし、邪悪であっても、解釈できる現実を春は望んだ。


うっとりと、まりあが言った。

「夢を見たの……」

「夢……?」


「てんしのゆめ」

歌うように、言葉は紡がれた。


そして一ヶ月。

妊娠はあくまでも想像の産物である、という説得も上手く行かぬまま、

服薬を続けながら、まりあは入院している。

まりあに改善の様子は見えず、

冗談のように少女の体重は日々増え続けている。


仕事を休むわけにもいかず、

会社と病院を往復するように春は生活を続けている。

いっそのこと、安産祈願の逆の神社でも探してやろうかと考えながら、

ようやく病院の受付に辿り着いたその時である。


「どうも」

「うわぁ!」

背後から急に声をかけられて、春は思わず声を上げてしまった。

待合室のざわめきが一瞬途切れ、何人かが春を見た。

春は咳払いをし、無理矢理に途切れたざわめきを戻すと、

怒りとともに振り向いた。

しかし、振り向いた先にあったものは春の知らぬ顔だった。


「誰ですかアナタ」

突き放すように春が言った。

中性的な容姿であるが、纏った黒のセーラー服から少女であると判断する。

髪をショートカットにし、胸元には血のように赤いリボンタイ。

問答無用で追っ払ったりしないのは、自分より年下の同性で病院内であるから、

無理矢理にでもどうにかされることはないだろうと思ったからだ。


「んー、まぁ僕のことはどうでもいいでしょう」

少女は春の態度を気にも留めず、首筋をかき。

「まぁ、ラフカディオとでも呼んでください」

と全く自分の名前に対して無頓着そうに言った。


「それよりも、アナタの妹の想像妊娠。僕にお任せください」

ラフカディオの身長は、春より低い。

しかし、見上げるはずの少女の視線は

遥か上より春を見ているようであった。


「うん、産女がいるね」

うひと、ラフカディオが笑った。


春の脳裏でいくつもの疑問が駆け巡った。

この少女は病院以外のどこにも明かしていない妹の妊娠のことを知っているのか。

妹のことを知ったとして、どうやって自分の元に辿り着いたのか。

産女とはなんのことなのか。

しかし、春にとって最大の疑問は、

当然のことであるかのように、ラフカディオが病院に付いてくるのを

不思議と止められなかったことである。


情報収集だけが得意なパパラッチか、インチキな拝み屋、

付いてくる理由として、そういうものが妥当なところである。

問題を解決することなど出来るわけがない。

しかし、奇妙なまでに自信に溢れたラフカディオの態度に、

不思議と拒むことが出来ずに春は病室まで付いてくることを許していた。


「おかえり、おねえちゃん」

「ただいま、まりあ」

会社に行く時以外は殆どの時間を二人はここで過ごしている。

最早、病室が二人の家といっていい状態だった。

といっても、腹の中の命なき不安は膨らみ続け、

二人にとって心地よい家というわけにはいかないが。


「この人は……?」

春の後ろに立つラフカディオを見て、

人並みに不安そうな表情を、まりあは浮かべた。

不安とは言え、存在するはずのない我が子を慈しむ以外の表情を妹が浮かべたことに

春は少し安心するように思えた。


「どうも、まりあちゃん。僕はラフカディオ。

 大丈夫、今日は君の子どもに会いに来たんだ」

少年と少女の間をたゆたうような低く落ち着いた声で、ラフカディオが言った。

「よかったら、僕にも聞かせてくれないかな?君に子どもが出来た時の話を」


少し悩んで、しかし目を蕩かせて、まりあは話し始める。


一般的に天使と言われて想像するような白い翼の生えた者が現れる夢を。

そして夢の中の天使はまりあにこう語りかけたのだ。

「おめでとう、恵まれた女よ。主が共におられます」

まりあに聖書の知識はない。

しかし、その後に語る内容は聖書をなぞるように、

聖マリアにガブリエルが告知したものと同じ内容であった。


性行為なしに聖マリアが神の子を――キリストを孕んだように、

天使がまりあに神の子を孕んだのだと告げたのだという。


「だから、ね、お姉ちゃん……私の中には赤ちゃんがいるの」

そう結んで、愛おしそうにまりあは自身のお腹を撫ぜる。

レントゲンでは測定できない想像が詰まった腹を、

世界で一番の宝であるかのように、優しく、愛おしく、暖かく。


「まりあ……何度も言うけど、アナタの中には赤ちゃんなんていないの」

何度も繰り返した春の言葉は、まりあに言い聞かせるというよりも、

いつしか自分に言い聞かせるようになっていった。

信じられるはずのないことであるが、春の中にも、もしやという思いはある。

何度も繰り返し、繰り返し、ありうるはずがないと言わなければ、

存在するはずのないものに現実が飲み込まれてしまいそうで、

恐ろしくてしようがない。


「うん、うん……」

そして、まりあの言葉を聞いて納得するかのようにラフカディオは頷いた。


「やはり産女がいたね」

ラフカディオは春を追い越し、まりあのいるベッドの前に立った。

身長差よりも遥か高みから見下すように、ラフカディオはまりあを見た。


「ラフカディオさん、さっきから言ってる産女というのは?」

「うん……まぁ、人に会うと赤子を抱かせるっていう妖怪ですよ。

 今回で言う……天使のことですね」

あっけらかんとラフカディオが言った。


「夜道を歩いていると、女が泣いている。

 もし、そこのお人……どうか赤子を抱いてはくれませんか?

 赤子を抱いてやると気づけば女は消えている。

 そして赤子は……喉に噛み付いてきたり、徐々に重くなったり、

 はたまた正体は石だの木だのだったり……うん、まぁ、いずれにせよ……」

優しく、ラフカディオはまりあの腹を撫ぜた。


「赤子は偽物ってことです」

その言葉がきっかけになったのか、

まりあは白目を剥き、泡を吹いてその場に倒れた。

「まりあ!?」

「心配はありません」

ラフカディオはうっすらと笑って言った。


「妖怪というのは、認識の生き物です。

 さも自分が神聖なものであるかのように振る舞い、

 信仰を集めれば、神にだってなれます。

 今回の産女だってそうです、彼女はまりあちゃんに神の子を持たせた。

 もちろん、実態なんてものはありません。

 ただ、生まれるはずのない子……存在するはずのない奇跡……

 そんなもので気を引き続けようとしただけのことです」

「じゃあやっぱり……」

「まぁ、結局、想像妊娠だったってことですね。

 産女も正体をバラされては信仰を集められません、後はなるようになりますよ」

そこに奇跡と呼ばれるようなものは何一つとしてなかった。

実際に妖怪の産女が現れたのでもなければ、それが退治されたわけでもない。

言ってみれば、ラフカディオが言葉を掛け、腹を撫ぜただけである。

それで、まりあが倒れたそれだけのことだ。

しかし、なぜだかどうして――春には問題が解決したように思えた。


それから数日が経ち、

不思議とまりあが自分の妊娠を想像の産物であると受け入れるようになり、

まりあの腹部は少しずつ元の大きさに戻っていった。


「でも……やっぱり私の中には赤ちゃんがいたんだと思う」

「うん、そうだね……」


結局、赤子は想像の産物であったのだろう。

それでも、想像の中にしかいなかった自分の子を思い、まりあは涙することがある。

しかし、いつかはその傷も癒えるだろう。

想像の分もいつか生まれる本当の子を抱きしめてあげてほしいと、

春は願うのであった。


「じゃあ、いってきます!」

入院明けで久々の学校である。

ついていこうかと春は思ったが、一人で行くのだとまりあは言う。

「まりあーっ!」

大手を振って、まりあを迎えに来る男子の声を春を聞いた。

友達と一緒に行くというのならば、自分は邪魔なだけだろう。

ならば、それはそれでいいかと春は思った。


「またな、まりあ!」

「うん、また!」



姑獲鳥こかくちょうは、中国の伝承上の鳥。


他人の子供を奪って自分の子とする習性があり、

子供や夜干しされた子供の着物を発見すると血で印をつける。

付けられた子供はたちまち魂を奪われ、

ひきつけの一種である無辜疳むこかんという病気になるという。


江戸時代初頭の日本では、

日本の伝承上の妖怪「産女」が中国の妖怪である姑獲鳥と同一視され、

「姑獲鳥」と書いて「うぶめ」と読むようになったが、

これは産婦にまつわる伝承において、産女が姑獲鳥と混同され、

同一視されたためと見られている

(wikipediaより引用)



「子どもを奪う妖怪と子どもを渡す妖怪、

 同一視されるというのも不思議な話ですが、まぁそういうこともあるでしょう」

一人ノートパソコンでwikipediaを見ながら、ラフカディオは呟く。

妖怪は認識の生き物である。

知られぬ間に家で主のように振る舞うだけだったぬらりひょんが、

人間の認識で、妖怪の総大将のように至ったという例をラフカディオは知っている。


産女は解決した事件であるが、一応インターネットで検索する程度のことはする。

といっても、子どもを奪う、子どもを渡す程度ならば一般的な妖怪の範疇である。

特に後遺症が残らなかったことも、春から聞いている。

何の問題もないだろう。とラフカディオは判断した。



「初潮=子供が産める体」になったという風に受け取られがちだが、

始まっても1-2年間は周期は不規則で排卵が無い(無排卵性月経)場合が多く、

妊娠の可能性は低い。

反面、排卵があれば妊娠の可能性はあり、

10歳以下でも妊娠するケースもある。(wikipediaより引用)


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擬胎 春海水亭 @teasugar3g

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