第10話 エリザベスと先に進む者
スパーリング解禁から一ヶ月が経つ頃、めぐさん明美さん真琴優子さん響さんは巡業に帯同を許され、リングの設営などの仕事が増えるが巡業中の練習内容や普段の仕事ぶり次第でデビュー出来るかもしれないらしい。
残された直子ちゃんと恵子さんとあたしは先輩がいないので仕事自体は楽ではあるがその心中は複雑だ。
誰だってあの華やかなリングで一刻も早くデビューしたい。
その思いはめぐさん達もあたし達も変わらない、デビューすることで待遇の改善もある。
何より自分達が新弟子という立場からいち早く自立したくてたまらないのだ。
だがコーチ達は全員が一年以内にデビューする必要はないとでも言いたげに、
出来る者とまだ出来ていない者を厳しく振り分ける。
あたし達は「まだ出来ていない者」のままのようだ。
正直に言えば悔しいし妬ましい。
確かにめぐさんはあたし達同期の中では頭抜けている。
それは確かだ。
だが他の同期の子達とあたし達の差はそんなにないはず。
疑問を不満を抱えたあたしは午後の練習が終わったある日スパーリングの相手をしてくださっているコーチに自分と先に巡業に帯同した人達のどこに差があるのか?を訊いてみた。
「あんた達3人ももうちょっとなのよ。だけど今は上の空で稽古してるでしょ?だから駄目なの。きちんと気合い入れて稽古してたら次の巡業くらいから考えてもよかったんだけどねぇ」
それを聞いたあたしは、次の日からシャカリキになって熱心に稽古に打ち込んだ。あたし達に差はそんなにない、ならここ数日浪費した分を取り戻して、巡業組に追いつく!いや、追い越す!
そのくらいの意気込みでなければ置いて行かれたままだ。
あたしの意気込みが伝わったのか?恵子さんと直子ちゃんも稽古に一層身を入れるようになった。
その気合の入った稽古を見ればあたし達を落ちこぼれだという人はいないはず。
レスリングの技術的にはめぐさんには及ばない、でも基礎体力や闘志では絶対に負けない。
そう思って一つ一つのメニューを丁寧にかつ熱心に、妥協することなくこなしているのだ。
そうやって熱心に稽古を重ねる日々が3週間ほど続いた後、あたし達三人はコーチから次の巡業で帯同を許されたことを伝えられる。
嬉しさで飛び上がりたくなるが、これはまだ第一歩を踏み出したに過ぎない。
巡業中は仕事もさらに多く移動時間の制約も過酷で、そのうえで限られた場所と時間の中練習しなければいけない。
それをきちんとこなした者だけが次の扉をくぐることができるのだ。
この果てしなく続く階級社会に正直うんざりすることもある、だがそれを選んだのは自分だし、その先にある景色を見てあの背中に追いつく、それを目標に頑張って来たし、ここでやめるつもりもない。
世間ではもっと賢い生き方はあるだろう、だけどあたしはやりたいことをやる。
前世で掃いて捨てるほどいた先見性のない経営者達や経営コンサルタント達ならお金をかけて新弟子を育てることを無駄というだろう。
だがプロレスの世界にあって新弟子は将来団体にビッグマネーをもたらすかもしれない金の卵だ、アヅジョのジョニー・キッド社長はそれが分かっている。だからまだ試合ができない新弟子にもきちんと衣食住を保証したうえで、僅かながらでも給料も出している。
ただあたし達はあのリングで一刻も早く試合を出来るようになりたい。
そうすればさらに待遇はよくなるし、リング上なら嫌味な先輩の横っ面も合法的に張り倒せる。
デビューを目指さない理由などないのだ。
大体この世界に入ってくる者は皆ある程度の差はあれメインイベンターを始めスターレスラーに憧れて入ってくるのだ、その舞台に立ちたいと思わない理由はない。
次の巡業でもデビューを目標にしたあたし達は浮かれることなくさらに熱心に稽古に身を入れる。
デビューしてから先が本番なんだ!
そう自らを戒め厳しく己を鍛え続ける。
そして次の巡業の日程を教えられた後、あたしたち三人は練習後コーチに残るように伝えられる。
なんだろう?練習はきちんとしてるし怒られる理由が思い浮かばない。
そう思いつつコーチの前で横に並ぶ。
「あ~、別に今日はあんた達を怒るつもりはないから楽にして。これはあたしの先輩がその先輩から伝えられてきたことで、デビューする前の若い子には必ず伝えることにしてる言葉なんだけど…」
そこでコーチは一言区切ると、
「レスラーっていうのは試合をすれば身体を必ず痛めるし、そういう怪我や痛みを抱えながら試合をする商売だからいつか必ず引退しなくちゃならない日が来る。それが何時かはやってみなくちゃわわかんない。でも何時どんな形で来るか?はわからないけど絶対にそれは来る、だからデビュー前のあんた達はそのいつか来る引退の時に備えて次に何をやって食っていくか?を考えておかないといけない。トップレスラーとして有名になってから芸能人になるのでもいいし、貯金を生かして肉体改造して他のスポーツをするもよし、地道に普通の仕事にするのもいいし、荒稼ぎして経営者になるのでもいい。なんでもいいんだよ、でもきちんと食べて生きていく準備はしておきなさい。これがデビュー前のあんたたちに贈るはなむけの言葉さ。あんたたちこれは絶対忘れずにできればあんたたちの後輩にもこの言葉を送ってほしい。じゃあ巡業についていったら一層きついと思うけど、頑張るんだよ…」
そういってあたしたち一人一人を抱きしめるとコーチは道場から出て行った。
あたし達3人は自然とその後姿に対し頭を下げていたのだった。
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