第十二幕 椿の丘

 十の大太鼓を一緒に鳴らしたような大音と共に、真っ赤な稲光が閃く。するとそれに合わせ、蔵の上に立つ黒き鬼は掻き消え、かと思えばまた稲光と共に現れる。

 前へ、後ろへ、屋根の上へ、消えては現れる鬼の影。

 とてもでないが測りきれぬようなその大きさは、正しく大鬼と呼ぶに相応しい。そしてその真っ黒のつらがまえの怖さと来たら、絵巻の中の可愛らしき鬼とは似ても似つかぬ。

 再びの稲光と共に現れた鬼の居場所は、その身から放たれる獣臭を感じられるほど、近い。目の前で仰ぎ見るその姿はやはり、今までに見たどんな物よりも恐ろしく、不気味である。

 気付くと、鬼を見上げる俺の体のどこかから、がたがたと喧しい音が鳴っていた。

 震える手で己の顔を触ってみると、この顎が大きく震えているのが分かった。全身に力を込め、いくらその音を抑えようとしても、歯の鳴る音は、やまぬ。

「こ、こ、こ、こ、ここ、これが……!」

 ねじくれまがった二本角。光を呑みこむ黒い肌。吊り上がった細い目と口から迸る、赤黒き光。……それが今俺の眼前に立ちはだかる、ごんごう鬼の姿なのだ。

 ひときわ大きな音が鳴り、赤き稲妻が眩しく光った。それと共に、傷跡のように細く閉じられていた鬼の目と口が、カッと大きく開かれる。

 その目にギョロりと睨まれて俺は、そのあまりの恐ろしさに、とてもでないが、立ってなどいられなくった。膝の力がかくんと抜けて、この尻が庭に敷かれた玉砂利の上へと落ち、涙が頬を伝うほど、ひどく痛んだ。

「ば、ば、ば、馬鹿椿、立てっ!立たんかっ!」

「……腰がっ、腰が抜けてしまいました……っ!」

「用心棒がそんなんでどうすんじゃ!」

 そんなことを言われようと、怖いものは、怖かった。赤き目玉でこちらを見据える鬼は、いつ襲いかかってくるか分からぬ獣のように前傾し、その身を怒気に震わせているのだから。

 黒き鬼の大口から、雷のようなごろごろと言う音が鳴り、巨大なその両拳が組まれる。それはまるで蛇頭のようにゆっくりともたげられて、突如として、振り下ろされた。


 叩き潰される。


 そう分かっても俺は、まるで目を回したトンボのように、必死に地面に噛じりつくので精一杯だった。身動きとれぬ程に全身が震え上がり、ただ怯えながら、見ている事しか出来なかったのである。

 鬼の拳がつぶそうと捉えたのは、ぶざまに這いつくばる俺などでないと気づいたのは、それがとっくに振り下ろされきってからの事であった。



 鬼の拳が叩きつけられると、轟音と共に地が抉れ、そこから舞った砂煙が視界を奪った。それと同時に、鈍く重い、人の体のこわれる音が確かにした。

 まるで煙幕のように立ち込むその砂煙は確かに、先程まで富さんの倒れていた辺りから上がっている。

「……富さん、おい富さん。返事を、返事をしてください。」

 そう問うしか出来ぬ己のあまりの情けなさに、自然と涙がこぼれた。

「……富さん!返事を、返事をしてくれ!」

 しかしやはり、ただおじけ、震えていただけの俺なぞに、土煙の中からの返事がかえってくることは無いのであった。

 生ぬるい血がつうっと額から垂れ落ちて、俺の左のまなこの見え方を奪う。落雷がごとき鬼の一撃で散った砂利が、頭のどこかをいためたのだろう。しかし、そのような些末な事を気にしている暇は、ありはしない。

 這いつくばりながら、砂煙の中に手を入れ探ると、生暖かい人の腕らしきものに触れた。両の手で触れ、探ってみると、それはあり得ぬ方向へ、ぐにゃっと曲がった。

「……いてぇ……!」

 その声は、いつもより随分と弱々しいが、次郎さんの声であった。俺はつかんだ腕をそのまま乱暴にたぐり寄せると、片腕に富さんを抱く次郎さんの体を引き摺りだした。

「痛ぇっつってんだろ!この馬鹿!」

「次郎さん!富さんは、富さんは無事ですか。」

「……どうやら、間一髪よ。」

 富さんを抱いたまま何とか立ち上がった次郎さんの腕は、普段なら真っ直ぐのところが、曲がってしまっている。

「どうも、どうもすみません……。俺が怖気ていたばかりに……。」

「謝っとる場合か!この馬鹿椿がっ!」

 次郎さんが吠えながら顎で指したその遥か高きところには、未だこちらを覗き見る大鬼の姿がある。赤く光るその目玉が、俺の方をぎょろりと見た。たまらず、情けない声が喉の奥から漏れて、俺は思わず後退る。

 何とかせねばならぬのは、分かっている。しかし、あの目に高くから睨まれると、体がまるで言うことを聞かぬのだ。

 次郎さんが何事かを叫んでいるのが、近いのに、遠く感じる。

 何も出来ず、ただ情けなく震えているだけの俺の頭から、何かがするりとほどけ落ちた。

 地に落ちたのは、かきつばたのお花飾りである。

 それは用心棒の証にと、親分よりいただいたものである。



 まだ自分の年を自分で数えられた、つまりは十にも満たぬ頃。

 俺は自分の脛から零れる赤い血と、そこから生まれる痛みに驚き、手に持つ鎌を田んぼの中へとおっことした。


「役に立たんなぁ、椿は。」


 夏の終わりの田んぼのど真ん中。心配する大人たちに囲われて、わんわんと俺は泣いた。

 泣いてしまったのは、稲を刈るのに力を入れすぎて、自分の足をいためてしまったからでは、ない。

 みなが簡単にやっている事がろくにやれず、いつも周りの者らを落胆させてしまう。そんな俺自身に、俺は泣いているのだ。


 幼き頃より、馬鹿と言われるのには、なれっこだった。

 ただ、役に立たぬと言われるといつも、なんでか知らぬが、涙が出た。


 十を過ぎ、俺も少しだけかしこくなってくると、周りの者からなるだけ遠くへ己の身を置くようになった。

 同じくらいの年の者らと肩を並べていても、自分を嫌になることが増えたからだ。

 釣りをすれば、人のあげた魚をとり逃す。水を汲んでくれば、その桶を忘れてくる。

 ときどき誰かの役に立とうと思っても、結局それはになり、何一つとして、上手にできぬ。


「もう椿は何もせんで良い。」


 声から逃げるようにして、俺は段々畑の丘を登り、天辺の誰も居ないところで、腕立て伏せをするようになった。

 それもまた、誰の役にも立たぬことなのは知っていた。しかしそうして、ただ一から九までの数を数えていれば、人と居るのよりは、気が楽だったのだ。


「……ろく、しち、はち、きゅう、きゅう。」


 遠くから海風ふく、一人の丘。

 そこではいつまでも、幼き俺が一人だけで、腕立て伏せをやっている。


「……しち、はち、きゅう、きゅう。」


 日が暮れて、夜になっても。涙に濡れて、指の数すら数えられなくなっても。いつまでも、いつまでも……。



「いったい!いつまで!そうしとるつもりじゃっ!この馬鹿椿ぃ!!!!!!!!」

 そう吠えたのは、次郎さんにあらず。むろん、鬼でもなければ、富さんでもない。

 吠えたのは、俺だ。俺が吠えたのだ。

 これにはどうも、俺自身でさえ驚いた。しかし間近に居た次郎さんの方はもっと驚いたようで、目を真ん丸にして、こちらを見ている。

「……そ、そうじゃ!馬鹿椿!はよう立って何とかせんかい!」

 地に落ちた、かきつばたのお花飾り。

 俺はそれを拾い留めなおすと立ち上がり、相も変わらず大きな鬼を見下ろす。奥の歯はもう、がたがたとは言っていない。その代わりに耳の奥から、血の煮える轟々と言う音だけが鳴っていた。

「……俺は用心棒の、馬鹿の椿じゃ!」

 そう言ってまっすぐに鬼へと走ったのはやはり、後ろへ逃げたりするより、今向いている方へと進む方が、頭を使わず済むからだ。

 走りながら突き出した俺の両の手が鬼と重なり、力比べをするよう組み合う。のしかかるようにして俺と押し合う鬼は、まるで巨木のような重さである。

 しかし恐らく、俺の方がわずかだが、強い。ふんばる鬼の足の裏がじりじりと後ろの方へ下がってゆくのでそれが分かった。

 ここが押し時と見て俺は、気合の声と共に、万力の如き力をこのてのひらに込める。俺の手の骨がみしりと軋み少し痛んだが、結ばれた堅い鬼の手の方は、ばきりと音を立てて歪み、ほどけた。

 おどかすような大音立てて、またも赤き稲妻が光る。それに合わせ鬼の姿が掻き消えると、少し離れた場所へ、また現れる。

「逃げるなら、はようおらんくならんか!」

 屋敷の塀に寄り掛かるようにしてよろめく鬼へ向かい、俺は思い切り走る。そしてそのままこの拳を思い切り、その大きく長い顎へ向かい、突き上げた。拳が抜けた後、何かがごきりと折れる感触がした。首の折れた鬼の顔がちょうど半分、風車のようにして回ったのだ。

 ねじれた角を地に向けた大鬼のその巨体から、だらんと力が失われたのが分かった。

「本当に、やりおった……!」

 後ろから、次郎さんの安堵する声が聞こえた。しかし動かなくなった鬼はそれでも、張り付くように俺から目を離さぬ。

「!?」

 引き攣るように大きく鬼の体が跳ねたかと思うと、その目玉が赤く光り、骨の鳴る嫌な音がした。鬼は俺から目を離さぬまま、ぐるりとその顔を回して元に戻すと、まるで何事も無かったかのように、また動き出す。

 不意に鬼の大手に掴まれた俺の体が、闇を舞った。

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