第十一幕 鈴鳴りて鬼来る

 親分のお話から幾日か経った後の、まだ日も明けぬ夜のこと。俺は客間にぽつんと敷かれた布団の中で、よい姿勢のままハッと目覚めた。

 俺は一度寝入ると、厠以外に目は覚めぬ。ゆえにこれは、よほど珍しいことと言えた。

 行燈の灯りの消えた、まっくらのこの部屋は、確かに親分の屋敷の中である。しかし、いつもなら夜半過ぎて尚にぎにぎしい門前の往来の音が、今はない。代わりに、しぶく波音と、岸につながれた船が「ぎぃ……ぎぃ……」と鳴るのが、襖の外から漏れて聞こえる。

 そして、これは鈴の音であろうか。それは海の起こす奇妙な音らに紛れ、ともすれば聞き逃してしまいそうなほど、小さき音である。しかし、たしかにどこかで、鳴っているのだ。

 丑三つはとうにすぎているだろうに、不思議と俺はしゃんとしており、まどろまぬ。よって、映る一面のまっくろな闇が、かすむことも無い。小さき鈴の音も、耳を澄ませば、しかとこの耳に届く。

「……誰ぞ、居るんですか。」

 鈴の音が返答するようにして、俺の溶けたるこの闇の中にこだました。

 俺は立ち上がり、音のなる方の襖を、この両手で開く。しかし、開かれたその先には、闇と、また襖。

 開き、進み、開き、落ちる。天も地も無いまことの闇の中。襖と、りんと鳴るその音だけを頼りに、ただ何も考えず、闇をゆく。

 するとやがて、たそがれに燃ゆる赤い海。その水面に建つ、小さき波止場へと辿り着いた。

 赤い海には、一人ぼっちの、小さく古い、小舟がある。


「祥吉郎、老ノ山へ鬼見に行こうぞ。」


 その小舟の上で手を伸ばしたるは、見るに慣れた立ち姿。我が兄、善太郎にある。

 俺は信ずる兄さまの大きなてのひらに向かい、走る。波止場の木板を、赤い海の上を。老ノ山より鳴る鈴の音と、にいさまの方へ向かい。ともすれば足の取られそうな、どろりとした赤い海を、必死こき、走る。

 そしてやっと、まだ小さきこの手が、にいさまの胸に刺さるその大きな刀に



 猿叫のような、潰れた高い声がして、慌ただしく目が覚めた。にわとりの死ぬる時のようなそうぜつなるその声は、しかし、近い間に聞いた覚えがある。

 ……そうだ、これは、俺の世話をしてくれる、上女中の富さんのものである。

「馬鹿ツバキぃーっ!!」

 次いで吠えたのは、次郎さんであるが、そこにはいつものような、乱暴なひびきはない。危急のことであると、すぐに分かった。



 異変の起こった場所は、すぐに知れた。屋敷の中へもうもうと立ち込む、煤のような煙が、庭の隅にある蔵より、流れ来ていたからである。

 近付くほどに、前も後も分らぬようになるこの黒き煙。俺がその源へとなんとか辿り着くと、やはりそこには、次郎さんの姿があった。それに、倒れ動かぬ富さんの姿も。

 富さんは、その手にしかと桜の枝を握っており、その傍には、打ち捨てられたようにして、あの黒く長細い箱があった。未だ辺りを煙のように渦巻く闇は、どうやらこの箱の中より、生まれいでている。

「なんなんじゃ、この煙は……。」

「……まるで、夜のようです。」

 渦巻きよりいづる闇の勢いは、どんどんと増し、粘るようなしっこくを成す。

 やがて屋敷の真上へと浮かび上がったその渦巻く闇は、まるで厚い黒雲のような体をなしていた。

 すっぽりと屋敷を覆った不吉なる黒雲から、赤い稲妻が生じ、たける。

「な、なんじゃあ!?」

 稲光の放つそのはげしき音と、あまりの眩しさに、俺は目を瞑り、耳を覆った。

 次にゆっくりとこの目を開いた時。俺と次郎さんの向かい立つ蔵の上には、その身全てに闇をまとう、大きな、大きな、黒き鬼の姿があるのであった。

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