第十三幕 命を捨てて朝が来た

 一瞬だが、気を失くしていた。

 鬼に投げ入れられたそこが蔵の中であると分かったのは、その入り口に次郎さんが刀を抜いて立っているのが見えたからである。

 次郎さんは片方の腕が折れてしまっているから、箸を持たぬ方に刀を持って、ちゃんばらごっこみたいに振り回している。あんなへっぴり腰では、鬼にかすりもしないだろうに。それなのに次郎さんは吠えながら、刀を振り回す。俺ほどでは無いにせよ、次郎さんは中々の馬鹿である。

 寝そべりながら遠目に見る大鬼は、それが何度目であろうと怖ろしかった。それに、まるで自分の体が溶けたように重く、あちこちの骨の奥から痛みが来て、これ以上動くと死んでしまうのではないかと言う気がするのも、怖かった。

 しかし、ここでまた怯え竦んで居ては、俺はまた一人ぼっちのあの丘へ帰らされ、そして今度は二度と、そこから出られぬような気がした。……ゆえに、怯えている暇などはないのだと、馬鹿の俺にもそう分かった。

 とっ散らかった蔵の中にある棒を杖のようにして、力の入らぬ体で何とか立ち上がろうとすると、聞いた事のある鈴の音が聞こえた。鈴の音はどうやら、杖代わりに握ったその大太刀から鳴っている。



「何がごんごうじゃ、この糞鬼がァ!」

 相も変わらず、声だけは威勢の良い次郎さんの脇をすり抜けて、俺は鬼へと走る。それに気付いた鬼はまた、あの恐ろしい目玉で脅すように、俺を睨んだ。

「……俺は初めて、命を懸ける。」

 幼い頃聞いた父の言葉を重く思い出しながら、しかと握ったこの柄に力を込める。

 一際澄んだ凛という音と共に、大太刀が抜き放たれる。その刀身は錆色を超えて真っ黒だが、このなまくらを見た鬼はどうしてか、怯えるように大きく震え、後退り、遠き雷のような唸り声をあげた。

「……ゆえに、もう怖じぬ。」

 その切っ先を真っ直ぐ鬼へと突き付けると、大太刀が燃えるように熱くなり、たちまち白く輝く。

 燃ゆる剣を向けられた鬼が咆哮し、窮した獣のごとき四つ足になってこちらへと迫る。

 同時に黒雲から放たれた赤い稲妻が俺の傍へ落ちたが、何の音もしなかった。気付けば己の鼓動の音以外、何も聞こえぬ。

 まるで一枚の絵のように静かになったその世界で、ゆっくりと、光る大太刀を振り上げる。

 迫り来た鬼が、目前で真っ赤な口を開いた。しかし俺は不思議なほど静かな心でもって、その鬼へ向かい一歩を踏み出す。

 その一歩と共に真っ直ぐ振り下ろされた大太刀が、光の尾を引きながら、鬼を裂く。

 海を震わせるほどの断末魔の絶叫が響くと、音無き世界は消え失せ、両断された大鬼の巨躯が地面に崩れる轟音が、俺の耳へ届いた。

 俺は鬼の亡骸を振り返ると、いつの間にかするのを忘れていた呼吸の事を思い出して、思い切り吸い込んだ。しかしどうしてか、一向に息苦しさは消えぬ。

 光を失った大太刀も急に重たく感じられてきて、力を失っていく俺の指先から、やがてするりと抜け落ちた。

 それと同時に、地に落ちた鬼の体が砂のようにサラサラと崩れ、屋敷を覆う黒雲と共に、空へ消えてゆく。

 そうして、この屋敷を包んでいた全ての闇が取り払われると、暖かい朝のお天道様が、その姿を現した。

 見慣れたその光に、どうしてか母の面影を見た。その温かさに安心した途端、この身から全ての力が消えていくのが分かった。

 駆け寄りて、唾を飛ばしながら俺の肩を揺らす次郎さんの顔が、えらく白い。……違う。俺の瞳の見え方が、白く霞んでいるのだ。

「……母に、すみませんと。」

 なんとか力を振り絞りそう言ったのは、人の死ぬ時とは、きっとこういったものだと思ったからだ。

 全てが白くなってゆく中に、一人寂しく飯を食う母の姿だけが浮かんだ。しかしもう俺の体には、どうやら涙をこぼす力すら、残ってはいないようであった。

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