遺書 八
彼が死ぬ場面で、別の人物に代わりに死んでもらう。
彼女が好きなのは彼だけなのだから、他の誰が犠牲になっても構わないだろうと思ってしまった。
追い詰められていたとしても、頭を痛めて生んだ我が子に対して、私は、なんてことを……。
よりにもよって、私はライバルを死なせてしまった。
そんな物を書き上げて、渡した所で、果たして彼女は喜んでくれるのか。
悲しむだろうな、もしかしたら。
表情を曇らせる所、感情的になった所は何度も見てきたが、思えば、彼女の泣いた所は見たことがなかった。
どうせそれを目にするのなら、嬉しさに涙を零す方が良かった。
──このまま、終わりまで書くべきか。
残り数枚だというのに、サクサク進んでいた筆が止まる。
何もする気になれない。
それまで机に張り付いていたのが嘘みたいに、リビングで、書斎で、怠惰を貪る私を、彼女は訝しげな目で時折見てくるが、何か言ってくることはなかった。
放っておいてくれて助かった。
何もする気になれないくせに、脳は、考えることをやめない。
最初から書き直すか? ──もう他に思い付かない。彼女の誕生日にもまず間に合わない。
このまま書くか? ──ライバルは死んだまま。だが結婚記念日には間に合う。
──間に合わせて泣かせるか?
──間に合わなくて泣かせるか?
うだうだうだうだ、考えに考えて……気付けば、記念日が目前に迫っていた。
「……」
ひとまず、このまま最後まで書いてみようと思った。
書いてみて、読ませてみて、気に入らないと言われれば、書き直せばいい。
彼女のおかげで、私はもう、続きの書けない作家ではなくなったのだから。
どうにかなるはずだ、きっと。
「雪夜、頼みがあるんだ」
尻を叩く為に、決意を鈍らせない為に、彼女には外出してもらう。
私の申し出を、彼女は満面の笑みを浮かべて承諾し、さっさと出掛けてしまった。
「……」
私は最後まで訊けなかった。
明日が何の日か、本当に分からないのか、と。
◆◆◆
外の雑音は耳に届かず。
重たい静けさに満ちた書斎。
万年筆の小さな音だけが、それに反抗する。
「──……──……」
彼女の為に。
四年も待たせてしまった、彼女の為に。
たとえ裏切ったとしても、それでも彼女は、私を求めてくれた。
その期待に、私はそろそろ応えなければいけない。
「──ま……──す……」
たとえ泣かせることになったとしても、これしかないのだ。
私には、これしか書けないのだ。
「──い──な……」
終わる。終わる。
ようやく終わる。
「──まな──すま」
雪夜。
「ない。すま」
雪夜、本当に、
「ないすまな」
待たせてしまって、
「いすまないすまないすまない」
書けなくて、
「すまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまないすまない」
──痛いんだ。
手がずっと、痛くて、痛くて、万年筆を握るのが辛いんだ。
目も何故かそうなんだ。ぼやけてしまって、マスに文字が納まらない。
頭もズキズキと痛む。……考えてしまったからだろう。
四年も待たせておいて、こんな悲しい話を渡したら、もしかしたら君は愛想を尽かして出ていってしまうんじゃないかって。
書き直すって言っても、もう耳を傾けてはくれないんじゃないかって。
それならさっさと話を変えればいい?
無理だ。
私はこの話を最後まで書きたい。
これが私の書きたい物なんだ。
だから筆は止まらない。軌道修正を許さない。
きっと完成させてしまえば、私は満足してしまう。
これ以外の話を書きたくない。
誰が何と言おうと、これが、私の書きたい物だから。
……雪夜。
奇跡はね、一度しか起きないから、奇跡なんだ。
例外は二度も許されない。
分かるんだ。きっともう、書けないって。
無理だ。無理だ。無理だ。
無理なんだ。
「いすまないすまな……ゆ、きよ」
筆が止まる。──『完』と記して、止まる。
最後まで、書いてしまった。
「すま、な……かった」
──後は、順番通りに原稿を揃えるだけ。
机の引き出しに入れているメモ帳から、一枚千切る。
──後は、彼女に原稿を見せるだけ。
震える手で書くべきことを書き、端の方に置く。
──後は、彼女を泣かせるだけ。
万年筆を引き出しに仕舞い、代わりにハサミを取り出す。
──後は、彼女を失うだけ。……それだけは、耐えられない。
書きたい物を書いた。
愛する人はきっと悲しむ。
なら、こうするしかないだろう。
愛する人を悲しませない為に。
作品を否定される前に。
──守る為に。
私は自分の首に、ハサミを突き刺した。
意識を失う瞬間まで、何度も、何度も、何度も。
鉄の臭いと湿った紙の感触。
それを最期に、私の意識は途絶えた。
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