遺書 四

 私と彼女の結婚は、あまり祝福されるものではなかった。

 父と娘と言っても通じる年の差で、私にそれなりの金があることも災いし、周囲からは金目当ての結婚だろうと何度も言われた。

 金目当てであればどんなに良かっただろう。きっと、私が死ぬまで上手いこと本性を隠して、私と接してくれたはずだ。求婚するまでの彼女のように。

 一応、彼女が欲するなら、いくらだって金を渡せるのだが、彼女は生活に必要な分以外は全く求めてこなかった。

 質素倹約につとめる彼女の姿に、周囲は興味が失せていったのか、彼女を悪く言う声は徐々に聴こえなくなった。──そもそも、彼女の耳に届いていなかったかもしれないが。

 彼女がこの結婚に求めていたことは、金でも私でもなく、自分の読みたい話なのだから。


「旦那様、少し良い?」

 一日の始まりに、あるいは終わりに、書いているかどうか訊ねられるのかと少し身構えていたが、それなりに忙しい身だということを知っているせいか、そんなに頻繁には進捗を訊かれなかった。

 いつも、仕事が一段落して気が緩んでいるタイミングで、彼女は訊ねてくる。

「例の作品は書けそう?」

 結婚してからの彼女は、家政婦だった時の彼女と違い、纏う空気が柔らかく、『旦那様』と呼びつつも砕けた話し方をし、いつも楽しそうな笑みを浮かべていた。

 その質問をする時だって、小首を傾げて上目遣いに訊ねてくるのだ、内容が他のことなら心中穏やかに答えられたが、いつだってこの瞬間が苦痛で堪らなかった。

「……もう少し、時間をくれないか」

 そう答えて、彼女の顔が曇るのを見なくてはいけないから。

 笑顔が魅力的な女性なんだ、そんな顔、一瞬たりとてさせたくはないのに。

「……すまない」

「いえいえ、そんな。お疲れの所、ごめんなさいね」

 若干早口に言い、そそくさと彼女が自分の部屋へと戻るまでが、いつものお決まりだ。

「……」

 これでも時間のある時に、書こうとはしていた。

 普段はパソコンに打ち込んでいるが、特別感があるから原稿用紙に書いてほしいと彼女に言われたので、老舗の文房具屋で買ってきた物を机の上に出して、万年筆を手に取り、書こうとするが……書けない。

 展開を変えるだけ、と言えば簡単だが、いかにして変えるか、そして変えた後にどうするべきか──どんな物にすれば彼女が納得するかが重要なわけで。

 本を読み返したりして話を考えるが、筆が進むことは一切なく。

 気付いた時には、結婚して一年が経っていた。

 気長に待つ、と彼女は言ってくれたが、いつまで待ってくれるつもりなのかは分からない。


 ……いつの日か、彼女が気が変わったと言って、指輪を外し、私の前から姿を消す日が来るんじゃないか。


 そんな日が来るのではないかと、怯え、焦り、彼女との結婚生活を──幸せを、噛み締める余裕など私にはなかった。

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