遺書 五

 結婚生活二年目を迎える頃、妻の様子が変わってきた。


「……まだ、書けない?」

「……あぁ」

 いつも通りの私の返答。

 いつも通りであれば、彼女は訊いたことを謝って自室に戻るが、この頃は溜め息を一つ零して、

「……書いてくれる気は、あるのよね?」

 重ねて訊いてくる。

「も、もちろんだ! ただ、仕事が立て込んで」

「分かってる、分かってるから! ……ごめんなさい、余計なことを言ったわ」

 感情的に私の言葉を遮りながら謝り、

「……待ってるからね」

 そんな絶望的な言葉を残して、部屋に戻る。

 笑みなんて浮かべていない。

 家事をしている時以外はぼんやりとしていることが多くなり、楽しそうにしている姿を目にする機会は日に日に減っていった。ただ、例の話について訊くタイミングだけは、いつもきちんと計ってくれていた。

 それが苦痛であることには変わりないけれど。


 相変わらず、彼女の求める物を書くことができない。

 彼の登場人物を使って、何の脈絡もない文章を練習がてら書いてみたりしているが、それが実を結ぶ様子は未だない。

 そもそも、話が思い付かないのだから。

 二年もあれば、私がそういう作家だということは彼女も理解してきたようで、ふいに感じる視線が冷たいことも、私の気のせいではないだろう。

 それでも、彼女は結婚当初と、いや結婚前と変わらず、完璧に家事をこなし、私を支えてくれた。


 ──旦那様、書けそう?

 まだ、書いてもらえない?

 仕事の方は滞りないのに。まぁ、私がサポートしているのだから当たり前だけど。

 そろそろ書けてもいいのに。

 あなたは若くないんですよ? 知ってますか?

 死にはしなくても、ボケちゃうかもしれない。

 そこまでは老いてない、だなんて、まさか油断してないわよね?

 人間いつどうなるかなんて、誰にも分からないんだから。

 そんなことになる前には、早く書いてもらいたいわね。

 早くあの人を、幸せにしてよ。


 ──それが君の幸せだからな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る