遺書 三

 その感情に気付いてからというもの、無意識に彼女の姿を目で追ったり、珈琲を運んできてもらった時に話し掛ける頻度が多くなってしまい、そのたびに彼女は微笑を浮かべて私に接してくれた。

 まさか来ると思っていなかった突然の春に、私は年甲斐もなくすっかり舞い上がってしまい、それを諌める相手がいなかったことも災いして、徐々に気持ちが抑えられなくなった。

 そしてついに、

「私の仕事を、私が死ぬまで手伝ってくれないか?」

 指輪と共に、その言葉を彼女に贈った。

 交際の申し込みもしていなかった上、親子ほど歳の離れた男からの突然の求婚など、普通は気持ち悪さを覚えるだろう。

 けれど恋とは恐ろしいもので、その言葉を口にするまで、私はまるでそういう考えに至らなかった。

 私と指輪を交互に見る彼女。声を掛けた時には微笑を浮かべていたのに、目を見開いたその顔に笑みはない。

 彼女の表情を見て、私はやっと冷静になれたが、何もかも遅かった。

 冗談だったで済ませられるほどに親しくもなく、その事実に気付くと余計に胸が痛くなった。

 私はなんて浅はかだったのか。

 けれど時間は巻き戻らず、止まることもない。

 重苦しい沈黙がしばらく続き、結局、先に音を上げたのは私だった。

「……その、だね」

 と言っても、何かしらの誤魔化しを思い付いたわけもなく、正直見切り発車ではあった。それでも年長者として、こんな状況にしてしまった者として、どうにかしなければと思ったのだが、


「先生、一つお願いを聞いてくれませんか?」


 彼女が口を開く。

 まるで、重苦しい沈黙など初めからなかったかのように、彼女の顔には笑みがあった。

 ──私の知らない笑みだった。

 僅かに潤んだ瞳、淡く色付いた頬。

 雨上がりに咲いた薔薇のようなその表情に、一瞬心臓が強く跳ねるも、凝視すれば嫌でも気付く。

 私の正面に立ち、私に話し掛けているというのに、どうにも彼女は私を見てはいないようだった。

 私越しに、誰かを見ているような。

「……な、何なんだ」

 それが返事か、感想かは、私にも分からない。

 彼女はそっと両手を組み、伏せ目がちに話し出す。

「私、旦那様に幸せにしてほしい方がいるんです。私、ではなく、私の好きな人なんですけど」

 そして口にしたのは男の名前。

 それを聞いて最初、誰のことか分からなかった。

 求婚してる最中に、何故、他の男の名前を耳にしなくてはいけないのか。

 戸惑う私のことなんてお構いなしに、彼女は続ける。

「彼は夢を叶えられるはずだった。それなのに、仲間を守る為に、彼は命を失うことになってしまった。私はそれが……どうしても、許せないんです!」

  私の方に身を乗り出し、悲痛な声で叫ぶ彼女。

 彼女は私を見てくれない。

「既に出版されている物語の結末を変えてくれとか、そんな大層なことは求めてません。仕事の合間に少しずつでいいんです。私の為に、その物語を書いてくれませんか?」

「なっ」

「お願いします、私に夢を叶えた……いいえ! 夢を叶える彼の姿を、幸せになった彼の姿を見せてくださいっ!」

 ──それを約束してくれるなら、 結婚してあげます。

「……っ」

 そこまで言われて、彼女が口にした男について思い至った。

 夢半ばで力尽きた少年。

 彼をあそこで死なせたことで、どれだけの読者の嘆きを目にしたことか。

 彼女も、そんな読者の一人だったのか。

「…………」

 いつぞやの、彼女に心惹かれるきっかけを思い出す。

 新作を書いてると話した時の、ほんのり悲しみを帯びた表情。

 その意味を、私はここで悟った。

「…………その、すまない」

 彼女の笑みが翳る。

「君の申し出は、私にとっては難しいんだ。私ではない、他の作家であれば、二つ返事でやってくれるだろうが」

 ──四季坂文吾は、終わらせた話の続きを書けない。

 それなりに知られていると思っていたが、彼女は知らなかったようだ。

 作品の映像化や文庫化された記念に続きをオファーされることが前はよくあり、そのたびに私も書こうとするのだが、それが既に完結された作品であれば、ぼんやりこういう感じにしたいと考えても、それを具体的に書いていくことができなかった。

 作品を終わらせた、ということに満足してしまい、それ以上書く欲が湧かないんだろう、なんて答えを出してくれたのは誰だったか。

 その話はそれとなく広まっていき、気付いた時には、私に完結作の続きを求める者はいなくなった。

 ──はずだったのだ。


「私、いくらでも待ちますから」


 彼女は私の手を取り、言った。

 柔らかく、冷たい手だった。

「難しい、ということは、無理、ではないのでしょう? 大丈夫ですよ、旦那様は平成の文豪なんですから、どうとでもなります」

「ちが」

 そんな大層な作家ではない。

 私の名前が文吾だから、おふざけでそう呼ばれているだけで。

 彼女は私に構わない。

「必ず書いてくれると約束してくれるなら、これからは妻として、旦那様の生活のサポートをさせていただきますから。どうか、お願いします」

「……」

「旦那様、書いてください」

 書いてください。

 書いてください。

 書いてください。

 ──どうか、約束してください。

 私に何度も懇願してくる彼女。

 彼女はそれでも、私のことを見ていない。

 私越しに、あの男のことを……。

「……雪夜、さん」

「はい、旦那様」

 ──それでも私は、彼女に心奪われたままだ。

 あの日見た笑みも、目の前で浮かべられる笑みも、全てが愛おしい。

 書くと約束すれば、彼女が傍にいてくれる。


「……時間がかなり掛かると思うが、それでも、君は待ってくれるか?」


 私の返事を、彼女は本当に嬉しそうに聞いてくれた。

「もちろんです! 絶対に書いてくださいね!」

「……善処するよ」


 悔しさに身を任せるには、私は歳を取り過ぎた。

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