船の到着(10)
見舞いに来ていた島民や乗組員が帰ると、東の小屋は途端に静かになった。
このまま最後の夜を小屋の中で過ごすのも寂しかったので、ムラコフは何となしに外へ出てみた。日はもうすっかり暮れているが、寒くはない。海から吹いてくる潮風が心地良く、見上げると大きな満月が頭上に浮かんでいた。
ムラコフは振り返って、夕闇に浮かぶ東の小屋をじっくりと眺めた。
最初に見た時はただの倉庫にしか見えなかったが、それでも静かな環境が気に入ったんだった。それももう、今となっては遠い昔のことのように感じられる。
「……」
浜辺に座って改めて空を見上げると、そこにはたくさんの星が浮かんでいた。
できれば誰かと一緒に見たい夜空だったが、しかしまあたとえ一人だったとしても、こうやってゆっくりと星を眺めるのは悪くない。
ムラコフはしばらくの間無心に空を見上げていたが、やがて後ろから近付いてくる人の気配に気が付いた。
「ごめんね、こんな時間に」
そこには、マヤがいた。
「本当は明日にしようかとも思ったんだけど、でもそれだとバタバタしちゃってゆっくり話せないかもしれないから、それで――」
マヤは自分がここへやって来たことを弁解するような口振りだったが、ムラコフが特に非難も拒否もしない様子なのを見て取ると、少し安心したようだった。
「ここ、座ってもいい?」
「ああ」
マヤは黙って、ムラコフの横に腰を下ろした。
それから二人の間に沈黙が流れたが、やがてマヤが小さなくしゃみをした。
「寒いか?」
「……ん、ちょっと」
ムラコフは自分が着ているコートを脱いで、無言でそれをマヤに渡した。
マヤは何も言わずにそれを受け取って、服の上からムラコフのコートを羽織った。
「……」
「……」
ここへやって来たということは、マヤには何か話したいことがあるはずだ。
同じくムラコフにも話したいことはたくさんあったが、しかし何をどのように切り出していいかわからず、お互いに言い出しかねていた。
「ごめんな」
先に口を開いたのは、ムラコフの方だった。
「本当はもっと早く会いに行こうと思ったんだけど、お前に合わせる顔がなくてさ」
「どうして?」
「だって、こうなったのは俺の責任だろ」
ムラコフは、マヤの脚に目をやった。
白い肌にいくつもできた、火傷の傷跡が痛々しい。
「あの誓約書さえなければ、一階にいたあの時点で逃げられたはずなのに」
「……そうだね」
マヤは砂浜に視線を落としながら、ムラコフの言葉に同意した。
「確かに私があんな無茶な行動をしたのは、ムラコフ君のせいだって言える。でも、あなたが考えている理由とは、実際はちょっと違うんだ」
「違う?」
「そう。私ね、最初に助けが来た時、反射的にお父様かなって思ったの。だって屋敷のことはお父様が一番詳しいし、私を一番に助けてくれるのはいつもお父様だったし、そう考えるのが当然でしょう? もしそうだったら、きっと一階にいたあの時点で逃げていたと思う。でも実際に助けに来てくれた人を見て、それがムラコフ君だったから嬉しかった。だから何が何でも絶対に誓約書を渡さなくちゃ――って思ったの。あのたった五秒足らずでそこまで考えて行動しちゃったんだから、私って結構すごいよね。……なんて、自惚れてる場合じゃないか」
そう言うと、マヤはペロッと舌を出して笑った。
「私だって、本当はもっと早くここへ来たかった。でもあなたが怒っているんじゃないかと思って、なかなか来られなかったの。だって結局、私のせいで大事な誓約書がなくなっちゃったわけだし」
「なんだ、それじゃ俺達――」
「お互いに遠慮してたみたいだね」
それから二人は、顔を見合わせて笑った。
それと同時に、ムラコフは気付いた。誓約書を渡した時にはあれほど遠く感じられたのに、今はまた、マヤの存在がこんなに近い。
「不思議だな」
「何が?」
「もうこんな風に、二人で一緒に笑うことなんてないと思ってた」
ふっと安心して見上げた先には、先程以上に満天の星々が、夜空を明るく彩っていた。
空の黒い部分よりも、星が輝いている部分の方が多いのではないか――。
そんな風に思えるくらい、夜空はびっしりと色とりどりの星達で埋め尽くされている。
「ねえ、弓座って知ってる?」
「弓座?」
「うん、あれ。明るい星が四つ見えるでしょ? ほら、あそこの白い星よ」
マヤは右手を上げて、頭上の南の空を指差した。
「どれだ?」
「あれよ、ほら。菱形みたいになっているでしょ?」
マヤはムラコフの袖を引っ張った。
曇りがちなムラコフの故郷では、星が少なすぎるために星座を見つけるのが難しいが、逆にこの島では、星が多すぎて星座を見つけるのが難しい。
「あ!」
「わかった?」
「サザンクロス……!」
「サザンクロス? ふーん、私達は弓座って呼んでいるけど。外の世界では、星座の呼び方も違うんだ」
マヤは不思議そうな顔をした。
「それでね、四つの星を縦と横に結んで長い方の距離――あれを五倍にした辺りが、だいたい天の南極なの。だからちょうど、あの辺かな」
マヤが指差したサザンクロスは、南の空でキラキラと十字型に輝いていた。
「すごいな、初めて見た」
「初めて?」
「ああ。俺達の国じゃ、緯度が高すぎて見えないんだ」
「へえ。外の世界では、星座の名前だけじゃなくて、見える星まで違うんだ。本当に不思議だね」
そう言うと、マヤは南の空からムラコフの顔へと視線を移した。
「でもこんな風に空いっぱいの星を見上げて、きれいだなって感じる気持ちは一緒でしょ?」
「そうだな」
「それから、一人の夜に人肌が恋しくなる感覚も――」
「ああ」
そこでふいに、会話が途切れる。
こうして周囲が静かになると、ザザーンという穏やかな波のさざめきが、先程よりも一段とよく聞こえた。
「……これ」
沈黙を破って、マヤが口を開いた。
「下手だけど、よかったらどうぞ」
マヤは遠慮がちに、木彫りの小さな飾り物をムラコフに差し出した。
腕輪である。
「俺に?」
驚きながらムラコフが尋ねると、マヤは照れたような顔をして、それから無言で頷いた。
「……そっか、ありがと」
ムラコフが腕輪を受け取ると、マヤは心の底から安心したようだった。
「別にそのね、結婚がどうのこうのとか、そういう意味合いはないの。だって私、まだ十六歳だし。でもね、あなたのことを考えたら、私どうしても腕輪を作りたくなったんだ。で、作って完成してみたら、やっぱり渡したくなって――」
「……」
ムラコフは今受け取ったばかりの、マヤがくれた腕輪に視線を落とした。
中央の平らになった部分には、十字架の形が彫刻されている。
「よくわからないけど、それって重要な図案なんだよね? その首飾りもだし、あなたがいつも読んでいた本の表紙にも、その図案が描いてあったもんね」
マヤは右手の人差し指で、ムラコフの胸元のロザリオを指差した。
「私ね。あなたが最初にこの島に来た時は、あなたを通して外の世界のことが知りたかったんだ。でもいつしかそうじゃなく、ムラコフ君自身のことが知りたいって思うようになってた。そうじゃなかったら、こうやって腕輪なんか作らないよ」
「――……」
マヤにどんな言葉をかけていいかわからず、ムラコフは無言で砂浜に視線を落とした。
でも、言わなきゃいけない。
これだけ温かい感情を与えてもらっておきながら、ムラコフはまだマヤに何も言っていないのだから。
「一緒に来るか?」
「え?」
マヤがキョトンとしているので、ムラコフは言葉を付け加えた。
「ほら、前に船が着いたら乗りたい――って言ってただろ?」
「ああ、あれ」
マヤはそこでようやく、山頂で自分が言った台詞を思い出したらしい。
「許可は出たの?」
「まだ聞いてないけど、たとえ仮に駄目だって言われたって、俺がかくまってやるさ」
マヤは心の底から嬉しそうな顔をした後、笑顔で首を横に振った。
「たぶん、以前の私だったら喜んで頷いたと思う。でも今は、行けないよ」
「どうして?」
ムラコフは驚いて尋ねた。
マヤは当然、喜んでついてくるものと思ったからだ。まさか彼女に断られるとは、夢にも考えていなかった。
「だって、あなたが私に教えてくれたもん。ちっぽけなこの島が、どんなに素敵な楽園かってことをね。だから、行けない。あなたが愛してくれた、この島を守りたいから」
「そっか」
ムラコフはため息をついた。
「それじゃ、明日からは別々の道だな」
「そうだね。だから今は、こうしていていいかな」
マヤはそっとムラコフの肩にもたれた。
人肌の柔らかさと体温が心地良く、ムラコフは寄りかかってきたマヤの肩に腕を回した。
「この島では、男が腕輪を受け取ったら結婚が成立するんだろ?」
「うん、そうだよ。ムラコフ君の国では?」
「新郎新婦がお互いに指輪を交換して、それから誓いの口付けを交わす」
「えー、口付け? 人前でキスなんて、恥ずかしくてできないよぅ」
「ってことは、今は人前じゃないからできるよな?」
「ふぇ?」
マヤの返事を待たないで、ムラコフはマヤの唇に自分の唇を重ねた。
それから二人は寄り添って、南の夜空でキラキラと十字型に輝くサザンクロスを、いつまでもずっと見上げていた。
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