南の島(15)
「へえ、今日は薄着なのね」
「ああ」
マヤが指摘した通り、今日のムラコフは薄着だった。
まず、コートを着ていない。その下のタートルネックの黒い僧衣もやめて、上半身は半袖の薄手の白いシャツだけ。それから、革のロングブーツもやめた。
「突然どうしたの?」
「それはやっぱり、暑いからな」
「ふふっ。我慢なんかせずに、早くそうすればいいのよ」
何故ムラコフがこのような決断に踏み切ったかというと、背中と首の後ろにあせもができたからだ。やはり平均気温三十度を越すこの熱帯気候の中で、北国仕様のあの装いを続けるのは無理があった――ということだ。
「やれやれ。これじゃ、ビンディのことをバカにできないな」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
ビンディの怒り顔を思い出したムラコフは、軽いため息をついた。
「それにしても、お前は最初からずっと薄着だよな。薄着っていうか、それってちゃんとした服じゃないよな。何しろ、布を巻いてるだけの状態だし」
「うん、そうだね」
「走ったり動いたりした拍子に、ズレたりとか、ほどけたりとかしないのか?」
「……たまにはそんなこともあるけど、どうしてそんなこと聞くの?」
「それはもちろん、そういう状況を想像して楽しむためだ」
特に憚ることもなく、ムラコフは堂々と言い切った。
「前から薄々思ってたけど、ムラコフ君って外見がクールに見える割には、かなりオープンな性格だよね……」
「どうした? ムッツリの方が好きか?」
「ううん。そのままでいいと思うよ」
マヤはそう言うと、ムラコフの袖を引っ張った。
「それはそうと、せっかく薄着になったんだから、今日は海で泳いじゃわない?」
「泳ぐ?」
「うん、一緒に泳ごうよ!」
「うーん……」
ムラコフは躊躇した。
もちろん彼も海は好きだが、どちらかというと、浜辺で読書をしている方が好きだった。
「ああ、泳いでこい。俺はここで見とくから」
「そんなの駄目だよ。一人で泳いだって楽しくないでしょ? 二人で一緒に泳ごうよぅ」
「でもほら、水着も持ってないし」
「そんな物いらないよ。せっかく薄着になったんだから、このままでいいじゃない」
マヤはムラコフの袖をもう一度引っ張った。
どうやら、どうしてもムラコフと一緒に泳ぎたいらしい。
「ほらほら。こんなに暑いんだから、足だけでも水に浸せば、きっと気持ちいいはずだよ」
「……わかった。でも本当に、足だけだぞ。服が濡れたら面倒だからな」
「やった! それじゃ、早く行こう!」
ムラコフの返事を聞くや否や、マヤは嬉しそうに波打ち際へと走って行った。
「やれやれ……」
裸足になって、ズボンを膝の上までまくり上げる。
それからようやく、ムラコフはマヤの後に続いた。
砂がサラサラなので、裸足で歩いても全然痛くはない。急な高波でズボンの裾が濡れないように、ムラコフはとりあえず足の甲が浸かるくらいの場所まで行ってみた。
「へえ」
ザザーンという心地良いさざ波に乗って、水が足元までやってくる。
当たるとひんやりしていて、確かにかなり快適だった。
「ね、気持ちいいでしょ?」
「ああ。それに、水がきれいだな」
水は完全な透明だった。
こうして見ると、まるで真水のようにしか見えない。本当に海水なのか、どの程度ベタついているのか気になって、ムラコフはその場にしゃがんで水をすくってみた。
「ふーん」
水はベタベタもヌルヌルもしておらず、見た目同様、真水のようにサラサラだった。潮の香りも鼻につくほど強くはなく、かすかに漂ってくる程度である。
ムラコフが感心していると、突然背後からバシャッと水をかけられた。
「!」
振り向くと、マヤが後ろで笑っている。
「やったな……」
「ふふふ、油断するから悪いのよ」
せっかく波に気を付けていたのに、今のでシャツもズボンも濡れてしまった。
「この! お返しだ」
ムラコフはマヤにも同じように水をかけようとしたが、マヤは笑いながら逃げて行った。
「そうはいかないわよ!」
「くっ……」
それから二人は追ったり追われたりしながら水のかけ合いをしたので、二人とも最後には、泳いだのと同じくらいびしょ濡れになってしまった。
「ハァ……足だけって言ったのに」
「いいじゃない。こんなに楽しいんだから」
「まあ、それもそうだな」
それから、ムラコフは控えめに尋ねた。
「それにしても、気にならないのか?」
「何が?」
「何がって、その服だ」
ムラコフは、マヤの身体を上から下までじっくりと見回した。
水遊びで全身濡れてしまったので、身体のラインがはっきりとわかるほど、服がぴったりと素肌に張り付いている。
ムラコフの視線に気が付くと、マヤは急に赤くなった。
「その胸に巻いてる布さ。もう完全に無意味だから、外したらいいんじゃないか? なんなら腰布の方も」
「バッ、バカ! 無意味なわけないでしょ!」
「うーん。まあ、そうだな。直接見るより透けて見える方が奥ゆかしいって点では、確かに無意味じゃないかもな」
「それって、『奥ゆかしい』の使い方がおかしいから!」
マヤは両手で身体を隠すと、さっさと海から上がっていってしまった。
「……家に帰って、着替えてくる」
「そうか? しかし、屋敷まで遠いだろ?」
「それじゃあ、何よ? 乾くまでずっと、このままの姿でいろって言うの?」
「まさか。俺はその方が嬉しいけど、お前はそんなのイヤだろ。俺のコート貸してやるよ」
ムラコフは東の小屋までコートを取りに行って、それをマヤの身体に掛けてやった。
「ほら」
「……」
マヤはしばらくの間ムラコフのコートを黙って握り締めていたが、やがて嬉しそうにそれを羽織った。
「えへへ、ムラコフ君の服だぁ」
「嬉しそうだな?」
「うん! このコート格好いいなって、前からずっと思ってたんだ!」
「……」
マヤの笑顔を見たムラコフは、照れながら頭をかいた。
たとえコートの話だったとしても、マヤに「格好いい」と言われるのは、悪い気分ではなかった。
「よ――っと」
それから二人は、浜辺に寝そべって休憩することにした。
仰向けの状態で寝転ぶと、熱帯特有の強烈な太陽が目に飛び込んできたので、ムラコフは太陽がちょうどヤシの木の葉で隠れるように、寝そべる位置を調整した。そのまま見上げると、ヤシの葉のシルエットの向こうから、眩しい光が照りつけてくる。
「風が気持ちいいね」
「ああ、そうだな」
二人はそのまま、静かに午後の一時を過ごした。
こうして何もせずに波の音を聞いたり、吹き抜けていく風を感じたり、カモメが飛んでいくのを眺めたり――。
特に読書や考え事なんかしなくても、ただそうしているだけで、いくらでも時間が流れていく。本当に贅沢な時間の使い方というのは、もしかしたらこういうものなのかもしれない。
「何もない島だけど、こんな風に過ごしていると時間を忘れるな」
太陽も西に傾き始めた頃、ムラコフが起き上がって言った。
「――……」
マヤは答えようとしたが、しかしとっさに適当な言葉が出てこなかったらしく、そのまま何も言わずに黙り込んでしまった。
「?」
ムラコフは一瞬何が起きたのかわからず首を傾げてしまったが、たった今の自分の発言を思い返したら、マヤが黙ってしまった理由が想像できた。
何もない島――。
マヤが一番気にしていることだ。
それは彼女自身も自分でよく口にしている言葉だが、しかし島の人間が言うのと外部の人間が言うのとでは、また意味合いが違ってくる。
「この島は、あなたにとって退屈?」
視線を上げないまま、マヤが尋ねた。
先程のムラコフの発言は、今この瞬間の楽しさを強調したくて出た言葉だ。決して島に何もないことを主張したかったわけではない。
それくらいは語気とその場の雰囲気でマヤにもわかっただろうが、しかし普段から気にしていることだけに、黙って聞き捨てることができなかったのだろう。
「いや、何もない島だけど、外の世界にない物だってたくさんあるだろ?」
ほとんど無意識のうちに、ムラコフはマヤをフォローしていた。
そうせずにはいられなかった。
「例えば?」
マヤはこちらを見たものの、やはり悲しそうな表情は変わらない。
「例えば――」
ムラコフは考えた。
外の世界にはなく、この島にだけある物。
「青い空と白い雲、それから透明な海と、サラサラの砂浜」
彼は、今目の前にある光景を描写した。
「ヤシの木、海風、波のさざめき」
マヤは黙って、ムラコフの言葉を聞いている。
「それから今飛んでいったカモメも、かすかに漂ってくる潮の香りも、水平線に沈む夕日も。ほらな、いくらでもあるじゃないか」
「でもそんな物は、あるのが当たり前じゃない」
「当り前なんかじゃないさ。俺の故郷は、それはもう寒い国だったからな。海は一応あったけど、一年の半分以上は凍っているから、こんな解放的な気分なんかになれやしない。だからこそ、今ここに存在するすべての物が、俺にとっては大切で愛しいけどな」
「今ここに存在するすべての物って、その中には私も含まれてるの?」
「ああ、もちろん」
特にためらうこともなく、ムラコフは笑顔で頷いた。
「マヤだけじゃなくて、島の人間全員のことが大切だな。みんなおおらかで屈託がなくて、自分を隠さずに体当たりしてくるだろ? そんな当たり前のことが、外の世界では意外とできなかったりするもんさ」
自分で言いながら、思わず力が入った。
ただ単純にマヤを励ますためではなく、心の底から本当にそう思って出てきた言葉だった。
「この島に来た時、正直最初はイヤだったんだ。どうして俺がこんな場所に――って思った。でもこの島の人間は、そんな俺にも親切にしてくれただろ? モモナに招待してくれたり、俺のことを仲間として受け入れてくれて、隔たりなく扱ってくれた。それが今まで経験したことがないくらい居心地が良かったから、だから――」
それ以上は、うまく言葉にならなかった。
この島の人達には、多くの感情を与えてもらった。彼ら自身には与えたつもりなどないのだろうが、彼らの起こすほんの何気ない一つ一つの行動で、結果として多くの感情がムラコフの心の中に芽生えているのだ。
それと同時にムラコフは、今までずっと自分のことばかりを優先して、周囲の人々を受け入れることも、何かを与えることも、まったくしてこなかった自分に気が付いた。本当は神父を志す者として、彼自身が与える立場でなければならないのに――。
「そうね」
ムラコフの横顔を見ながら、マヤがそっと頷いた。
「そうよね、ありがとう」
言いたいことの半分も伝えられていないような気がするが、うまく言葉にできなかった部分は、彼女なりに汲み取ってくれたようだ。
「確かに、私ずっと忘れていたかも。本当は酋長の娘である私こそが、誰よりも深くこの島を愛さなきゃいけない立場なのに、島の外からやって来たあなたに、逆にそのことを教えられるなんてね」
水平線を淡いオレンジ色に染めながら、太陽がゆっくりと沈んでいく。
その太陽をまっすぐに見つめながら、マヤはムラコフが先程言った言葉を、もう一度自分の声で繰り返した。
「そうよね、愛さなきゃ。今ここに存在するすべての物を、大切で愛しいって思わなくちゃね――」
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