生存者 五


    五


 彼には記憶があった。強く集中すれば皮膚の感触さえ思い出せそうなほど、生々しい記憶が。

 それは断片的なものではあったが、奇妙な真実味のある一幕だった。手中の銃が火を噴く。強烈な閃光が視界を遮ったかと思うと、束の間に手首から肘へ、肘から肩へと衝撃が走る。それらは一見まったくの同時、寸分たがわぬ瞬間の出来事とも感じられた。しかし厳密には、その衝撃は認識もされないほどの短い間隔を保ったまま、順々に骨を伝わるのだ。

 その事実について実感を持ったことは、ジャッカルのそれまでの経験上では一度もなかった。されど鉛弾を命中させるのに困ったことはない。ならば、これはそれほど厳密に考えるべき事柄ではないのだろう。これも重要な記憶信号ではない。

 そういう彼の思考と混ざり合うようにして、記憶の断片は意識の外へと追いやられていった。


 いま彼の両目が捉えているのは、ただ一つの現実のみである。簡潔に言えば、射撃管制用の感覚センサー類に問題が生じている、ということだ。どれだけ正確に的を狙おうとも、どういうわけかその中心を捉えることができない。これは控えめに言っても由々しき事態だ。

 このときジャッカルは、ゴートの屋敷の地下に存在する、細長く区切られた一室の中にいた。特別に設えられた個人用の射撃練習場である。それは元々この館の主たるゴートが、気晴らしのために用意したものだった。少し前にジャッカル専用の訓練場として使用が再開されるまで、長いあいだ無用の長物となっていた空間だ。

 実のところ、わざわざ費用をかけて防音設備まで完備しておきながら、ゴートはかれこれ十年近くもこの一室を無視し続けていた。というのも、紙の的を相手に時間を無駄にするより本の一冊でも読んだほうがずっと有意義だ、とゴート自身が考えるようになったからだ。

 そのゴート本人に見守れらながら、ジャッカルは何度も引き金を引いた。天井部のレールから吊り下げられた紙製の的に向かって、次々に九ミリ弾を撃ち込んでいく。目標との距離は三十フィートに設定してあった。

 射出された銃弾のうち、いくつかは良い結果をもたらした。少なくとも二割は申し分ない位置に命中している。確実に敵の命を奪える個所に、だ。

 しかし残る八割方はというと、こちらのほうは予測された弾道と実際の着弾点とのあいだに、看過できないレベルの相違が認められた。事前予測と着弾地点との物理的な距離感については、さほど大きな誤りがあったわけではない。標的を捉え損ねた弾丸は一つもなく、もし相手が人間だったとすれば、一人残らず大なり小なりの負傷を与えたであろうことは間違いない。常人の射撃訓練としてみれば破格の出来だ。しかし、ジャッカルが持つポテンシャルを鑑みれば、誤差の平均はコンマ二インチ程度の範囲まで抑えられていなければならない。テストは続行だ。このていどの精度では到底、満足などできようはずがない。

 銃把に収まった弾倉を手早く空にし、空いたマガジンを排出する。続けざま、次の一本に手を伸ばそうとしたときジャッカルは肩を叩かれた。振り返り見ると、そこには射撃用のイヤーマフを外すゴートの姿があった。

「オーケイ、少し待ってくれ、設定を変える」

 ゴートは手元の端末を操作しモニター上の数字を書き換え始めた。端末にはケーブルが接続されており、その先端はジャッカルの首元へと続いている。そこは彼の制御系へと繋がる外部接続端子が隠された箇所だった。

 こまごまとした作業を進めつつ、ゴートは話を続けた。

「腕の改良はタイミングが悪かったかもしれんな」

 それはつい昨晩まで連日進められていた、改修作業を指しての言葉だった。

「さあ、どうだろうな。ただ、左側が余分に重たいのは間違いない」

「この様子だと余計な改悪を加えたことにもなりかねん」

「その『余計な改悪』が実戦でどう働くかはまだわからないだろう。俺は現時点で文句を言うつもりはないさ」

 身体のほとんどすべてを硬直させたまま、ジャッカルは口元だけを動かして答えた。神経系の調整をするあいだは身体的制御の大部分が失われてしまうからだ。彼自身、その格好が他人からどう見えるのかはわからなかったが、なんにせよ不気味であることは間違いないように思われた。ともすればマネキンがもごもごと喋り出したようにでも見えるのかもしれない。彼は頭の隅のほうで、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 そのジャッカルに対し、ゴートは言う。

「そうか……いや、待てよジャッカル、使う機会なんてないほうがいいかも知れんぞ。普通の銃ですべてが片付くなら、それに越したことはない。違うか?」

「さあ? まあ、そうかもしれんな」

 ジャッカルがそう返答をしたとき、不意な形で会話が途切れた。ゴートの目が一心にモニターへと注がれたからだ。

 ジャッカルの視線からでは、その画面に何が映し出されているのかは判別ができなかった。ただ、眼前に座す男の目が、普段とは様子の違う異様な輝きを放っていたことは確かだった。ゴートはそれほど作業に集中していたのだ。

 その彼の目がようやく四角い画面を離れたのは、それからまたしばらく経ってからのことだった。

「いいぞ、ジャッカル。続きだ」

「わかった」

 小型拳銃に新しいマガジンを挿入する。銃身上部のスライドを操作すると、チャンバーに弾が装てんされた。これで発射準備は整った。

 引き金は立て続けに三度ひかれた。そこで一度、一呼吸分の間を取ってから、また三度。ふたたび間を置いて、さらに三発。そして最後のワンセットは倍の六発を基準にしていた。これで弾倉一個分、合計十五発である。

 ジャッカルはスライドの後退した銃を台に置いた。その流れのまま、台上の操作盤に手を触れる。するとモーターの鈍い音を引き連れながら、的を吊り下げた枠が射手の位置まで近付いてきた。その枠は天井のレールに沿う形で動いていた。

 ジャッカルの手が穴の開いた的を取り上げる。しかし彼はその標的をちらと見ただけで、すぐにそれを背後の人間に手渡してしまった。あらためてじっくりと観察する必要はない。そう思うくらいには手応えを感じていたのだ。

 ジャッカルはその感覚を、素直な言葉で言い表した。

「良いな」

「そうだな、合格点だ」

 あとは、この精度を安定させられるかどうかだ。 

 何十枚もの紙の標的。何百というマガジン交換。何千に及ぶマズルフラッシュ。何万回ものシミュレート。何度も、何度でも。狙う、撃つ、繰り返す。無限の循環。統計を作り出すほどの執念。ジャッカルの照準は、そういうもののうえに成り立っていた。


    六


 数週間前の射撃練習に際してはたいして必要だとも思わなかったイヤーマフを、ジャッカルはいまになって欲することになった。巨大な音とリズムの奔流が、彼の全身をくまなく苛んでいたからだ。

 月光が街の支配者となり、短針が文字盤の真上を指した。ナイトクラブはここからが本番だ。

 青黒い大気が漂うフロアに稲妻のようなフラッシュが瞬く。そうするたび、何十もの人々の顔が、手が、身体が、真っ白な影となって浮かび上る。それぞれが同種の熱を帯びた人間たちの隙間を、さらに強烈な音の波が埋め尽くす。一人ひとりの肌に纏わり付き、まるで取り込まんとでもするかのように、音楽が振動を伝播する。息苦しいほどの興奮が血流を乱し、脈拍を際限なく煽り立てる。

 その空間は溢れんばかりの人間で満たされていた。一様に満面の喜色を浮かべた男女の群れ。そこに見える誰もが、あともう一歩で気を失うかという、それこそぎりぎりの境界線まで、ただひたすらに昇り詰めんと欲しているかのようだった。頭蓋骨じゅうをくまなく駆け巡る、アドレナリンの匂いに誘われるがまま。そうした一団の姿というのはまるで、目に見えぬ心理を介して組み合わされた一塊の回路網のようでもあった。

 その熱気漂う饗宴のさなかにあっては、ジャッカルはまさしく異物にほかならなかった。笑み一つ見せず、涙を必要ともしておらず、決して埋まらぬ欠落間感を抱えてもいない。彼はただ、確固たる目的のためだけにそこにいた。自身の生まれた目的を果たすために、だ。

 渦巻く白煙を切り裂きながら、ジャッカルは無心に歩みを進めた。リズミカルに揺れるダンスフロアにも、甘い言葉をささやくバーカウンターにも背を向け、盲目的に奥へ奥へと通路をなぞった。

 そうしてフロアの中ほどを通り過ぎると、やがて前方に黒い壁面が現れた。その壁の下部には扉が見える。黒一色の無骨なドアの表面には、はっきりと見える白い文字で「従業員専用」と記されていた。扉の横には、クラブの四周年記念パーティーを宣伝する派手派手しい色合いのポスターが掲示してあった。明るいオレンジをベースに、ネオンパープルの文字とダークグリーンの影があしらわれたものだ。開催は二週間後に迫っていた。

 ジャッカルは天井を見やった。すると、音楽が迫力をもって響くよう意図的に高く取られた天井のその角の部分に、小さく半球状に張り出した物体が確認できた。監視カメラだ。やはり、スタッフルームへの通用口は厳重に監視されている。

 が、どうやらこの店のオーナーは、機械だけでは不安が残ると判断したらしい。くだんの扉のすぐ真横には、常駐の警備員の姿があった。多機能ベストに身を包んだ格好で、厳めしく背筋を伸ばした男である。そのベストが防弾仕様かどうかというのは、ジャッカルには判断がつけられなかった。ただ、腰のガンホルダーに収まっている黒い物体は、察するにテーザー銃であるらしかった。

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