「ジャッカル」と「ゴート」 四


    四


 問題は、やはり足だ。手っ取り早く移動するなら電車かバスかといったところになるだろうが、密室に身を置くというのは幾分リスクが高すぎる。もしも同じ空間に追手がいたならば、完全に逃げ場を失ってしまうのだ。

 かといって、車やバイクを少々拝借したところで、それでどこに行けるとも思えない。警察の検問を通過するのに、よもや盗難車を使うわけにはいくまい。結局のところそれらは、サウスランドシティの内部を移動する手段にしかなり得ない。

 ならばいっそ、趣向を変えて海路を行くかとも考えはするものの、残念ながら、ボートであれヨットであれジョッシュはその操舵手順を知らない。ただ、ろくな知識もないままに手漕ぎの船で沖に出た者がどういう結末を迎えるのかぐらいは、彼にもあるていど想像がつけられた。

 向かうべき場所は見当が付かない。が、それでもなお彼はとにかく足を動かし続けた。ひと所に留まるのは危険だと考えていたからだ。木を隠すなら森のなか。つまり、人を隠すなら人ごみのなかだ。ジョッシュはこのとき、それを実践しようとしていたのである。

 本格的な夜の到来を前に、繁華街は一層に騒がしさを増していた。男女の比率はまちまちとして、下はティーンエイジャー、上は初老くらいまでだろうか、雑多な人々からなる群衆が大通りの歩道を埋め尽くす。同様に、四車線の広い車道の上では、決まりきった顔の商用車とすかしたふうなラグジュアリーカーとが、空いたスペースを奪い合うようにして押し合いへし合いを続けていた。月曜の夜にしては誰も彼も元気なものだ、とジョッシュはやや達観したような感想を抱かされた。

(このなかにも、俺を探している奴らはいるんだろうか)

 彼は純粋な疑問として、そう考えた。もはや恐怖はない。おそらく、感覚が麻痺し始めているのだろう。そういう状態であるからか、それまでは頭の隅のほうに押しやっていた種々の感覚が、一挙して彼の意識に押し寄せてきた。疲労感。虚脱感。後悔。不快感。なかでも一番強烈なのは、胃が不調を訴えるほどの空腹感だった。思えば、朝からほとんど何も口にしていないのだ。

 前方の繁華街に向けていた視線が、自然と一方に惹き付けられる。見ると、高く掲げられた看板の中央から、赤毛の少女がこちらに微笑みかけていた。お馴染みの、ファストフード店のロゴである。

(差し当たり腹ごしらえだ)

 彼個人としては好みの店ではなかったが、どうせ味がわかるような状態ではない。結局、たいして迷いもしないまま、彼は自動ドアを潜ることにした。

 それから少しのあいだ注文待ちの列に並び、やがてにこりともしない店員といくつかやり取りを交わしたあと、さらにもう一度待機ということになった。調理が終わるのを待つのだ。

 賑やかな店だった。右にも左にも大勢の客がいて、そこかしこから楽しげな会話が漏れ聞こえてくる。大半は若いカップルや学生らしきグループだが、平日にしては珍しく家族連れの姿も少なからずあった。

 チリビーンズやフレンチフライ、ハンバーガー等々といったものから発せられるかぐわしい香りが、鼻腔を通して胃袋を刺激する。ジョッシュの空腹はいよいよ本格的なものとなっていた。

「手間をかけさせるな、ハーヴェイ」

 その声を、ジョッシュは自身のすぐ背後から聞き取った。ほとんど距離のない位置だ。気持ちのうえで言うなら、ほんのすぐ耳元でというぐらいの感覚でもあった。続けざま、背中に何かが突き当てられる。銃だ、という直感があった。同時に、その直感が間違いではないという確信もだ。

 完全な空白と化したジョッシュの脳内に、男の声が反響する。

「よく聞け。抵抗してどうにかなることじゃない。お前が最後の一人なんだ」

「その声……あんた、さっき高架下に来た奴だな?」

 そうはっきりと断言できるほどに、特徴的な声だった。抑揚の薄い、極めて平板な声色だ。

「ああ。だが、それはどうでもいい」

「どうでもいい、ってことはないだろう。どうやって俺を……いや、ずっと尾行していたのか? あの廃ビルの近くから?」

「企業秘密だ。しかし、本気で人の目を欺きたいのなら、靴とカバンには気を使うべきだったな。目立つ色やロゴ入りは避けたほうが無難だ」

「そいつはどうも。ご忠告、痛み入るね」

 無理に軽口を叩きつつも、ジョッシュは働かない脳みそをどうにか動かそうと努めた。

 まるで湿地にでもいるかのような感覚だった。視界は濃い霧に妨げられ、重たい泥に手足の自由が奪われる。種類もわからぬ動植物に囲まれながら、未知の毒と、鋭利な爪とに、昼夜の別なくその命を脅かされて生き続ける。これでは野良犬と一緒ではないか。痩せっぽちで、群れからはぐれた一匹の野犬。生きる意味などただの一つも持たぬまま、ただ死にたくないという一心から方々を彷徨う愚かな獣。

(これで最後かもしれない)

 頭の隅でそう考えながら、ジョッシュはなお自らの恐怖に牙を剥いた。

 隠し持ったナイフの取っ手を強く握ると、彼は素早い動作で振り返った。発砲音は聞こえない。たとえ銃を突きつけられていたとしても、必ずしも引き金が引かれるとはかぎらない。まったくもって愚かしい期待だが、このときのジョッシュには、そんな一縷の望みにかける以外に道は残されていなかった。

 一瞬の混乱を制すこと。それがすべてだ。コンマ一秒でも早くこちらの武器を――このぎらつく切っ先を、相手の心臓にめり込ませる。勝機はその一点にしか存在しない。

 鋭い刃が空間を駆け抜ける。直線的に突き出された刀身に、天井ランプの光が跳ね返る。瞬間、軌跡が白い尾を引いた。

 しかしその鮮やかな閃光は、ついぞ誰かを捉えることはなかった。なぜなら、その閃きよりもはるかに素早い一撃が、刃物を構えたジョッシュの右手を弾いたからだ。それは彼の手首を横からなぎ払うような、的確で強烈な右フックだった。

 より正確を期すなら、それは左右のコンビネーションであった。つまり、けん制の右フックが通り過ぎたあとには、本命の一発が続くということである。

 ジョッシュのそれまでの人生のなかで、一度も耳にしたことのない種類の音が、彼の顔の皮膚上で鳴った。何をくらったのか瞬時には把握できなかったが、どうあれ立ち上がれないということだけは、どうやら確かであるらしかった。

 霞む両目の向こう側で、誰かがこちらを見下ろしている。天井を背負った大男。

(なんだよ、銃なんて持ってないじゃないか)

 最前から続く濃い霧は、一層にその濃度を増すばかりだった。


    五


 割り当てられた覆面パトカーの助手席は、普段と変わらぬ居心地の悪さを感じさせた。何よりまずシートが硬すぎるし、足元のスペースにも余裕がないせいで、そのうちに足腰が固まってしまうのではないかと余計な心配をさせられる。

 だがこのときのスタンリーは、そんなことを気にかける余裕すら持ち合わせてはいなかった。いまはただ何時間でもそこに腰を下ろし、相棒のぎこちない運転に身を任せつつ、事の進展を見守るのみだ。

 スタンリーは人知れず苛立っていた。一刻も早く一連の問題を片付けて、平穏な日々を取り戻したかった。彼もマルドネス親子のご機嫌取りは慣れたものであるが、これほどうんざりした気分にさせられたのは、はっきり言って初めての経験だった。朝も夜もないような生活を、もうかれこれ一週間はぶっ続けで送っているのである。

 ちらりと運転席に目をやると、そこには明らかにやつれた様子のカイルの顔が見えた。この男とももう四六時中、顔を突き合わせていることになる。誇張ではなく、文字どおり寝ても覚めてもだ。どうやらアレックスの「演出」で受けた負傷は癒えたらしいが、今度は精神的にまいってしまうのではなかろうかと、そういう気配がこのときのカイルにはあった。この一件が終われば当分、休暇を取るように勧めるべきか。

「運転、代わるか?」

 スタンリーとしては気を利かせたつもりだったのだが、カイルはほとんど間を置かず、彼の提案を断った。

「いえ、とんでもない。大丈夫ですよ」

「無理はするなよ」

「わかっています。ただ……むしろ自分としては、助手席に座っているほうが辛いかもしれません」

「ああたしかに、このシートはどうにかしてもらわなきゃな」

「いえ、そうではなくて……じつは、運転に集中していないと余計なことを考えてしまいそうな気がして」

「ああ…………そうか、それもそうだな」

 この若造は良い勘を持っている。実際のところスタンリーは、車窓からボーイズのメンバーを探しつつもその実、意識の半分は自身の記憶に向け続けていた。思い出したくもないようなことを、しかし幾度も反芻しなければならなかった。そうしたことの大半は、アレックスから下された命令に関することだった。

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