「ジャッカル」と「ゴート」 三


 車両用の通用口はシャッターが下ろされたままだった。それゆえ、ジョッシュはガラスの残っていない大型窓から屋内に侵入した。夕明かりもまだ薄く残っているものの、ただでさえ日当たりの悪い路地の、それも誰にも使われていない廃墟ともなるとさすがに光源が欲しいところだった。が、だからといってヘッドライトを光らせて走り回るというのでは、姿を隠すにはあまりに目立ちすぎる。ゆえに彼は、速度をぎりぎりまで落としつつ手探りのような状態で奥まで進んでいった。

 その後、やがて適当なスペースに行き当たると、ジョッシュはそこでバイクを停車させた。エンジンを止め、周囲の気配をあらためる。周囲は異様なまでに暗く、静かだった。

 緊張と熱気で汗ばんだ身体をひやりと冷たい風が撫でる。五月の下旬とは思えないような冷風だ。とはいえ、その冷やかさが空調によるものとは考えられない。察するに、心理的な要因から起こる寒気に襲われているのだ。

 やがて暗闇に目が慣れてくると、少しずつ屋内の様子がわかるようになってきた。どうやら、一階のワンフロアをほとんど丸々ぶち抜きにしてエントランスホールとして利用していたらしい。ジョッシュが通って来た方向と向かい合わせになる位置に、正面玄関らしき自動ドアが確認できた。自動ドアのガラスはどうにか割られずに残っているものの、経年による汚れがすっかり染み付いており、その透明度は極めて低い。白煙のごとくまだらに曇った平面には、街灯が投げかける光が生み出すのだろう、何らかの設置物を象った、黒くシャープな影が映りこんでいた。

 ジョッシュはとっさに古い受付カウンターに身を寄せた。腹ほどの高さの仕切りにピタリと背を付け、辺りを窺う。そこからは、正面玄関と路地との両方が見渡せた。

 ついさきほど通り抜けて来た窓の枠組みが、弱々しい逆光に浮かび上がる。こうして改めて眺めてみると、窓枠ががたがたに歪んでいるのがよくわかる。うら寂しい路地の風景が、その歪みに合わせて切り取られていたからだ。

 現在は夕暮れ時だ。街にはまだ人通りも多いだろうが、ジョッシュが身を寄せるこの建物の内部はもちろん、すぐ隣に見える不気味な路地にも、また少しは明るい表の通りにも、行き交う人々の影というものは認められなかった。元来、人の往来が少ない地域なのだろう。

 治安が良くないから人が避けるのか、それとも、人が寄り付かないから悪党どもが集まるのか。ともあれ、人目が少ないのは好都合だ。

 ひっそりと息を潜めたまま、ジョッシュはとにかく腰を下ろした。逃げるだけは逃げた。あとは状況がどういう具合に動くかだ。幸いにも、あのクーペが近付いてくる気配は感じられない。夕闇を引き裂くヘッドライトも、路面をこするタイヤの音も、いまこの場所には届いて来ない。

 とはいえ安心するのはまだ早い。あの追跡者とて、ジョッシュの逃げた方角ぐらいは見当を付けているはずだ。追手の規模というのは依然不明のままだが、ともすれば人員を多量に投入し、一帯をしらみつぶしに捜索し始めるかもしれない。このまま隠れ続けるというのにも限度がある。

 しかしだからといって、すぐに移動できる状況でないのもまた事実だった。いま下手に動き出せば、藪をつついて蛇を出すことにもなりかねない。せっかく追跡を振り切ったというのに、運悪く追手と鉢合わせるようなことにでもなれば、それこそ目も当てられない。

 進むか、それとも留まるか。そういう意味では二者択一だ。されどもし仮に進むのであれば、いったいどこに向かえばいいのだろうか。

(目立たないのに乗り換えろ、か……)

 ダンの言葉が脳裏に蘇る。

 もしもその指摘に従っていたなら、たとえば、同じ二輪車であっても飾り気のないスクーターにでも跨っていたならば、例のクーペの男に目を付けられることもなかったかもしれない。あるいは、移動手段それ自体が目立たないものであったとしたら、服装を変えるなりするだけでも、効果の高いかく乱を行えたはずだ。

 この件に限った話ではないが、ダンは正しかった。いつどんな場合でもだ。ジョッシュはいまさらながらにその事実を痛感させられた。

 言い知れぬ口惜しさが胸に込み上げる。しかしこの後悔は、ある種の閃きというものをジョッシュにもたらした。それはつまり、ダンであればどうするか、という思考だ。歩を進めるか、それとも留まるかという選択を迫られたとき、あの男ならどうやって決断を下すか。ジョッシュは自身の記憶を頼りに想像を巡らせた。するとほどなく、彼は一つの結論に達した。

 一言で言い表すなら「優先順位」だ。その身に迫る危機を乗り越えるためには、ときに犠牲や代償といったものが必要になる。であれば、重要なのはそのとき何を切り、何を残すかだ。

 無論、父親の形見を諦めるのは簡単なことではない。ジョッシュにとって、それはただの乗り物でなかった。父がこの世に生きた証。幼いころからともに過ごしてきた兄弟。危険な仕事の最中であれ、不安で眠れぬ夜であれ、いつでもそばにいてくれた頼もしい相棒。彼にとってこのバイクは、自分の命にも代え難い無二の親友なのだ。

――だが、俺はここで死ねるか?

 考えてみればレイモンドも、自身が危機に瀕しているところを、それでも迫る脅威を知らせてくれたのではないか。もし先方からの連絡がなければ、ジョッシュはいまも漫然と、自宅に隠れ続けていたに違いない。いまここにあるこの命は、レイによって救われたといっても過言ではないのである。

 ならば答えは明白だ。いまは何より、この局面を生き残ること。それが最も重要なことだ。これから先をどう生きるか、また、どうやって仲間の恩に報いるかというのは、それこそあとで考えるべきことだろう。先のことはどうあれ、現状この瞬間だけは生存こそが至上命題だ。

 彼は、刺しっぱなしにしていたバイクのキーを引き抜いた。何気ない動作ではあったが、そこには並々ならぬ決意の念が込められていた。

 生まれてすぐに母親を失くし、十六歳のときには交通事故で父親も失った。親類もなく、天涯孤独となったジョッシュにとって唯一、残された家族の面影がこのバイクだった。角ばったガソリンタンクに額を寄せる。そうすると、自然と目頭が熱くなった。だが感傷に浸る時間はない。こみ上げる寂寞を胸の奥に押し込むと、ジョッシュは視線を高く上げた。

 着ていたパーカーを脱ぎ、バックパックに仕舞い込む。上半身はシャツ一枚で充分だ。そのバックパックの肩紐を付け替えると、それは大型のメッセンジャーバックへと姿を変えた。ヘルメットはもう必要ない。その代わりに、あらかじめ用意しておいた、スポーツチームのロゴが入ったニット帽を頭に被る。変装の足しになるかはわからないが、何もしないよりはマシだろう。

 着々と出発の準備を整えるそのあいだにも、彼は神経を尖らせ続けていた。より正確には、落ち着くことができなかったのだ。いまにも歪んだ窓枠に光が差し向けられるのではないか。さもなくば、正面玄関の曇りガラスにギャングたちの蠢く影が現れるのでは。そういった恐ろしげな想像が次から次へと浮かんでは、彼の精神を蝕むのだ。

 一刻も早くここを離れるべきだ。徒歩ではそう速くは逃げられない。彼は背後を振り返らないよう意識しながら、一息に廃ビルを飛び出した。

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