探偵 十

 ダンフォールの構えが下がった。胴体がくの字に折れ、顎が沈む。その額は大粒の汗で濡れていた。ダメージが通った、という証である。

 ザックはこの戦いのなかで初めて、最大限に腕を引いた。

(ここで決める、この一発で……!)

 中途半端な攻撃では逆効果だ。次の一打で確実に仕留めなければならない。そうするためには、満身の力を込める必要があった。

 右ストレートだ。単純な手だが、破壊力という点では申し分ない。ザックは、体重を乗せた右の拳を相手の眉間に目掛け一気に叩きつけた。肉と肉、骨と骨とがかち合い、異音を生む。手の甲が破裂しかねないほどの反動が、周囲の空気をも振るわせる。

 当分、右手は使い物にならないだろう。見ると、深く裂けた表皮の内側から、黒い体液が次から次へと噴き出している。全力で打ち込んだ代償だ。

 それは意義ある負傷だった。なんといっても、彼がその右手に負ったのと同等か、あるいはそれ以上のダメージを、ダンフォールは頭蓋骨に受けたのだ。最悪の場合には即死という事態さえあり得る損傷だ。常人であれば、軽く見積もっても昏倒は免れない。

 確かな手応えがあった。意識を奪った、という手応えが。ザックは、彼にしては珍しくはっきりと己が勝利を確信していた。それほどに芯を捉えた一撃だった。彼もまた、数えきれないほどの修羅場を潜り抜けてきた人間だ。この種の切迫した局面において、判断を誤るようなことはしない。

 肺に溜まった緊張が、濁流となって口をつく。長いながい呼気が吐き出される。文字どおり、ザックは安堵の息を零していた。

 しかし、そうした長い一息が途切れるころになっても、ダンフォールはまだ地に伏してはいなかった。巨体は何の前触れもなく動いた。膝が落ち、半分くず折れたような姿勢から、不気味なほどの瞬発力をもってダンフォールが敵に襲い掛かる。

 頭を低く保ちながら両手を前に出し、地面を強く蹴る。そうしながら、ダンはザックの腰の辺りに狙いを定め、思い切りよく肩口から突進した。まごうことなきタックルだ。しかし実際の様相という意味から言うのなら、それは体当たりのたぐいというよりかはむしろ衝突に近いような有様だった。

 その荒々しさに満ちた一瞬が過ぎ去ると、すぐに重力が両者を支配した。ザックらの身体が揃って床に転がる。 

 虚を突かれたぶん、ザックは反応を遅らせてしまった。すでに戦いは終わったと考えていたのだから、実質には奇襲を受けたのと同義である。彼は油断をしたわけでも、また相手を見くびっていたわけでもない。ただ、基準というものを見誤った。彼が対峙する運び屋のリーダー、このダンフォールという男は、重症を負ったていどで勝負を諦める人間ではなかったのだ。

 当然、ダンフォールとて万全ではあるまい。おそらくは足もいうことをきかず、平衡感覚などは混迷を極めているに違いない。そのうつろな瞳を見るに、明確な意識があるのかどうかさえ曖昧な調子だ。この男はいま、本能だけで動いている。が、驚くべきことにそれほどの状態にあってなお、彼の瞬発力はさほど損なわれてはいないようだった。

 ザックが身体を起こそうとしたときには、すでに敵に背後を取られていた。顔を上げた瞬間、空いた首元にダンフォールの腕が伸びる。筋肉の塊ともいうべき太い右腕が、背中側からザックの喉を締め上げた。

 右肘の関節を相手の首筋に沿わせ、逆側の腕を利用して固定する。そうした大勢から、腕力と胴体の力とを併せて一気に対象の頸部を圧迫する。綺麗なバックチョークだ。一度、この体勢に陥ってしまえば、受け手側がそこから脱出するのは困難を極める。また今回のように、両者間に多少であれ対格の差があるような場合には、脱出は不可能だと言い換えてもいい。

 頚動脈が締まり、脳への血流が滞る。ザックに残された猶予は少なかった。すぐにでもこの体勢から脱することができなければ、ほんの数秒足らずで意識を失うことになる。

 とはいっても、ザックに打つ手が残されているとは言い難かった。少なくとも手っ取り早い解決策というのは見当たらない。

 あるいは、いっそのこと敗北を受け入れてしまったならば、それはそれで楽になるかもしれない。すべての抵抗を諦め、成り行きに身を任せることができるのなら、想像するに今よりはずっと気分が良くなるに違いない。しかし現状、甘美な敗北の先に待ち受けるものというのは、逃れえぬ死に他ならない。

 そういった終焉さえも受け入れるだけの度量があれば、また話は違ってくるのだろう。だが生憎と、ザックは自らの死を望むタイプの人間ではなかった。

(乗りこえるしかない……シンプルな話だ)

 切られる手札はすべて切る。出し惜しみをして勝てる相手ではない。ここにきてようやく、彼は本当の意味で腹を括った。


    十二


 奇しくも、それはダンフォールの側も同様であった。

 もしもここで敵を逃せば、近く逆襲を受けるのは必至だ。思えば現状、運び屋が危機に瀕しているのも、例の三人組の暴漢を取り逃がしたことが原因なのだ。

 同じ轍は踏むものか――。

 今度こそ確実に息の根を止める。ここで仕留め損なえば、自分のみならず部下の命まで危険に晒すことになる。大袈裟でなく、ダンフォールの双肩にはボーイズら全員の命運が掛かっていた。

 こうしたダンの焦りにはもう一つ別の理由もあった。左腕が限界に達していたのだ。三日前に受けた創傷が、これだけの短期間に完治するはずがない。それまで誤魔化し誤魔化し動かし続けてきたものの、もはやこれ以上の戦いには耐えられそうもない。それに、このときダンフォールが対峙していたザック・フィッシャーなる人物は、片手でどうこうできるほど容易い相手ではないのだ。

 このバックチョークが解かれたなら、もはや次のチャンスはない。ダンはいよいよ、彼に出せるかぎりの力を振り絞り、正体のわからぬ敵を仕留めにかかった。

「この場を生き残るのは自分だ」という強烈な思念が、想定を超えた膂力を引き出す。脳波の生み出すアドレナリンに促されるまま、ダンフォールは一思いに上半身を捻った。

 途端、陽光の差し込む廃倉庫に鈍い音が響き渡った。それは関節の壊れる音だった。骨の接合が外れ、筋肉や腱が断裂し、皮膚が裂ける。そうした恐るべき損壊が、同じ瞬間に人体を襲う。一瞬にして生命を焼き尽くす。このとき、光芒が彩る港の廃倉庫に響きわたっていたのは、それらの破壊の権化とも呼ぶべき音だった。

 異音は高らかに鳴りながら、かつ一瞬にして過ぎ去った。静寂が支配者に取って代わる。いまや耳に届く音色は一つしかなかい。それは一人の男が、荒い呼吸を繰り返す単調な反復だけだった。

 黒づくめの男の身体は力なく崩れ落ちた。胴体の部分に少し遅れて、頭部が床にぶつかる。あらぬ方向に捻じ曲げれられたそれは、皮一枚で胴部に繋がっているように見えた。

 そうして重荷を投げ出すと、ダンフォールはすぐさまその場にうずくまった。酸素が足りない。背中を丸めるようにして、とにかく呼吸を整える。脈動が平常のリズムを取り戻すまで、かなりの時間が必要だった。

(折った……)

 確実に。かつ、決定的に。ダンフォールがそう確信するように、実際、ザックの首は完全に破壊されていた。立ち上がってくるかどうか、という問題ではなく、生死のいかんに関わる話だ。手足がぴくぴくと動くのは確認できたが、それは筋肉が痙攣しているだけに過ぎない。生命活動というよりかは、その名残りと呼ぶほうが適切だろう反応だ。

 贅沢を言えば、こういう形での決着はダンフォールとしては避けるべきものだった。このザック・フィッシャーという男が何者で、どういう理由から運び屋を付け狙うのか、まだ何一つ判明していなかったからだ。


――怪しい男を捕まえた。ボスの家を張っていやがったんだ――

 その連絡を運び屋の部下から受けたのは、昨日の深夜のことだった。部下――〈クリケット〉ことタイラー・ローソン――が安易に事を起こしたのも、くだんの怪しい男をアジトたる廃倉庫まで連れ込んだのも気に入らなかったが、だからといって部下を責めることはできなかった。タイラーも、自衛のために必死だったのだ。

 ダンフォールはそれ以上、何事も起こらないことを望んでいた。心底から願った。たとえどれだけ迂闊な者であろうと、ダンにとっては大事な仕事仲間であり、かつ面倒を見るべき相手であることに違いはないのだ。

 だが昨晩、ダンフォールが急ぎ駆けつけたときには、廃倉庫はすでにもぬけの殻となっていた。普段以上に荒れた事務室に残っていたのは、フレームの歪んだパイプ椅子と、そこらじゅうに飛び散った真新しい血痕のみ。

 何があったのかは定かではない。しかし、トラブルが起きたのは間違いない。さきに電話口で伝えてあった、「自分が到着するまで待て」という命令が守られなかったこと。また事情が変わったにもかかわらず、いかなる報告も上がってこないこと。それが何よりの証拠になった。

 不足の事態は起きた。その点は変えられない。であれば、問題はどうやって事態を収束させるかだ。

 ダンフォールは好機を待つことにした。自宅を見張るような者がいるのなら、この廃倉庫も遅かれ早かれ監視下に置かれる可能性が高い。ならば、正体不明の敵が舞い戻るのを待てばいい。そこに現れるのが誰であろうとかまわない。どこの誰だろうと叩きのめし、腕づくに情報を引き出すのみだ。

 数時間後、そこに到着したのがザックだった。古びた黒の2ドアクーペと、同じく黒い革のジャケット。作り物のような不気味な人相。二階にある事務室の窓から窺うかぎり、特徴はことごとく一致した。あらかじめ部下から伝え聞いていた、「怪しい男」の詳細と。

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