探偵 九


 そこでようやく、彼の世界は音と光を取り戻した。脳内の電気信号に秩序がもたらされたのだ。ザックは瞼をこじ開けると、霧散したはずの身体を引き起こした。手も足もちゃんと繋がっている。誰かを殴るならこれで充分だ。

 また、彼自身の両拳をいったい誰に向ければいいのかというのも、あらかじめ把握していた。つまり、ずかずかと大股でこちらに近寄ってくるあの大男に、だ。

 ザックが飛び起きたのを遠目に認めたか、大男はそのとき、はっきりとたじろいだ。驚くのも無理はない。なんといっても三十フィートぶんの落下である。通常なら病院送りは免れないだろうはずの衝撃に晒された相手が、直後に身体を起こし、あまつさえ戦う意思を見せたとあっては、誰にとってもにわかには信じられない光景に違いない。

 が、その光景を目にしてなお、ザックに近寄る足を止めない辺り、この大男もかなりの豪胆である。

 その後、両者はある程度の距離を保ちながら、真正面から対峙した。初手を制したのは大男のほうであったが現状は仕切り直しの様相を呈している。ザックは努めて冷静を心がけた。自分自身の痛覚に焦点を置くことで、身体のどの部分を傷めたのか把握しようとしたのだ。とはいえ、そればかりに集中してもいられない。負傷具合の理解に並行して、眼前に迫る脅威たるこの大男についても、やはり考えを巡らせなければならなかった。にらみ合う相手の体格や人相。着衣の様子。それに、現在のシチュエーション。幸いにして判断材料は有り余るほどにあった。それらの情報を総合した結果、ザックはほどなく一つの答えに行き着いた。

(ダンフォールか)

 見間違えようはずがない。いま、ザックの目の前にいる男の顔は、昨夕に駐車場のカメラ映像であらためたものと完全に一致している。そこに含まれた敵意も含めて、完全にだ。

 ダンフォールがどういう経緯からここに現れたのかは定かでないが、いずれにしろこれは千載一遇のチャンスだ。もし仮に、この局面で相手が逃亡する算段をしていたなら、追い付ける可能性はゼロに等しかったはずだ。ここは運び屋のテリトリーだ。隠れ場所も逃走経路も、すべての面において地の利は相手の側にある。同様に、もしダンフォールがザックに敵意を向けなければ、ザックはいまこの瞬間も夢想の中に閉じ込められたままだったかもしれない。彼が意識を取り戻したのは、その身に迫る危険を肌で感じ取ったがゆえのことである。

 そして、その危機感というものは、次なる局面においても彼の身を救うことになった。

 ダンフォールは真っ直ぐに攻めてきた。両者を結ぶ対角線上をただ愚直に、直線的に詰め寄った。その流れに身を任せるようにして、ダンは硬く握り締めた素手の拳をザックに向けて打ち下ろした。体格の面において優劣は明らかだった。背丈はダンフォールのほうが頭一つ分高く、同様に手足のリーチも長い。あとずさってかわした一撃に、それでもザックは恐怖を覚えずにはいられなかった。

 目測を誤れば命はない。だが、恐れは計りを狂わせる。このような場合にはただ一つ、適切な緊張感のみが、信頼を置くべき指針となり得るのだ。

 意を決し、ザックは反撃に打って出た。追撃を試みるダンフォールとタイミングがかち合うも、ザックとて引き下がるつもりは微塵もない。彼は、ダンの長い腕をかいくぐると同時、相手の腹部を目掛けて右のフックを振りぬいた。

 まるで材木でも殴ったかのような感触だった。それも非常に硬く、分厚い硬木の壁材を。優良な筋肉に特有の適度なしなりのために、ダメージを与えたという実感がまるで得られない。ザックは上半身をコンパクトに固め、二発三発と続けて拳を打ち込んだが、それらの打撃はいずれも同じ無力感を生み出すのみに終わった。

 当然というべきか、相手の表情にも怯む様子は見られない。緩慢とも取れるほどの大胆な動作で、ダンフォールはザックの襟首を掴みあげた。その態勢から腕に力を込め、獲物の身体を突き飛ばす。適当な距離を空けようとしたのだ。

 思わず仰け反った上半身に、足が一歩遅れて付いてくる。ザックは重心のバランスを崩しながらも、なんとか靴の底で地面を捉えた。

 そういった不安定な体勢のところに、強烈な打撃が打ち込まれた。蹴りだ。それも、最初の一撃とは趣を異にした、それこそ振り回すような回し蹴りである。遠心力の乗ったブーツの爪先は、まさに凶器そのものだ。

 自らの即頭部に迫る攻撃を、ザックはかろうじて防いだ。しかし無事で済んだとは言い切れない。盾代わりにした前腕に、血流が止まったかと思うほどの痺れが生じていたのだ。痛みではなく、熱と重さが彼の感覚を奪った。

 こうなれば敵方の独壇場である。

 正面から行って打ち勝てるのであれば、小細工などする必要はない。ただ、フィジカルの強さを押し付ければそれでいい。

 そういう哲学がダンフォールという男にはあるのだろう。思想としてはシンプルな部類に入るだろうが、それだけにやりづらい相手だ。

 矢のように素早く、かつ鈍器の如くに重い。そうした殴打が雨あられとザックを襲う。避けるにしろさばくにしろ、あまりこの状態が長引けば、遅かれ早かれ限界まで追い込まれるのは目に見えている。絶えることなく降りしきる豪雨を前にしては、ときに山肌さえも削り取られてしまうのだ。

 だからといって、まだ戦いを諦めるという段階には至っていない。なにも、まったく打つ手がなくなったというわけではないのである。

 次々と繰り出される猛攻に、されどザックは粘り強く耐え続けた。するとそのうち、このままではらちが明かないと考えたのだろう、ダンフォールが攻め口を変えた。それまで彼自身の長いリーチを活かせる距離を保っていたのが、より攻撃的に、またより積極的にと、前へ前へと強気に踏み込んできたのだ。しぶとい敵を討ち取るため、自らもリスクを背負うと決めたのである。

 ここからはいよいよ接近戦だ。両者の繰り出す激しい「暴力」が、それぞれの鼻先で交差する。この距離で直撃をくらえば、いかにザックとてただでは済まない。被弾の許されない緊迫した状況に置かれ、しかし彼はなお集中力を増していた。狙うは一点。まずはボディを徹底的に、だ。自分からは無理に攻め込まず、相手のミスを確実に拾うようにして、ザックは執拗に左のボディフックを打ち続けた。右わき腹の内側にある肝臓と、それを覆う腹膜にダメージを蓄積させるのだ。

 幸い、ダンフォールは緻密と呼べるタイプではなかった。動きの一つ一つに言い知れぬ威圧感はあるものの、的確に急所を狙ってくるというような、鋭利な恐怖感というものは感じない。敵の勢いに圧倒されなければ充分、対応は可能だ。

 無論、容易く打倒できる相手でないのも事実だ。たとえば、打撃の直前に予備動作を長く取ったかと思えば、不意に素早いフットワークで間合いを変えるなど、駆け引きのパターンは極めて豊富である。かわしたはずの攻撃にカウンターを合わせようとすれば、下から抉るようなショートアッパーが飛び出てくる。反対に、様子を見るために距離をあけようものなら、寸分違わぬタイミングで、こちらの位置にぴったりと狙いをすました蹴りが見舞われる。ダンフォールとの戦いは万事がそういう調子なのだ。

 おそらく、これまで幾度となく己が手で困難を打ち砕いてきたのだろう。その度に増やしてきた手札の数が、この男の恵まれた才能を揺るぎない強靭さへと昇華させている。ダン本人とは初めて対峙したばかりのザックにも、そのことは実感をもって確信された。このダンフォール・ハリスという男は、優れた身体能力と格闘センスとを併せ持ち、かつ豊富な経験さえをも兼ね備えた、生粋のファイターなのである。

 そんな男を相手取って、どうして不用意なミスが許されようものか。ザックは生と死の狭間で、繰り返し、繰り返し精密な動きを要求され続けた。爪先の向きや視線の動きなど、小さな情報から敵の意図を察し、反応する。それも瞬時に。察知と対応をコンマ数秒の世界で実行するのだ。そのうえ、たとえそれだけのことを成し遂げたとしても、その後にチャンスが訪れるという保障はどこにもない。

 だからこそ、その兆候を目の当たりにしたとき、ザックは心から神に感謝の言葉を捧げた。

 このとき彼は、反撃の膝蹴りを繰り出した彼自身の左脚に、それまでとは違った感触を覚えていた。ダンフォールの脇腹が明らかに痙攣したのだ。

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