探偵 八


    十一


 晩春の太陽が上空から激しく照り付け、走る波間にいくつもの白線を生み出す。蒼天には雲ひとつない。日差しは厳しいものの適度に風があるおかげで、日陰の少ない屋外でも比較的に過ごしやすい気候であった。

 そういう環境のもとで見てみると、ひとけのない廃倉庫というのも案外、絵になるものだ。満身に活力をみなぎらせた陽光と、栄華の残照たる打ち捨てられた建造物という対照的な二つのモチーフが、明暗のコントラストの中で一体となる。観光パンフレットの写真というのにはうら寂しいものがあるが、しかしある種の趣があってこれはこれで良い。

 そんな、自分らしからぬ情緒的な考えが頭をよぎったことに、ザックは驚いた。太陽と潮風とにこれほどじっくり身を晒すのは久しぶりのことだった。思うに、それが原因だろう。

 できることなら、このまま足を踏み入れずに眺めていたい。そんな思いさえ抱かされる風景だった。だが、その願いを成就させるわけにはいかない。ザックは己の使命感を奮い立たせると、重い足取りで倉庫に近付いた。

 周囲をざっと見渡すかぎり、生きているカメラは見当たらない。カメラそれ自体はあるにしても、劣化などの原因から電源と隔絶されていたり、あらぬ方向に首が曲がっていたりといった具合で、役に立ちそうなものは一つもなかった。この場所が人の手を離れてから、長い時間が経っているのだろう。

 昨晩の記憶を頼りに、ザックは適当な入り口を探した。建物の正面には輸送コンテナ用らしき大型の搬出口が見えるが、それは当然のごとく閉め切られている。他を当たるのが賢明だ。それから倉庫の側面に回り込んだのち、ザックはようやくそれらしい扉に行き当たった。ごくごくありふれた金属製の通用口。その取っ手を右手で掴み、力を込めると、錆の浮いた扉は抵抗もなく開いた。

 ついで屋内に足を踏み入れる。中は不気味なほど静まりかえっており、自らの足音が嫌に大きく反響した。ザックの記憶にあるよりもずいぶん明るい。屋外の自然光が効果的に取り入れられる構造なのだ。天窓から強い日差しが降り注ぎ、太い柱のような光芒を数本、形作っている。どこか厳格ささえ漂わせるその光線の内側を、外界から吹き入る風に巻き上げられた微細な埃の粒たちが、ちらちらと踊りながら駆け巡っていた。

 壁面にしろ床にしろ、やはりどこを見ても古ぼけた様子である。灰色一色に染まる内壁のそこかしこには、裂け目やひびといった劣化がいくつも散見された。壁に沿う形で配置された金属製の階段は、表面中を赤錆に覆われており、ざらざらとした朧な光沢感を浮かべている。そういう状態の階段上に足を置き、なおかつ体重をかけるという行為には、いささかの勇気が必要だった。強度の落ちた板を踏み抜ぬいてしまわないよう、ザックは一歩一歩慎重に段を上がって行った。

 階段の頂上は、そのままキャットウォークに繋がっていた。道幅は狭く、人がすれ違うのにも苦労するような間隔しかない。地上までの高低差は三十フィート前後といったところだ。この狭小かつ危なげな通路を進んだ先が、このときのザックが目指す目的地であった。昨晩は捕らわれの身として、転じて今日は追跡者としてという具合に、彼はまったく逆の立場でもって、記憶に新しい通路を歩み進んだ。感慨深いというにはいかんせん奇妙な気分だった。

 そうして壁伝いに真っ直ぐ進んでいくと、ほどなく見覚えのある扉の前に到着した。二階にはほかに部屋はない。ほとんどのスペースは一階からの吹き抜けになっている。

 事務室の扉の前に立つザックの背後には、転落防止用の手すりが据え付けられていた。そこから見下ろしてみると、倉庫内の間取りは外観から想像するよりもシンプルであるらしいことがわかった。クレーンや、あるいはコンベアといった機器は見当たらない。おそらく、ここは輸送される貨物の一時的な保管場所であったのだろう。

 そんな想像を頭の隅で膨らませながら、ともあれザックは事務室のドアに手を伸ばした。軽くノブを捻る。すると、何かが引っかかるような感触が右の手の平に伝わってきた。異常が生じたというふうではない。それはむしろ、鍵の備え付けられた扉が正常に機能し、不審な人物を締め出すかのような手ごたえであった。

 つまりいま、ザックの眼前にあるその扉は、何者かの手によって施錠されているということだ。

 そのことを理解した瞬間、彼の脳内に数多もの疑問が同時に生まれた。

 この扉はいつ閉められた? オートロックか? いや違う。昨夜に自分たちがここをあとにした際には、施錠などしなかったはずだ。ならば、あとから鍵をかけた誰かが存在するのか。何のために? それにその人物はなぜ、こんな場所の鍵を保持しているのだ。

――あるいは、「内側」から鍵をかけたのか? 

 ザックの思考がそこまでたどり着いたとき、彼の手中で錠の音が鳴った。金属同士の擦れ合う涼しげな音が、微かな振動となって手指に伝わる。何者かの意思を感じさせる手応えが、ザックの困惑を確信へと変容させた。

 探偵は反射的に身を引いた。そうしながら、ドアヒンジを目で探す。そのスチール製の関節は、彼の側に開くかたちで取り付けられていた。

 身構える猶予はほんの一瞬。それでもザックは、顔と胸とをどうにか守るべく自身の両腕を交差させた。思考ではなく、危機感が彼の身体を動かしていた。

 ザックが防御姿勢を取るが早いか、猛烈な勢いで扉が開かれた。内側から蹴り開けたのか。でなければ、身体ごと突っ込んできたのか。ともあれ、金属製の戸板は銃声にも似た音を立てつつ探偵を襲った。

 避ける時間はない。ザックはまともに直撃をくらった。上半身が大きくのけ反り、眼中を火花が飛び交う。やがて稲妻のようなショックが全身を駆け巡ると、それに続く格好で、今度は背中全体を衝撃が襲った。背後の手すりに激突したのだ。

 みしり、と何かが軋む音が聞こえた。骨や肉の立てる異音ではない。それは、錆びと腐食とに覆われた鉄の欄干が、急速にその構造を破綻させる音だった。

 いますぐにでも崩れ去らん、というぎりぎりのところで、しかし欄干はどうにか持ちこたえた。その赤くざらついた表面に身体を預けつつも、ザックは敵の姿を己が視界中に探した。やけに震える眼筋を制し、対峙する相手の様相をあらためるべく目を見開く。

 六フィート半はあろうかという長身。ヘビー級のボクサーを思わせる体格。黒目の小さい、獣じみた目。

 そういった容貌をした男が、一直線に飛び掛かってくるのが見えた。背筋を走る危機感に、ザックは驚愕を禁じえなった。

 今度は身構える時間すらもなかった。気付いたときには、大男はザックのすぐ目の前まで近づいていたのだ。瞬時に接近したその勢いに、さらに体重と筋力とを加えて放たれた前蹴りは恐ろしいほどに重く、速かった。さながら乗用車が衝突したかのようなとてつもない力が、ザックの胴体に突き刺さる。と同時に、胸と腹の皮膚、筋肉、肋骨、肺と胃袋、さらには背骨までをも貫通して、巨大な破壊力が人体を突き抜けた。

 直後、ザックはあらゆる支えを失った。衝撃に耐えきれずねじ切れた手すりごと、彼の身体が宙を舞う。足場を外れるかたちで吹き抜け部分に投げ出されてしまったのだ。もはや何をするにも間に合わない。意識が混濁しているうえに、体勢を立て直すための取っ掛かりも見付けられない。彼に落下を防ぐ手段は残されていなかった。ほどなくして、束の間の浮遊感が過ぎ去ると、次の瞬間には、ザックは三十フィート下のコンクリート製の床面に叩き付けられていた。


 目が見えず、脳が働かない。手足が砕け、粉微塵になったかのようでもあった。

(これではまるで芋虫だ)

 無音と無明のさなかにあって、ただ奇妙な想像だけが無数のシナプスの上を這いまわっていた。自分と同じ目をした芋虫。それは大きな木の根元で、湿った土から顔を除かせていた。その発条仕掛けの芋虫を幼い少女が拾い上げる。彼を捕らえた指は細く、愛くるしかった。少女は、戸惑うばかりの芋虫を、しきりに彼女の母親に見せたがった。楽しい。愉快だ。物怖じをしない子だった。

 しかし母親のほうはというと、どうもそう愉快な心持ちではいられないらしかった。軽やかなブロンドの前髪がかかる額に、彼女はもうずっと皺を寄せたままだ。いっこくも早く、この渋滞を抜け出したかったのだ。そうしないと、このままいつまでも踏み切りの中で立ち往生しなければならない。4ドアのピックアップトラックは大き過ぎる。これでは前に出られない。週末に出かけるのも一苦労だ、と彼は笑った。

 そのうち、カンカンとうるさいほどの高音が鳴り始めた。救急車が来たのか。

(俺の手足は元に戻るのか?)

 ついで音が大きく、速くなる。一度離れて、また近付いてくる。またカンカンと景気よく。子気味よく。サイレン。踏み切り。発条が巻かれる。ダッシュボードから爆発が起こる。赤い。爆弾はそこにあった。彼女らの身体が盾になった。紅い。だから俺は助かった。

 そこでまたしても空気が振動し、新たな刺激を彼の鼓膜にもたらした。幾度も幾度も反復しながら、軽妙な音が落ちてくる。大きな木の上から。枝ぶりの良い、赤いシルエットの隙間から。何者かの足音が段を伝い降りてくる。

(どこだ?)

 赤錆にまみれた、鉄の階段から。

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