探偵 五


 やがてファストフード店からの光も途絶えると、それに並行して、辺りを出歩く者の影も見えなくなった。遥か遠くに佇む摩天楼の、規則正しく配列された窓明かりが一つ、また一つと減っていく。眠らない街に訪れたささやかな休息のとき。事が動き出したのは、その休息のさなかであった。

 そのときザックの耳に、一歩一歩、ゆっくりとコンクリートを踏みしめる足音が届いた。それも一つではない。不規則なリズムを刻む和音は、複数の人間が作り出すものだった。

 ザックは耳を澄ましながら、なお身じろぎもせず、ただ前だけを見つめていた。時代遅れの車体を通して伝わる足音が、いったいどの方向から聞こえてくるものなのかと、それだけに神経を集中させた。

 背後だ。車体から真っ直ぐ後ろに位置する路地の最も暗い部分から、くだんの足音の群れは近付いていた。その単調な反復が繰り返されるたび、だんだんと音が大きくなる。はっきりと判別できるようになる。一人二人ではない。かといって、大勢でぞろぞろと歩くような感触でもない。おそらくは四人ていどか、とザックはあたりを付けた。

 そこでまた、それらの音の塊が位置を変えたかと思うと、今度は不意に進行をやめた。そこからまた少し動き、もう一度動作を途切れさせる。

 相手がこちらに注意を向けているか、という点に関しては、ザックも確かなことは言えなかったが、ともあれ相手方の一行が、この近辺に見える何かに対し強い警戒心を抱いているらしいということは、どうやら断定してもよさそうだった。

 探偵に不安はなかった。頭の中は極めて冷静で、落ち着いていた。

(単純なことだ)

 起こるべきことが起こり、自分はそれに対処する。それ以上の何物でもない。例の不審な一行が大人しく路地を通過し、大通りに向かうならそれもよし。このままここに留まり、いまのザック自身と同じように何かを待つのならそれはそれでもかまわない。あるいはもっと単純に、たいした意図もなく単にたむろするのであったとしても、気にする必要はどこにもない。

 だがザックが望み、期待していた構図というのは、そうした展開とはまったく異なるものであった。

 そういったザックの期待は直後、彼自身が最も強く望んだ形で叶えられることになった。

「おい」

 車窓の向こうで声が生まれる。と同時に、運転席側の窓が軽く叩かれた。

 ザックは目線だけを動かして音源の方向を見やった。するとそこには、鈍い反射光を浮かべる銃口の姿があった。

「降りろ」

 銃を構えた男は静かに言った。その男が声を出すや否や、あっという間に車体の四方が取り囲まれる。やはり相手方は四人だ。火器を所持する者は一名のみであるようだが、その他の三人も、思い思いに物騒な道具をちらつかせている。有無を言わさぬ状況というのは、まさにこういう場面を指す言葉だろう。

 語気と表情とに興奮を滲ませた相手に対し、ザックは驚くほど素直に従った。彼は慎重な動作で一度頷いて見せると、それからゆっくりと運転席側のドアを開け、深夜の外気中にその身を晒した。両の手の平を相手に見せるようにしながら、抗う意思のないことを示す。そうするザックのこめかみに、襲撃者はぴたりと銃口を突き付けた。ザックは、彼自身の鼓膜のすぐ真横から、金属同士の接触が生み出す涼しげな音が伝わってくるのを感じた。

「歩け」

 その後、銃を持つ男はザックの肩を強く掴むと、路地の奥側に向かって突き飛ばした。つまり、大通りから離れる方角へ、だ。

 そうして促されるまま歩みを進めるあいだにも、ザックは自身の周囲を取り囲む男たち四人の人相と着衣を観察し、記憶していた。この男らの正体についてはあるていど見当が付いていたが、しかしその予想が果たして正しいのかどうか、現状では判断が付けられなかった。残念なことに、この四人組はそれぞれマスクやバンダナなどで口元を隠していたため、詳しい人相というのはわからない。服装に関してもさして目立つような特徴は見られず、カジュアルな風合いのブレザーを羽織る者もいれば、シンプルにTシャツとジーンズ姿の者もいる。それをどう捉えるにしろ、判断の助けになるとは思えなかった。ただ、しかと銃を握りしめた男の手首、太い血管の浮かぶその手首の内側に、クリケットバットを模したタトゥーがあることだけは、どうにか確認することができた。

 黙々と裏道を進むにつれ、ザックらの頭上を覆う闇がますますその濃度を増していった。街灯が減り、ゴミ箱や非常階段が増えてくる。分かれ道を暗いほうへと曲がるたび、経年による汚れのこびりついた左右の壁面が、じりじりと距離を詰めてくるかのようでもあった。

 それから少し隘路を進んだところで、ザックの前に新たなる判断材料が姿を現した。弱いコントラストを生み出す屋外ライトに照らされた、グレーのバン。幅広い車体には装飾のたぐいは見られず、輪郭のぼけたような色味も相まって、全体にのっぺりとした印象を覚える車両である。

 どこにでも転がっているようなありふれた乗用車。誰の目にもつかず、気にも留められないその移動手段は、後ろめたい行為を隠すには最も適した選択の一つだ。たとえば、いまこの瞬間にザックを脅かす拉致の脅威であったり、違法なブツを移送するというような行為に際しては、充分以上にその効力を発揮することだろう。

 このとき、ザックは強い手応えを感じていた。それは自らが望み、また予想したとおりに事態が進展するという、得がたい喜びを伴った感覚だった。


    八


 実際にバンが走行したのは、ザックの体感で一時間ほどのあいだであった。車体後部には窓がないためどこをどう走ったのかはわからない。それでも、フリーウェイを行くような軽快な速度感と、うっすらと空気に混ざる潮の匂いというものは、虜囚たるザックでも感じ取ることができた。街の南部にある港湾地区へと向かっているのだ。その道行きのあいだじゅう、四人組の襲撃者たちは一言も言葉を交わすことなく、いずれも緊張した面持ちを浮かべたままだった。


 バンはとある倉庫の前で止まった。その倉庫の壁面はところどころひび割れ、あるいは錆び付きながら、文字の足りなくなった看板をぶら下げている。そこが長く放置されたままであるのは明らかだった。その廃倉庫の奥にあるカビ臭い事務室が、どうやらこの旅の終着点であるらしかった。

 普段は不良どもの溜まり場にでもされているのだろう、秩序だってあるべきはずの事務室内は、むやみに賑やかなスプレーアートの一団に侵略されていた。

 その部屋の中央まで連れて来られると、ザックは両の手首を梱包用のポリプロプレンテープで拘束された。続いて、フレームの歪んだパイプ椅子に力づくで座らされた。

 すぐにでも尋問が始められるかという雰囲気ではあるのだが、しかしリーダー格の男――銃を持った男――は残りの三人に見張りを言いつけると、いったん部屋の外へと姿を消した。何かしらの道具でも持ってくるのか、と思いきや、それから十分ほどが経過したあと、くだんの男は手ぶらで戻ってきた。用を足していたのか、でなければ、どこかに連絡を取っていたのか。

 どうあれザックは黙って成り行きを見守った。根本的には状況は一時間前と変わらない。腰を据える場所が愛車のシートから収まりの悪い椅子へと移っただけだ。

 それからはまた待機の時間が続くことになった。室内には、ザックとともに二名の監視役が残ることになった。どうやら、一定の時間ごとに交代で見張ることに決めたらしい。やはり「何か」、あるいは「誰か」の到着を待っているのだ。


 そこでようやく、(そろそろ潮時か)という考えがザックの頭をよぎった。

 最後に見張りが交代してから五分ほど過ぎたころ。囚われの探偵は、監視役の二名に向かって呼びかけた。

「おい」

 もの静かな室内で唐突に発された人声に、監視役たちは慌てて反応した。

「なんだ」

「外れているぞ」

 そう言うとザックは、縛り付けられていなければならないはずの己が両手を、相手方に差し向けた。彼の言葉が示すとおり、梱包テープはすっぽりと抜け落ちてしまっている。当然、細工をして外したわけなのであるが、監視役の男たちにとっては「どうしてそれが外れたのか」という理由よりも、「拘束が解けてしまった」という事実それ自体のほうがずっと重要であるらしかった。

「おい、お前! この野郎……動くんじゃないぞ」

 このとき室内に残っていたのはリーダー格の男を含まない二名だった。しかしいちおう、拳銃だけは預けられている。いざというときの保険であろう。

 その保険の矛先を、監視役の一人がザックの胴体へと向けた。突き付ける、というほどの近距離ではないが、かといって狙いを誤るほど離れてもいない。

 一方の男がそうするあいだに、もう一方の男がザックに近寄る。彼の腕をふたたび縛り上げようとしたのだ。それも当然と言えば当然だ。いかなる理由であれ捕らわれし者は、その身の自由を奪われて然るべきである。それこそが秩序というものだろう。見張り番の二人は、その秩序を取り戻そうとしたのである。

 とはいえ、この場にいた二名が二名とも、迂闊であったことは間違いない。

 まず最初にパイプ椅子が転がった。出し抜けに立ち上がったザックの脚が、それを背後に弾き飛ばしたのだ。続けざま、虚を突かれ身体を硬直させた見張り番の首を、ザックは素早い動作で掴み上げた。探偵は男の喉元を正確に捉えると、今度は力ずくに相手の身体を反転させ、真後ろからその首根っこを掴んだ。

 無論、監視役の男は抵抗の意思を見せたが、早くも男の背面を取っていたザックは、そうした相手の意向に構わず段階を次の局面へと進ませた。くだんの男の右肩とそれに連なる肘とを、あらぬ方向へと捻じ曲げたのだ。途端、間接がぎりぎりと音を立て、骨同士を繋ぐ腱が千切れる。焼け付くような痛みを伴う損壊である。

 それまで従順だったザックの丸っきり唐突ともいえる凶行に、銃を持つほうの監視役は反応を遅らせた。同じ役割を与えられた相棒が悲鳴をあげるのを目にしながら、思わず発砲をためらったのである。実際のラグはほんの一秒か二秒かといったところだろう。極めて短い時間である。しかし、それは敵に与える猶予としては充分過ぎるほどの長さでもあった。

 もはや、その男は引き金に指を掛けたまま、しかしなお静観をし続けることしかできなくなっていた。なぜなら、射線はすでに塞がれていたからだ。

 この男とザックとを結ぶ直線上には、一人の人間が分厚い壁となって立ち塞がっていた。ザックは最初に近付いてきた監視役の男を無力化しながら、かつ同時に、その男を銃弾に対する盾としても利用していたのだ。

 さらにその憐れな男は、防具としてだけではなく武器としても利用される羽目になった。ザックは激痛によって体勢を崩した男の背中を、力を込めて前方に蹴り飛ばした。直後、男の身体は前のめりに折れ、その勢いを保ったまま、彼自身の仲間がいる位置へとまともに突っ込んだ。二人はもつれるようにして地面に倒れ込んだ。そうして一塊になった監視役二人組をさらなる追撃が襲う。さきに弾き飛ばされたパイプ椅子が、力のかぎりに投げつけられたのだ。

 部屋の四辺に音が反響した。やかましいばかりの金属音と、ぐしゃりと骨の砕ける音。さらには、水分を含んだ肉が一瞬の内に強く圧迫され、その弾力を失う音。命の灯を消し飛ばさんと明確な害意が吹き抜ける音。もし仮に「死」がその両手を叩き合わせたなら、おそらくこういう音がするだろう。

 その身体を襲ったとてつもない衝撃に、男らの脳内は混乱しきっているはずだ。にもかかわらず、銃を持つほうの見張り番はなおも戦意を失ってはいなかった。今そこにある自身と仲間の命というものを、なんとしてでも守り抜かんとしていたのだ。男は息も絶え絶えといった調子で、それでも震える右手に力を込めた。不規則に揺れる男の目が照準器に重なる。どうにか一矢を報いようとする彼の手を、ザックはしかし冷徹に踏み付けた。上からしっかりと体重をかけ、相手の手首を冷たい床に押さえつける。そうしたうえで、ザックは相手の掌に収まっている装てん済みの拳銃を取り上げた。

 そのとき、鍵のかけられたドアの向こう側がにわかに騒がしくなった。休息を取っていた残り二人の襲撃者が、騒ぎを聞きつけたのだろう。それが証拠に、騒がしく駆け足で近付いてくる二組の足音を、ザックは確かに聞き取った。

 扉はすぐに開かれた。それと同時に、凶器となりうる道具を持った二人が部屋の内部へと飛び込んできた。

 ザックは躊躇わなかった。ほとんど間を置かず、一つ、二つと軽快に銃声を轟かせた。マズルフラッシュが周囲を照らし、スプレーアートの原色を浮かび上がらせる。同じ瞬間、ブルーやライトグリーンといった色彩の渦に、真新しい色が加わった。それは、酸素と体温とをふんだんに蓄えた、ヘモグロビンの赤だった。

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