第2章ㅤ元ワケあり令嬢と騎士

 妹に「自分は本当の姉ではない」と伝えたノノアントは、草原にある家に暮らしていた。

 血筋の繋がっていない妹はそれでもノノアントのことを「お姉ちゃん」と呼び続け、別れ際ノノアントは、自分はまるで仔犬を捨てる酷い人間みたいだと思った。

 酷い人間、なのは間違いない。姉と偽り続け妹を騙してきたのだから。表面上だけならまだいい。心の中でも『自分は彼女の本当の姉ではない』と否定し続けてきた。


 否定し続けて十年年以上経った。

 やっと嘘の生活から解放される。


 全て嘘のような生活だった。

 路上にいたような人間が、令嬢として扱われ令嬢として振る舞わらなければならない。それだけではなく、血筋の繋がらない家族を本当の親のように接しなければならなかった。そうしなければ捨てられると思った。

 小さかった自分は、そのときに捨てられては生きられないことを知っていた。

 だから妹の面倒もちゃんとみた。……妹の面倒を見始めたときはそんな感情からだったけれど、いつからか妹の存在の危うさが心配になり、自分が守らないといけないという責任感で妹の側にいた。


 そんな妹との生活は終わり。

 これから永遠に妹と接する時は訪れないだろう。


 そう思っていた。




「ユーリスって本当にいい人ね!」


 妹ーーであった、ルナの発言に、ノノアントは心の中で『好きにでもなったか』と冗談に呟く。


 ルナが初めてここへ来たとき、それは突然だった。

 家の前に馬車が止まり何事かとノノアントが凝視していると、飛ばされるような勢いで開いた馬車の扉から出てきたのはルナだった。「お姉ちゃん!」と大きな声して顔を輝かして。

 窓からノノアントの姿が見えたのだろう。

 そんなに焦っていたのか、急いで駆けてきたルナは自分の足を絡ませて転んでしまい顔面を強打させた。が、それも気にせずすぐ様立ち直しノノアントに抱きついた。「お姉ちゃん! お姉ちゃん」と連呼して、また会えて良かったと顔を見せて微笑んだ。それは嬉しそうに。


 その、ルナが転ぶ直前に家から出てきたのがユーリスで、ルナが顔面を強打させた瞬間を見てしまったために、今ではルナが馬車から降りるときに必ずユーリスは手を貸している。

 その光景が嫌だというわけではない。


「はい、これ」


 ルナがやってくるというのには理由があって、ルナがやってくるときには「仕送り」も一緒にやってくる。

 この仕送りはアビンス家の母親と父親が決めて送ってくるもので。ルナが言うには「お姉ちゃんが受け取らなかったら、私を育ててくれたお礼って言いなさいって」。


 妹を育てたなんてそんな大層なことはしていない。ご飯や衣服、身の回りの物は全てアビンス家が用意したもの。ノノアントは面倒を見ただけだ、と育てたということに否定する。

 つまりは、この仕送りはノノアントの生活を心配してのことだろう。それか、ルナがここへ来るためのものなのか。

 あの両親のことだから両方だろう、と少しはノノアントもあの二人のことを知っているつもりだ。




「お姉ちゃんたちって付き合ってるんだよね?」


 家に招き入れたルナが、四角いテーブルの椅子に座りながら当然のごとく言う。


「付き合っていない」


 なぜだか嬉しそうなルナを一瞥し、ノノアントは興味なさそうにそれでもはっきりと答えた。


 ルナはノノアントのことを未だ「お姉ちゃん」と呼ぶ。それをノノアントは許しているのか気にしていないのか何も言わない。

 再会して最初に「お姉ちゃん」と呼ばれたときにはノノアントは複雑な顔をして「もう姉ではない」と否定したが、それでもルナは引かずに「それでもお姉ちゃんはお姉ちゃんだよ」とこれまた当然のごとくに言った。

 ルナが物心つく前も物心ついた後も、ノノアントはルナにとって「お姉ちゃん」以外のなにものでもない。


「付き合ってもいないのに夫妻みたいなことしてるの?」


 スープをよそっているノノアントと、お茶を淹れているユーリス、二人の視線をルナは受ける。


「お姉ちゃんはお家でご飯作って待ってて、ユーリスはお外でお勤めしてきてここに帰ってきて。子供がいれば側からみれば完全に家族だよ!」


 子供ね……。

 なんとなくノノアントはその単語に引っかかった。

 自分が子供の頃は幸せなど知らずに成長してきた。だからか、子供がいたとしても自分には幸せを教えることができず、幸せにできないだろうということが予想できる。


 ルナの言葉に動揺して、皿によそったスープが少し手のひらについてノノアントはすぐさま皿を置く。

 火傷をするようなものではないが、その一瞬の痛さに似たものもあったせいか何かへのイラつきが増してしまう。

 これは八つ当たりだろうか。


「私たちは一緒に暮らしているだけ、同棲しているだけよ」

「なんで一緒に暮らしているの?」


 ノノアントの口調が強くなったのを気付かずにルナは質問を投げつける。

 ーーユーリスに頼まれて。

 そう答えようとしたノノアントだが、これ以上彼女の疑問を解くのが馬鹿らしくなった。


 そんなノノアントに気づいたのか、ユーリスが代わりに答える。


「僕が頼んだんだ。一緒に暮らしたいって」

「どうしてそう頼んだの?」

「それは一緒にいたかったから」

「どうして一緒にいたいの?」

「……」


 スムーズに答えていたユーリスはそこで沈黙してしまう。

 一緒に暮らしたいと頼んだのは、一緒にいたかったから。その言葉に一切偽りはない。

 けれどその問いに答えてしまったら。


 抑えきれない感情というものはあるもので。

 言っても意味のないものだとしても。


「……好きだから」


 息をするように自然と、それでも真っ直ぐと真剣味の帯びた声。

 ノノアントでもユーリスでもなく、ルナが頬を染める。


「聞いた!? お姉ちゃん!」


 ばっとノノアントに顔を向ける。


 静寂後、興奮しているのが自分一人だとルナは気づく。

 それどころか、目の前にいる二人は同じ顔をして俯いてる。




「お姉ちゃん? どうしてそんな顔してるの? 好きって言われたんだよ」


 ユーリスが自分のことを好きだということはノノアントは知っていた。知っているけど答えない。応えられない。

 ーーだからだ、とルナの「好きって言われたんだよ」発言に、ノノアントの心が何かに締め付けられる。


 ユーリスは子供の頃、ノノアントにとって唯一心の許せた存在だった。今でもその存在に変わりない。

 だからそういうことでは好きなのだろう。

 けれど正直よくわからなかった。自分が彼にふさわしいとも思わない。


 自分の側に物好きでいる彼。

 そういう認識をしているせいか、それ以上の感情はうまれない。


「ルナ、ごめん。その話はもう……」


 ノノアントの苦しそうな表情にユーリスは辛くなり、ルナの発言を遮る。

 呼び捨てにするよう言われてから、ルナのことをユーリスは呼び捨てで呼んでいる。


「なんで謝るの? 好きっていう感情はいけないの?」


 好きという感情をノノアントに抱いているユーリスはどう答えればいいかわからなかった。何て言えばいいか考えても、肯定するべきか否定すべきか、根本的なところから決まらない。


 焦って何かを言おうと口を開けようとしていたが、諦めて押し黙るように静かになってしまったユーリスを見て、次は自分が助け舟を出す番かと冷静な判断をする。


「ルナ、彼の私へ抱いている感情は嬉しく思っている、と思う。……だけど応えられない」


 ノノアントの素直な気持ちだ。


「どうして? こうして一緒に暮らしてまでいるのに」

「私がいけないの。私に問題がある」


 自分を責めるようなノノアントの発言。

 二人とも苦しそうな辛そうな表情を浮かべている。

 まさかこんな空気になるなんて思っていなかった。ルナは、恋愛話として軽く二人から話を聞こうとしていた。

 恋愛話をすれば誰だって甘い空気になるものだ。恥じらいとか本音とか、さっきのように告白なんてものがされたらお互い意識して顔すらまともに見られなくてぎこちなくなる。


 ……違う意味でぎこちなくなった。重たい空気になった。

 想像していたぎこちなさとは違う。

 まるでいけないことを言ってしまったかのような。

 恋愛話をしようとしていただけなのに。


「ごめんなさい。質問ばかりして……」

「いいんだ。こっちこそごめんね」


 こんな空気にしてしまったのは自分で、自分が悪いということがわかって居たたまれない気持ちになったルナは謝った。

 それなのにユーリスは何事もなく、本当になんでもなかったかのようにルナの心配さえする。


 ルナの心配というより、複雑な二人の関係に巻き込んでしまったルナにユーリスは謝ったようだった。




「ごめんもう帰るね」

 昼食を一緒に取るはずだったルナは気まずそうに言った。

 初めてここへ来てから恒例になっていた昼食タイム。ルナはわざとお腹を減らしてノノアントたちの元へ来たが、その空腹さえ感じられないほどのよくわからない罪悪感と哀しさを感じていた。


 見送るためにルナと一緒に外へ出たユーリス。

 家の中に一人となったノノアントは俯いたまま考える。


 ーー中途半端だっていうことはわかっている。けれどこの環境に甘えて、拒むこともせず応じることもしないんだ。それが今一番良い選択だと思えるのだと言ったらルナは、意味わからないと言うだろう。




「ユーリス、本当にごめん。まさかあんな空気にしちゃうなんて」

「ルナは悪くないよ」

 悪いとしたら、ノノアントに気持ちを押しつけて、側から見たら中途半端な関係に満足してしまっている自分だーーと言ってしまいそうになるのをユーリスは抑える。

「またね」


 ルナが入った馬車が動き出して空間的に一人になって、思い出す先ほどのセリフ。


『ルナ、彼の私へ抱いている感情は嬉しく思っている、と思う。……だけど応えられない』


 ーーまさか嬉しく思っていたなんて。

 自分が抱いている感情をノノアントが嬉しく思っていたなんて全く思っていないくて、ユーリスはとても嬉しく感じていた。


 これだからいけないんだなーーとも思う。

 こんな些細なことで喜んで、中途半端な関係も中途半端と感じずこれが今の一番の幸せだと感じてしまっている。


 確かに恋人になりたいとか家族になりたいとかという願望はあるけど、ノノアントはそれを望んでいない。

 だから今のままで良いと思う。




 草原にある家の扉がノックされる。


 家の中にいるノノアントは不思議そうに扉の方を見た。

 この辺に家はなく人もいない。ノノアントの家に伺うような知り合いなどおらず、いたとしてもユーリスとルナだけで、片方のユーリスは騎士の勤めで遠方に行ったばかりだ。ルナは以前来たばかりなのでこんなに早くまた仕送りに訪れるわけがない。

 もしユーリスが戻って来たとしたならノックだけではなくノノアントの名前も呼ぶはずだ。なのに今日はそれがない。


 もう一度ノックをされ、ノノアントは扉を開けた。


「なんでしょう……?」


 訝しげに目の前の男を見据える。


「メルヒル・クロン様の命により、ご同行願います」


 断ろうとしたが言われた通りにノノアントは馬車に乗った。

どうやらどこぞの王子に呼ばれたらしい。何も悪いことはしていない。まさかユーリスが何かしたのか。

 揺れる馬車の中でノノアントはいろいろと考えていた。




「アビンス家の令嬢として、俺と婚約してもらう」


 案内された部屋に入り机を隔てた椅子に座っている男の前まで行くと、少しの沈黙後おかしなことを言い出した。


「と、アビンス家にも伝わっている頃だろう」


 当然かのごとく堂々としている男は以前どこかで見た顔だ。アビンス家のパーティー会場で失礼な行動をした男。

 背中のチャックをおろそうとしたり、弱味を握ろうとしたり。良い印象はひとつもない。


 アビンス家にこのことが伝わっているということは、ノノアントの家に送らせるのと同時にアビンス家にも遣いを送らせたのだろう。手際はいいようだ。


「意味がわからないのですが」

「ノノアント、お前はアビンス家の令嬢として俺の嫁に迎え入れる」

「……」

「これでもわからないか?」


 強制的な言い方。

 そもそもすでにノノアントはアビンス家の令嬢ではない。一般の女性。言うなれば、価値のないただ生きているだけの人間。


「お前を連れてくる騎士と、アビンス家にそのことを伝える騎士を同時に送らせた。善は急げと言うだろう」


 男は得意げに笑む。

 何がそんなに面白いのだろう。


「貴方の言っていることいまいち理解できないので帰らせてもらいます」


 ノノアントは踵を返して扉に向かう。

 確か前に彼は、妹であるルナよりノノアントの方が好みだと言った。それだけを考えれば婚約を申し込んできたのはわかる。けれど、もうノノアントはアビンス家から抜け出した身。

 男がノノアントの居場所を知っていたとしたらそのことを知っていたのだろう。なのに。

 なのになぜアビンス家の者ではない、血筋も繋がっていないノノアントをアビンス家の令嬢として迎え入れようとしている。

 わけがわからない。こやつも物好きか。


「待て。そう急ぐなよ。悪い話じゃないだろう?」


 悪い話以外の何の話でもない。


「お前は幼い頃からアビンス家に世話になっていた。その恩を恩で返すのにいい機会だろう」

「何が言いたいの?」

「お前は〝大きな借り〟を重く感じている。だから俺がその重荷を払ってやる、と言っている」

「私の重荷を払ってやるためだけに、私と婚約なんてしようとしているの?」

「まさか。お前を俺のものにするためさ」


 ーーもの。


「貴方のものにはなりたくないわ」

「いいな。その冷めた感じ」


 ノノアントの個人情報がごく普通に語られ、心境まで読み取られている。そのことにノノアントは苛々する。

自分の感情をそこまで読まれたことはなかった。ある一人を除いて。

 その、ある人に心が読まれてもなぜか許せることが多いが、目の前の男のことは存在自体が許せず敵意を向けてしまう。


「ある所でとある男ーーそれも以前アビンス家に仕えていた騎士と同棲しているようだが、その男に心を奪われでもしたか?」

「どこからそんな情報を?」

「情報なんて手に入れようとすればいくらでも手に入る」

「悪質ですね。個人のプライバシーに関することをそんな軽々しく」

「そんなことより、上手く話をかわされたようだが」

「話をかわしたつもりは全くないわ」

「だったら、俺が一番気になっている質問に答えてはくれないか?」

「……」

「……」

「……」

「……おい」


 視線を交わしたまま無表情でいるノノアントはわざと答えないでいるのかと男は眼光鋭く見ていたが、ノノアントの目は一切揺らぐことがなく何か言葉を待っているのだと気づく。

 反応してノノアントは口を開く。


「一番気になっていることとは、騎士の彼に恋い焦がれているか、ということですか?」

「恋い焦がれ……、お前案外ロマンチックなこと言うな。まあそういうことだ」


 小説的な表現。

 冷酷な瞳をしているノノアントからそんな言葉が出てくるなんて思ってみなかった。少しは乙女なところがあるのか。


「だとするなら、私はいいえと答えます」

「ほう?」

「満足ですか?」

「俺を満足させるための発言なのか?」

「いいえ。本心だわ」


 真実の言っている偽りのない眼光だ。

 それでもどこか納得がいかない。


「だったら、お前とあいつとの関係はなんなんだ?」

「……同じ苦しみを味わった、とだけ言っておきます」


 初めて視線を外し下を向いた。


 ノノアントは小さい頃のユーリスと自分を思い出す。見窄らしい身なりして、髪の毛は薄汚れてて。

 行動を共にしたのは一度だけだけど、お互い同じ苦しい毎日をおくっていたはずだ。もう終わらせたいと思ったりしたかはわからない。ユーリスはそう思ったことがなさそうだ。


 路地でパンを半分こして一緒に食べた、苦しいはずの環境でユーリスは笑ってた、笑えてた。そんなユーリスが眩しかった。

 ーーなんで苦しいのに笑えてるの? 苦しくないの? 私はこんなに喉がつまるほど苦しいのに。


 もう終わらせてしまったほうがいい。そう頭をよぎってひとつのパンを丸ごとユーリスに渡そうとした。けれどユーリスはそのひとつのパンをちぎって半分を当たり前のように渡してきた。いらない、なんて言わせない、そんな顔をしてた。


『でも僕には今日が輝いてみえるよ』


 そう言ったユーリスの笑顔は、まるで暗闇の中で光る月のように見えた。

 ーーそんなあなたが見えている今日を見てみたい。

 ふと心の奥底でそんなことを思った。が、意味がわからないふりをした。そうしなければ、何かを望んでしまえば、これまでの以上の絶望が押し寄せることを知っていたから。


 苦しいはずの思い出なのに小さい頃のユーリスが一緒の記憶だと心が温かくなって緊張が緩む気がする。

 ノノアントの辛そうな表情が少し柔む。


「少しだが、本心を打ち明けてくれてありがとう」


 なぜお礼を言われたのかノノアントにはわからなかった。


「メルヒル、婚約者を連れて来たと思ったら婚約者らしからぬ楽しい話してるじゃん」

「エレノ、いつからいた。なんで入ってきた」

「なんでって、この面白い子に挨拶しに来た」


 先ほど出ようとした扉から入ってきた人は、どうやらメルヒルの知っている者のようだ。

 そういえばメルヒルから自己紹介をうけていない。遣いの者が彼の名を口にしていてなんとなくわかってはいたが。


「彼女は俺の……姉だ、一応」

「一応って何。エレノだよ、よろしく。ノノアントだっけ? ノノちゃんでいいよね」


 見下げて、人懐こい顔を向けてくる。

 よくはない。


「まさか気に入ったのか?」

「うん、気に入った。面白い子の上可愛いし」


 メルヒルとエレノ。どっちもどっちだとノノアントは呆れる。

 こんな自分のどこを気に入ったのだろう。やはり兄弟だ。




 夕飯を頂くことになったノノアントはフォークとナイフを使い黙々と食べる。十数人座れるテーブルで食事をするのは久しぶりだが、やはりそういうテーブルというのは席が埋まらないようだ。メルヒルとエレノ、それにメルヒルの父と母がいてどこか重苦しい。

 メルヒルの父が口にする。「お前がこいつの婚約者か?」と。

 はい、ともいいえとも言えない立場であるノノアントはただメルヒルの父の視線を受け止める。


「彼女はアビンス家の令嬢。俺の婚約者です」


 はっきり堂々と言ってのけたメルヒルに、メルヒルの父は納得いかないような顔をしながら食事を再開した。




 まさか泊まることになるなんて思っていなかった。ベッドのある部屋に佇むノノアントはここへ来たときとは違う着物を身に纏い、愕然としている。

 昼間にここへ自分が連れてこられた理由やこれからのことを話されたりしたが受け止められるはずがなかった。熟考しているうちに知らずのうちに日暮れがたになり、なぜかお風呂へ案内され否が応にも従えば、上がったときには着物が用意されておりそれを着たというわけだ。以前着用していた着物はどこかと聞けば洗濯中だと言われた。


 婚約者としてここへ連れてこられた。最初から計算されていたかのようにメルヒルの父にもメルヒル自身にそう伝えられてしまった。だがそれは嘘だ。メルヒルの勝手な行動で、そんなことノノアントは承諾していない。

 そもそもメルヒルに好かれた理由さえわからない。お互い顔を合わせたのはパーティー会場で、言葉を交わしたのは一度きりだ。好いていない女を婚約者にする必要があるのか。あるとしたらアビンス家との繋がりだろう。

 アビンス家の令嬢として婚約してもらうとメルヒルは言っていた。しかし、それなら純血な血統のルナでいいだろうとノノアントは思う。ふざけた理由でふざけたやつにルナが狙われなかったのはそれもそれで安心だが、なぜアビンス家の令嬢としても曖昧な方のをとったのだろうかとノノアントは頭を悩ませる。

 すでにノノアントはアビンス家との繋がりを絶っていたつもりだった。




「ふざけるのもいい加減にして」


 元の場所に帰りたい。

 痺れを切らしたかのように言い放ったノノアントの言葉にメルヒルは何かを考えているかのような仕草をする。


「そんなにあの場所に帰りたいのか?」

「居場所に戻りたいと思ってなにが悪いの」

「いや、俺が言いたかったのは、そんなにあの男のことが心配か? だな」

「心配……」


家を留守にして一晩がたった。もう自分がいないことに気づいただろう。

昨日の夜ユーリスがあの家に帰宅したとしたら、こんな時間にどうしていないのか、深夜になってもなぜ帰って来ないのかおかしく思っただろう。

朝になってしまった今はどうしているのか。

ちゃんと寝ただろうか。深夜に探し回ったりなんてしなかっただろうか。

今日も騎士としての仕事があるはずだ。

何でもないだろうといつものように行っている頃だろうか。

それなら、それがいい。


けれどユーリスはそんな人じゃない。

心配して探そうとする。

家の鍵は閉まっているから家で攫わられたとは考えないはずだ。二日までなら家を空けても大丈夫だろう。きっと、たぶん。

家に置き手紙でも置いておくべきだったと後悔した。


あのときドアを開けたときにはすぐ同行を求められそれどころではなかったし、まさか一泊してこれからも帰れそうにない状況に陥るなんて思ってもみなかった。


「当たり前よ。心配して当然」

「なぜ?」


まるでーーやはり恋心を抱いているのか? というメルヒルの視線が無意識なのかわざとなのか挑発的だ。


「仔犬のような人よ。私がいなくなったら困惑するわ」

「は? お前らはそういう関係なのか?」


緊張感のなくなったメルヒルの顔のおかげで空気が軽くなった気がした。


「お互いに必要としている。それは確か」

「確証しているのは随分な信頼があるからなのか、それとも……まあ、いい。これからはそれは俺とお前になる」

「〝それ〟とは……」

「お互いに必要とする関係」

「ありえないわ」

「否が応でも夫婦になればそうなる」


当たり前のように言い放つ

ああ嫌になる。当然かのような態度。わたしのユーリスに対する価値は変わらない。


「本当に私なんかと婚姻するつもり?」

「ああ、そう言っているだろう」

「アビンス家であるか曖昧な私をなぜ選んだの?」

「私なんかと卑下しながらずいぶんと抵抗するな」

「そういうつもりではないけれど」


相手にとって得ではないという意味で言ってあげただけなのだけど。決して、自分が彼に相応しくないからといった卑下ではない。

わたしはアビンス家とは縁を切ったつもりだ。両親の情けで仕送りとともにやって来る妹はそんなことは思っていないだろうが。

だからこそこんなわたしが、貴族とは無縁の草原で暮らしていたわたしをわざわざ探してまで婚約者にしたいなんておかしすぎる。妹のルナを選ばなかった点がどうしても納得いかない。家名狙いの婚約ならルナとの方がどう考えても確実だから。

ーーああ、そうか。


「貴方、ルナに振られたのね」


ルナなら他のことは考えず自分一番に気持ちを伝えたはずだ。


「ルナ? お前の妹の元へは行ってないぞ」

「……」


どうして。本当にこの男ーー。

いや、きっと他に理由がある。何か裏が。


「ユーリスに恨みでもあるわけ?」 


ユーリスは騎士だ。どこで何をやっているという詳しい話は聞かないけれどもしかしたら、ユーリスは彼と面識があって何か恨みを買ってしまったのではないだろうか。だからわたしを否が応でも連れてきた。ユーリスを悲しめるため。


「いろいろと詮索しているところ悪いが、そのユーリスという騎士と対面したことはない。ただ俺が資料で一方的に知っているだけだ」


本当にわけがわからない。メルヒルの考えてることが。

意味がわからなすぎて、そんなわたしを見て楽しんでいるかのような含み笑いが嫌で逃げてきた。

わたしの居場所だと設けられた一室は落ち着かない。当たり前だがアビンス家の部屋と全く違う。高級そうなソファやベット、絵画が並べられたなんていうか冷たい空間。ここに慣れていないだげだからかもしれないが、アビンス家の部屋だって値の張る物が置かれていただろう。それなのに暖かった。気持ちだけの問題かもしれないが暖かった。


息のつける所を探したくてついでにここから逃げる方法を探したくてそこからも出た。そこはメルヒルにとってわたしの鳥の籠だったに違いない。大人しく把握できる場所においておきたいはずだ。だからとも言える、じっとはしていられなかった。


仕え人らしい人に足止めをくらったが、息が詰まると吐いた。それでもわたしを自由にする気配がないから威圧的に言ってやった。クロン家は女を屋敷に閉じ込めるのが趣味なのかと。

ただの女の当てつけだ。それでも相手からしたらわたしはメルヒルの客人で失礼があっては自分の身が危険だと思ってくれたのだろう。庭へ案内してくれると言った。


つまり監視役として側にいるということだ。それこそ息が詰まる。

けれどまあ、外へ出られて深呼吸して頭をすっきりできたかもしれない。

ここから出る方法は未だ思いつかない。


「馬はいないの?」

「馬、ですか……?」

「わたし馬が好きなの」

「いることにはいますが、ここから少し離れた所の」

「そう案内して」

「しかし……」

「なに? あなたが側にいれば安心でしょう?」

「しかし私個人の判断では」

「ふーん、つまらないわね」


少し離れた所にいるということは騎士用の馬だろうか。それなら案内を渋るのは当然だ。そこに行くまでに何かあっては大変だし、騎士がいるとするならその者たちへの対応その後のメルヒルへの報告が第一に大変だろう。わたしを庭に案内することすら知らせていないのだから。わたしがそれを許さなかった。


「つまらないか。ずいぶん退屈な思いをさせているようだな」


後ろから聞こえた声はまさしく彼のものだった。


「メルヒル様……」


仕え人が彼の登場に顔を青くする。


「誰が庭へ案内しろと?」


メルヒルの口調から察するに、勝手に鳥を籠の外に逃がすなということだ。誰がなんて、そんなこと誰も言うはずがないとわかっているはずなのに。意地悪だな。わたしが言えることではないけど。


「わたしが頼んだの、屋敷内は窮屈で退屈だから新鮮な空気を吸えるところに連れて行ってって」

「それは悪いことをした。かわりにお好きな馬に乗るというのはどうだ」


いつからわたしの行動を見ていたとか言ったら、相手からも何かしら聞かれて不利な立場にもなりかねないから何も話さない。お互いに動向を探っているようで馬の飼育場まで一言も発することはなかった。


白い馬に華麗にまたがったメルヒルはわたしに手を差し伸ばす。


「一人で乗れるわ。というより一人で乗りたい気分」


可愛くない。わかっている、わざとそういう態度をとっている。

近くに茶色い馬がいたからその子に乗った。

馬に乗っているだけなら慣れている。


「さすがだな」


馬鹿にしている。女を馬鹿にするのもいい加減にしろ。


「これはどうだ」


馬を走らせ木の柵を飛び越えた。できるかという挑発だったのだろう。否、したことはないしたいとも思わない。

こちらを見て返答か行動を待っているようだけどわたしは何もしない。

馬の敷地を囲う柵の外を見て想像した。このまま馬に乗ったまま囲う柵を飛び越え上手くいけば屋敷を抜け出し、そしてそのあとは?

自由なんてない。追われては捕まる。もしかしたら知り合いに迷惑をかけるかもしれない。だとしてももう一度ユーリスに会いたい。会って大丈夫だよって言いたい。会いたい。

そのためにはわたしが頑張らなければいけない。あの優しい笑顔を暖かい眼差しを心地の良い声を、向けられるにはわたしがユーリスに会いに行くしかない。

でもどうやって?


「どうした」


どうしてわたしは彼の前にいるのだろう。どうして彼の目にわたしが映っているのだろう。わたしが前にいるべき人は、わたしの前にいるべき人は。


「貴方なんかじゃない」


自分で言うのもなんだが、黒い瞳がさらに淀んで冷たいものとなっているだろう。メルヒルの顔が少し引きつった気がした。

冷酷な眼差し、だったか冷たい令嬢だったか言われたがどうでもいいので忘れた。


「わたしは貴方が嫌い。ここに連れてきた貴方が憎い」

「知ってる。けどそこまで言われると傷つく」

「それでも帰してくれないのでしょう?」

「悪いと少しは思っている」


馬に乗ったまま向き合う。初めて会場で会った彼とは別人のようなメルヒルに後で問いてみた。あのときの対応とどうしてそんなに違うのか。月日の流れはあるけれど落ち着き用が違いすぎるから。メルヒルはもちろんあのときのは表の態度だと言った。今わたしに向けているものが素か裏なのかは知らないが今のほうが良い思う、というより以前のは最悪であるということは口にはしなかった。




なんとも早すぎる。三日目には婚約したことを知らせるパーティが開かれた。

納得しているように見えなかった父上はどうしたのか。力強くで言いくるめられたのか。

早すぎて逃げる機会すらなかった。


メルヒルの横を歩き言葉を発さないどころか表情すら動かさない。ご令嬢がひそひそ話をしていてわかった。ああ氷結な女だったか、と。


どうでもいい。けれどこの先ユーリスに会えないことだけは許さない。


メルヒルが立ち話をしている間に誰もいないような廊下へ出た。

さあ逃げてしまおうか。何も計画もあてもない。それでもメルヒルの婚約者に仕立て上げられるくらいなら闇雲に走り逃げてしまったほうがましだ。


とりあえず外へ出られそうな扉へ向かった。

客人だろうか、こちらへ歩いてくる男の人がいる。関係ないと思うのでむやみに目を合わせず横を通り過ぎようとしたとき男の人が……あ、と声を漏らした。

関係ない関係ない。言い聞かせながら横を通り過ぎるも待ってと呼び止められた。


メルヒルと関係ない人だよね。今から会場に向かっていたしわたしとのことは知らないはず。

内心冷や冷やしながら振り返る。もし連れ戻されそうになったら逃げよう。そう決心しながら。


「やっぱりあのときの会場の人。アビンス家の」


その名を口にしたのを聞いて彼をまじまじと見て思い出した。

アビンス家で彼が迷子になっているところに出くわしたことがある。


「あのときのお礼、なにがいい?」


お礼って何が。挨拶もなにもなくて突拍子もないことにわけわからなくなる。お礼なんかされることやっただろうか。したとするなら会場への道を指差した、ただそれだけのこと。そんなことでお礼なんてされるなんて……。

断ろうとしたけれどやめた。今は猫の手でも借りたい。ここから出ることが、この願いを聞いてもらうことが無謀でも賭けたい。


「私をアビンス家に連れて行ってください」




馬車は外にあるからと案内された。意外にもすんなりと聞き入れてもらえたのだ。

アビンス家に行ったら婚姻のことは破棄すると伝えよう。そしてすぐにユーリスのもとへ帰ろう。あの家で待ってくれているはずだ。どう思っているだろうか、三日も家を開けていたことを。どう伝えようか。どう伝えたら納得してくれるか。婚姻のことは言わないつもりだ。

言ったらユーリスは少し落ち込むかもしれないから。ユーリスの悲しんでいる顔は一番見たくない

自惚れかもしれないがユーリスはわたしのことを好いてくれていると思っていた。今ではどうだろう。距離を置いて頭を冷やして、自分にとって本当に必要なものか頭をかしげている頃かもしれない。

わたしはそこまで大事に思われるような存在じゃない。

ユーリスを大事に思ってくれる人は知らずともいるかもしれないし、これからも現れるはずだ。わたしなんかが側にいなければ。

わたしなんかが側にいなければ……?


なら今のこの状態はユーリスにとっていい機会なんじゃないだろうか。わたしから離れるのに。わたしへの謎の執着をなくすのに絶好の時間。

でもそう考えると少し、いやすごく寂しい気持ちになる。

ユーリスはわたしのものじゃない。ユーリスはもっと自由にするべきだ。ユーリスはわたしとは違って無限の可能性がある。


お互いにお互いを大事にできる人と会うのだってユーリスであれば容易いことだ。ユーリスは人柄もいいし表裏なしに心優しいし容姿だっていいし、人を大切にすることができる。そんなユーリスを放っておく女性はいない。

ああ、そうわたしがいなければ。わたしなんかいなくても。

ユーリスは幸せになれる。わたしがいなければきっと。


階段を降りるために下を見ている姿は不自然ではないはずだ。馬車のあるところに案内してくれている彼はわたしより数段先に降りている。彼の名前はなんだったけ。それどころではなくて名前を聞いていなかった。


ノノアントと呼ばれた気がしてふいに視線を上げた。

何かを急いでいるような焦った顔。けれど瞳は希望に満ちているよう。同じように瞳を瞬いた。


「ユーリス……」


幻かもしれないと一瞬よぎった。それでも名前を口にした。久しぶりに呼んだ気がする、呼ばれた気がする。懐かしく感じてしまう。

会いたかった。その声を聞きたかった。


「迎えにきたよ」

「どうしてここだとわかったの?」


なぜここにいるのか理由を知っている? 理由を知られたくないと思っていた。ユーリスが、と。今では自身の気持ちが、知られたくないと言っている。


「アビンス家に行って婚姻のことを聞いてここまで来た」


やっぱりユーリスはしょげた顔して言う。そんな顔は見たくない。


「わたしはそんな気さらさらない」

「うん、知ってる」

「だったらそんな顔しないで」


心の中で言ったつもりが言葉にしていた。

気づいたのかユーリスは困ったように笑う。


「ごめん」


謝ってほしいわけじゃない。そんなことされたら悲しくなる。

わたしは婚姻なんてしない。でも下手したら強制的にそうなるかもしれない。ユーリスもそれを感づいている。だからユーリスは。ユーリスはどう思っている?


いやだ。

今すぐに駆けてユーリスのもとへ行きたい。

そう思ったときには足が動いて階段を降りていた。

ユーリスが近くにいる。こんなにも近く。

感極まって、驚くユーリスに気を遣わず飛びつくように抱きついた。両腕をしっかりと背中にまわした。こんなことしたの初めてかもしれない。


ユーリスがあまりにも冷静でこちらがおさめていた気持ちを破裂させてしまった。さっきまで離れるとか思っていたけど。


「会いたかった」


離れたくない。

馬鹿げた理由で離れたくない。

ユーリスの胸元で本音を呟いて一層強くなる思い。


「僕だって会いたかった。ずっと怖かった」


なにが。そう聞くのをためらった。

怖かった。会えなくて怖かった、他にもいろいろと意味がありそうで。受け止めきれないこともありそうで。言ったら実現してしまうこともありそうだ。


口数が少なくとも、お互いに触れ合う体温で感じ合うことがある。わたしの中でユーリスの存在は思っていた以上に大きく、かけがえのない人となっていた。

そうなってしまったら怖いことも知っている。それでももうそうなってしまっている。変えるには難しそうだ。


「騎士様登場か。さあどうする」


まるで独り言のよう。それでもわたしたちに向けているものだとわかった。ユーリスから離れて見上げれば、面白げに言ったのが彼とは思えないくらいメルヒルは冷めた顔で睨みをきかせている。

ここにいることがバレてしまってもユーリスが側にいることで気持ちが強くもてていた。こちらも見つめ返す。


「ノノアント、お前がユーリスと共に暮らすというのなら、俺はそいつを殺す」


思った以上に冷たい発言。一ミリもふざけてなどいない。


「殺人者にでもなるつもり?」


騎士のユーリスであれば太刀打ちできるはずだ。


「どんな方法でも死刑にできる」


権力的な意味でか。

危機を感じてユーリスを守るように前に立った。

一番最悪な事態だ。メルヒルにそこまで執着される覚えは全くない。

ユーリスに危険が迫るならわたしはどうなってもいい。そのはずなのにきっぱりと口にすることはためらわれる。

一言、告げてしまえばある意味わたしたち……わたしは死んでしまう。

それは避けたい。でも他に方法は。


ユーリスがわたしの前に立ったとき、階段の真ん中にいた彼が会話の間に入ってきた。


「じゃあさ、僕が迎え入れるよ」

「ハース、何を言っている」

「良いでしょ? 二人とも捨てられた子犬のような顔してるし。早い僕の誕生日プレゼントとして、僕に譲ってよ」


知り合いだったようだ。クロン家の会場にお呼ばれした人なのだから当然といえば当然だが、親密さを感じるような気がするのが驚きだ。


「……わかった」


諦めた? わたしもユーリスも理解できないうちに事態は収集したらしい。二人して顔を見合わせているうちに彼はわたしたちの横を通り過ぎ振り向いた。いくよ、と。その言葉に歩みを進めた。最後に見たメルヒルは彼のことを見ていてわけわからないといった表情をしていた。

わたしたちのことを助けた意味がわからなかったのだろう。わたしたちだって理解できていないのだから。




馬車に乗って目の前に座る彼は平然としていた。

隣同士座って彼を見ているわたしたちだからわかる。この異様な空気を。


「どうしてわたしたちを……」

「助けてくれたのですか?」


それが一番にわからない。


「助け? ああ、僕、君たちを助けたことになるのか。さっきも言った通り捨てられた子犬のような顔してたからだよ」

「……そうなのですか、ありがとうございます。ところで僕たちはこれからどうすることになるのでしょう……?」

「どうする? それは君たちが決めることだよ」


理由を理解できなかったがユーリスはとりあえずスルーしたのだろう。彼は天然な部分があるようだ。

わたしは彼にアビンス家に連れて行ってと頼んだ。誤解を解くためと助けを求めるため。今では彼の後ろ盾があるからこのまま帰っても大丈夫そうだ。


「もし、今までいた居場所に戻りたいと言ったら許してくれますか?」

「いいよ」

「……良いのですか?」

「うん」


わたしたちの交渉を知らないユーリスは心底驚いている。

これ以上彼になぜといった質問をしても無意味そうだ。


「捨てられた子犬がいたら同じように助けてあげて」

「なぜそんなにお優しいんですか?」

「……? 捨てられた子犬に?」

「はい」


ユーリスも天然だった。天然同士、言葉数少なくとも伝わるようだ。


「僕も、以前まで捨てられた子犬だったから」

「僕たちも貴方と同じ捨てられた子犬でした!」

「そうなの?」


はつらつした声と親近感湧いたようなユーリスの瞳がきらきらしている。このことを誰かに話すのはわたしたちの間で以外初めてだろう。そんなに心開ける相手なのだろうか。わたしは傍観するしかない。


「あの、一つ申し上げたいことがあるのですが」

「なに?」

「僕……、僕たちは施設を作りたいと思っています」

「施設?」

「僕たちと同じような子供たちを保育する、児童施設と言いますか……孤児院を」


食事するときにそのことを話したりしていた。実現するものとは思わなかった。ユーリスは真剣に実現しようとしていたけど、アビンス家に言えば簡単なことだったのにそうはしなかった。きっとこれ以上わたしが恩という重荷を感じないようにするためだったのだ。今気づくなんてわたしはユーリスのことをちゃんと見れていない。


「そこで、ハース・キルト様にもお力をお貸しいただきたいと思いました」


わたしはユーリスに気ばかり遣わせてなにもできていない。


「助けていただいた上にこんなこと、すみません」

「いいんじゃない、すごくいいと思うよ。僕は何をすればいい?」


ユーリスは彼の名を呼んだ。ユーリスは知っていたんだ。ハース・キルトーーメルヒルより位の高い人だ。だからメルヒルは彼に従った。




孤児院の話をするために彼の申し出によりキルト家にお邪魔した。クロン家よりも落ち着く雰囲気の家だった。

本格的に実現するために泊まりで話し合った。わたしは時差ユーリスの問いに頷くだけだったけどわたしはその場にいないといけなかったらしい。


久しぶりに帰ってきた草原にある家。


「ノノちゃん久しぶりだね」


扉を開けると中にはメルヒルの兄弟がいた。


「ここでノノちゃんが暮らしていたってメルヒルに聞いて、待っていたんだ」


なぜここにいるのか。内心驚きすぎた。まだメルヒルがいたほうが驚かなかったかもしれない。


「メルヒルがさ、君のこと諦められないんだって。だからさ、クロン家に戻ろ?」

「どうして私なんですか?」

「メルヒルに興味ない女の子。メルヒルが興味を持った女の子。それが答え」


くだらない理由。

それなら探せばいくらだっている。


「僕さ、これでもメルヒルの兄なんだよね。メルヒルはあのとき姉だって言ってたけど。あれ? 知ってた?」


少しも微動だにしないわたしに彼は笑う。

うまく女装していたけど雰囲気でわかっていた。わからない人にはわからない。

彼の名はエレノ、メルヒルの兄。


「言い寄ってくる女性の企みや嘘によって僕がこんな風になっちゃったと思ってるから、メルヒルは言い寄ってくる女性に壁をはっているのかもしれない。僕みたいにならないように。だからーー」

「彼に言い寄らない女性もたくさんいるはずです」

「君じゃないとだめなんだよ。本当に本当にメルヒルに一切興味のないメルヒルと同じような苦痛を味わった女の子」


どういうことかわからず眉間に力が入る。

相変わらず彼は面白げに半分儚げに笑っている。

私の苦痛を、幼い頃の話を聞いただけで知っているかのように言わないでほしい。苦痛を量られているようで嫌だ。それに苦痛だけではなかった。


「メルヒルはね、僕の腹違いの弟なんだ」


それを。


「父の弟と母の子供がメルヒル。父の弟、メルヒルの父はもういない。死刑されたんだ、父の言葉によって。弟を身籠った母から真実を聞いた父は激怒して、母は泣いてたよ。それでも母は弟を産んだ」


そんなことを知らせて私に何を求めている?


「もちろんメルヒルは父に愛されなかった。それどころか弟を産むと決意した母でさえ、メルヒルに母として接することはしなかった。まるで赤の他人みたいに。それでも……」


本人さえ話さなかったこと。


「ごめんね、ってたまに母に言われていたメルヒルは、最初わからなそうにしてたけど、ある日から言われるたび哀しそうな顔をするようになった。たぶん、そのときからわかっていたんだと思う。自分は彼らの子供でいてはいけないと、彼らは自分のことを息子だと一切思っていないと」


こうしてエレノはぺらぺらと話しているわけだけど、私はそれを聞いて何を言うべきなのか。私はこれを聞いていていいのか。


「メルヒルは弟だから家を継ぐことはできない。だけど兄である僕が継ぐことができない状況であれば、弟が家を継ぐしかない。そうなれば父や母はメルヒルを頼りにするしかなくなる」

「だから貴方はそれを演じているの?」

「弟のためっていう理由だけじゃないよ。女性がこわくなってこうなったっていうのも事実。色々考えてこうするのが一番良いと思った」


女性が怖くなって女装するなんて笑える話だ。でもメルヒルが関わってくるとそうではなくなる。

エレノはたぶんきっと自分のためでもあると言いながらそれは口実で、弟のためにやってきていることだ。

でもそれは間違っている。


「ノノちゃん。考えてくれない? メルヒルの花嫁さんになってくれるの」

「ーーできません。私には、決めたことがあるんです。最近やっと、自分の幸せがなんなのか見つけられそうなんです。だから……ごめんなさい」


私にはユーリスがいる。婚約者なんて必要ない。傷を舐め合う存在なんて必要としていない。


「そっか。うん。そうだよね。君は、幸せがなんなのか見つけることさえ大変なんだ。僕が甘えてた、僕がなんとかしなければいけないんだ。ごめんね、関係ないのに」


エレノは呆気なく納得した。こんなにあっさり引き下がると思っていなかったため少し呆然とした。そして小さい怒りがやってくる。


「私にできることならやります。そうでなければ断ります。ただそれだけです」


関係ない。その言い方が、そう言われたことが癇に障った。

だったら最初から関係などなかった。

メルヒルが私を連れ去る行為をしてから関係は始まっていた。いやその前から少し繋がりはあった。それでも自身の心を砕いてまで一緒になるつもりはない。


「もう話は終わった?」


トントンっと控えめに扉をノックしてユーリスは姿を覗かせた。話を聞いていたのだろう。

私が最初に家に入ってユーリスは土地の広さなどを確認していたから、それが終わったということか。

それならもう今はここにいる必要はない。


「ユーリス、行くよ」

「いいよ。僕が出て行くから。ここは君たちの家だろう?」


一瞬、驚きはしもののエレノは自然とした振る舞いで扉の方へ来て私たちの間を通り過ぎ去ろうとする。

本当に彼は周りの状況を人の心を全て飲み込みそれを抱える人なのだろう。あまり関係のない人の意見も自身の主張を簡単になかったかのようにして。

その背中を見て心苦しくなった。


「私にできることはありますか?」

「だったら、もしメルヒルが君たちの側にいくことがあったとするなら快く迎え入れてほしい」


優しすぎるのはその人にとって大きな負担となる。

だから私は優しさなど必要ないと思った。それを持てる余裕などないと。

エレノの笑みがユーリスの笑みと重なって見えて、似た人なのかとユーリスも彼のように負担をおっているのだと考えさせられた。

私は少しでもユーリスに優しくしなければいけない。




これまでのアビンス家の仕送りとハースの手助けとユーリスの資金で、施設をつくる。そのことが実現した。

ハースは一切お金はいらないと言っていたけれどユーリスはどうしてもと受け渡したのだ。

私もアビンス家に了承を得て渡した。どちらも気持ちを込めたいからこその行動だったのだろう。


私は私を拾ってくれたアビンス家に対する感謝を。ユーリスもそうであるようだけど、それ以外に自分の意志を形にしたいようだった。


孤児院の場所は私たちの家の隣。

草原で土地も広くて周りには住居がない。広々と育てるにはいい所だと提案したのだ。

買い物に行くにはすごく遠いというわけでもないから。


キルト家からは給与という形式でお金が送られてくる。それもこの孤児院で育った子はキルト家になんらかの形で遣えることになるから。もし別の道を歩みたいというのならそうさせるべきだとハースは言っていた。

つまり最終的には自由にしていいらしい。


キルト家に得があるのか。今現在としてはないとしか思えないけど、見返りというものはいつか必ずやってくるものだ。


私の役目は家事と一般知識などの勉強を。騎士のため勉強や訓練はユーリスがやってくれる。

子供がどこからやって来るのか。探せばいくらだっているという事実が悲しい。


アビンス家も協力してくれる、いや協力させてくれな体制だからちょっとした大きな規模になるのは目に見えていた。

私たち二人だけでそれらを支えるのは難だ。ましては初めての体験。


一人、協力者が入った。

政治や経済のことに関しては強力だろう。


「子供というのはいいな」


なぜ彼がと思った、最初は。

理解して受け入れるのに時間がかかった。

メルヒルの兄、エレノが快く迎え入れてあげてほしいと言っていたのはこのことかと察したからには拒絶などできなかった。


ユーリスが子供たちと遊んでいるーー太刀打ちをしている姿を見ている横顔は笑っているがどこか悲しそう。

唐突に頭を撫でてみる。

髪の毛細くてさらさらだ。

びっくりして瞳孔を開く目と目があって手を引っ込めた。


「……なんだ?」

「ルナの母と父がよくルナにやっていたわ」


孤児院の子供たちには、ルナの母が接していたようにやってきている。真似しなければどうすればいいかわからない。


「悲しんでいるとき、褒めるとき、慈しむとき、それをされるとルナはいつも嬉しそうに笑っていた」

「お前はよくわからないな」


微かに笑うと同じようにメルヒルも笑う。

羨ましいんだなってわかった。私も改めて考えると、ルナを羨ましい気持ちで見ていたときが何度かあったから。


「メルヒル、貴方から今少しだけ悲しいという感情が伝わったわ。子供が羨ましい?」

「……そうだな。親のいない子供に何を嫉妬してるのか。甘やかされていたり、何をしても許されたり、そういうのが良いなと思った」


観念したように本音を出したメルヒルはほんの少し笑いながらに言う。


「俺も本当の意味では親がいないからな」


悲しみは含まれていない。隠しているのかそれとも本当に笑い話でしかないのか。

最初から親がいないより、親に見放されるほうが辛いはずだと私は思う。親の顔を知らない最初から親がいない自分は初めから消失感に慣れていた。

メルヒルは信頼していた親に見放されていた。いるはずのメルヒルの存在価値は認められていなかった。

そのことに慣れるのに必死だったのではないかと思う。


「私もユーリスにも親がいない。だけど、だから子供たちにできるだけ愛情を注ごうとしている」

「ああ知ってる」

「なんならメルヒルにも注ごうか?」

「は?」

「冗談よ」


あまりにもメルヒルに似つかないとぼけた顔をするので思わず笑ってしまう。


「お前でも冗談を言うようになったんだな」

「冗談を言っては悪い?」

「いや。心が穏やかになった証拠かもな」


その証拠に、私が意図せずに笑うことが含まれているのだろうか。

メルヒルだってよく笑うようになった。心が穏やかになった証拠なのかな。

縛られた環境から離れて、これからどうするのかはしらないけどメルヒルは今の環境に一息つけている。

息苦しいところにいれば機嫌が悪くなったり、そのせいで態度が悪くなってしまうのはわからないことではない。

今までのことは許すことにした。悪いことをしたと私とユーリスにちゃんと謝ってくれたから。


「ユーリスと結ばれるんだろう?」

「いつかはそうなる日がくると思う」

「そうか。良かったな」

「ええ。貴方のおかげでもある」


ユーリスと無理やり離されてわかった気がする。私にとってのユーリスはなんなのか、どんなに必要としていたのか。

ユーリスが私を必要としているだけとバカみたいな勘違いをしていたけど、私は素直にいれていなかったんだ。

私もユーリスを必要としている。ただの友人としてではない。もっと特別なものとして。

特別な関係になりたい。やっとそう思えた。


メルヒルはなぜかわかりやすい溜め息をつく。


「俺は何をしてるんだろうな。惚れた女をみすみす手放すなんて」

「冗談」

「半分本気だ。惹かれていたのは事実だし。でもまああいつのことも尊敬しつつあるからな」

「ユーリスのこと?」

「二人の間を裂くなんてできないだろ」


きっと大半が冗談だ。

その話に付き合うのも悪くない。


「もう少し早く出会っていたら違った、なんてあるのかな」

「お前はもう子供の頃からユーリスに惹かれているだろ。それより早くっていつになるんだ」

「私が路上生活を始めた頃か……。いつからなのか記憶は曖昧だけど」

「路上生活か。したくはないが、お前となら悪くないかもな」


しないですむのならしないほうがいい。

路上生活せざるおえなくて同じ環境化のユーリスと出会えたわけだけど、完結にいうと苦しい。死を自ら受け入れようとしたほどだ。その状況を全て話すと死に急いでいたと思われると思う。

実際そうだった。パンを渡した相手がユーリスではなかったらもうすでにわたしは。


「それなら拾ってくれるほうが助かる」

「ああ犬としてか?」


じとめで見ながらスルーする。


「家族として。アビンス家と同じように」

「それは嫌だ、断る。家族になったら婚姻できないだろ」

「私はその方がいい。兄妹として一緒にいれるほうが永遠な気がするから」

「離れることはあるんだぞ。でもそういうなら今からそういう関係になるか?」

「兄妹として?」

「誕生日早い俺が兄な」

「お兄様? なんかいたことないから新鮮」


離れたとしても心では繋がっている。ルナとは、ルナを突き放す形で別れてしまったけどルナは妹として未だそばにやって来てくれる。

最初はそれが鬱陶しかったけれど今ではそれに感謝している。


「ユーリスとはそういう関係になろうとはしなかったのか」


またもメルヒルの口からユーリスの話題がでる。

そういう関係になろうとしなかったのか、記憶を巡らす。特に考えたことはなかった。


「あのときは男の子がいるな、輝いているなとしか思っていなかった」

「輝いているなんておかしな表現だな。まあ言いたいことはわかる」

「二人ともなんの話してるの?」


いつ子供との太刀打ちを終わらせたのか、ユーリスがこちらまで来ていた。私はユーリスの髪に視線がいく。メルヒルも同じだろう。そのあとユーリスの顔へ。やっぱり輝いている。


「お前の話だ」

「え? 僕の」


不思議そうなユーリスに単調に。


「ユーリスは輝いているって話」

「ああ金髪のこと?」

「そういうことでもある」


アビンス家内で会ったときはじめに思ったのは綺麗な金髪の男の子だった。その前で会ったときは瞳が綺麗な心の強い男の子。アビンス家内でよく喋るようになってからは、それらが全て合わさって輝いている少年。

外見も内面も合わせての表現だ。

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ワケあり令嬢と騎士 音無音杏 @otonasiotoa

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