第4話

 夕暮れにカラスが羽ばたいている。

 今日もたくさんの人が交差点を行き来し、アスファルトの上には人々の影を落とし、それが幾重にも重なって巨大な魔物を作っているようだ。


 信号機の虚しいメロディが流れている。

 多くの人の影の中に、ゆう子の小さな影もある。事故でハンドルが曲がってしまい、傷だらけになったピンクの自転車の籠に柴犬をいれて、影の中に隠れるように、或いは呑み込まれるように、ゆう子は街をさ迷っていた。


 もう、彼女の手元におとうさんの自由研究ノートは無い。ゴミ収集車に持っていかれてしまったから、無い。


 一ヶ月かけて書いたノートが消えてしまったのはゆう子にとってショック以外の何者でもない。それよりも、ショックだったのは、自分の追求してきた「おとうさん」が何だったのか、結局わからないことだった。謙一が、和也が、おとうさんではない違う生き物であった、という絶望にゆう子はうちひしがれた。


 では、本当のおとうさんは?

 本当のおとうさんは、どこにいるのだろう?


 家から飛び出してきた時、ゆう子はポポと自転車以外何も持ってこなかった。僅かな小遣いも無かった。だからコンビニでノートを糸も容易く万引きした。

 店員の誰も、小さくて痩せこけた彼女のほんの数秒の行動に気付く者はいなかった。


 ***


 電車の轟音が響くガード下、赤提灯のともる居酒屋でゆう子はモツ煮込みとオレンジジュースを飲んでいる。

 テレビでは、夕方のニュースが流れ、ゆう子の家の事件がさっそく取り沙汰されていた。


『蒲田謙一(37)無職が、佐々木和也さん(35)と和也さんの妻徹子さん(34)を鋭利な刃物で殺害。娘のゆう子さん(7)は行方不明』


「恐ろしい事件だなぁ」


 ゆう子の隣にいる泥酔しきった中年の男が、爪楊枝で歯を引っ掻きながら呟く。そんな男の独り言に反応するものなど普段は誰もいないだろう。しかし、ゆう子がそんな孤独な彼に話しかけた。


「この事件、怖いけど面白い、ね? おじさん」


 ふいに話しかけられた中年の男は、隣にいる少女に驚いた。


「ん? 何お嬢ちゃん、お母さんは?」


 ゆう子はその問に応えなかった。ただニコニコとしているだけだった。そして、先ほどコンビニで万引きしたノートを両手で男に差し出しながら男に聞いた。


「おじさんは、誰かのおとうさん?」


「え? おと……?」


「おじさんは誰かのおとうさんですか?」


 唐突すぎるゆう子の質問に、男は意図が汲み取れず、苦笑いをしていたが、やがて


「そうだよ。家に居場所はねえけどな。妻も娘も俺をバイ菌扱いだよ」


 と、大袈裟に笑った。


「それでも私、おじさんが必要なの」


 ゆう子はずいっと身をのりだした。

 男はますますたじろいだ。


「私の研究に付き合ってほしいの」


「研究? 何言ってるんだこのお嬢ちゃんは」


 ゆう子は、何も言わずに謙一が返した十万円を封筒にいれて差し出した。そして淡々と研究の目的や方法について語り始めた。

 男は封筒の中身と、異様なほど落ち着きを払って研究手法を説明する少女を交互に見やると、ごくりと唾をのんだ。


 ***


 あれから何年たっただろう。


 私は、何人もの「おとうさん」を調査してきた。でも、私の理想のお父さんは誰一人いなくて、私は研究が一段落するたびに落胆していた。例えば、成長するにつれて「お父さん」は私に身体の関係を求めてくるようになった。最初はそれに応じていたが、それはお父さんのやることではないと、何となく気がついた。


 そう。彼等はお父さんではなくて、ただの男性という生き物なのだ。「おとうさん」というのはただ与えられた役割に過ぎない。


 私ももはや、娘ではなくて、子供でもなくて、大人の女性に成長してしまった。

 もう誰も無条件で私を愛する人などこの世に一人もいないということを私は悟った。



 私はやがてバイト先の会社で出会った普通のサラリーマンの男と結婚し、長女を身ごもり、自分自身も「妻」「おかあさん」という役割に落ち着いた。


 何かの役割にはまれば、自分自身が落ち着くと思っていた。


 しかし、私は自分のかわりに夫と楽しく遊んでいる娘を見て、面白くなかった。うらやましいとさえ思った。自分が得られなかったものを簡単に得られて簡単に消費している娘が憎いと思った。


 私は母親として思ってはいけないことを何度も思った。

 朝食や夕食の仕度をする時、保育園のお迎えに行く時、お風呂場で娘の髪を洗っている時。


 どんな時もわたしは、ゆう子ではなくて「おかあさん」であらなければならなかった。また、夫も私の名前を呼ばなくなり、母親の代名詞を使うようになった。


 ある夜中、子育てのことで口論になった。気がつくと私は家を飛び出していた。そんなことはしょっちゅうある。そして、そんな時はいつも近所の公園に立ち寄って、頭を冷やしている。そんな毎日を私はここ数年繰り返していた。


 子供の発育に悪いから止めろ、と夫に言われているタバコをポケットからそっと取り出し、ライターで火をつけて、フーとふかす。


 夜空にもくもくと煙が上がっていく。私の肌や服にも煙が揺らめいて、まとわりついている。こんなことを繰り返して……私は母親失格だ。

 煙の先に何かが見えた。

 二本の子供の脚だ。


 脚は、やや警戒しながらも私に近づいてきた。蝉の音が大きくなり、風がふいて砂利と公園の木の緑のにおいを同時に運んできた。もうすっかり夏だ。


 脚から上を見ると、小学生くらいの少年が佇んでいた。その顔は好奇心と恐怖に満ちあふれていた。手には、ノートを持っていて、その指先は震えていた。ノートと一緒に抱き締められた鉛筆も一緒にかくかくと揺れている。

 少年は裏返った声で私に聞いた。


「あの……おばさんは、誰かのお母さんですか?」


 私は煙草を地面におしつけて消しながら、何て答えようか考えていた。

 公園の向日葵が、夜空を仰いで大輪を咲かせていた。私の夏は、まだ終わりそうにない。


【end】

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おとうさんのきろく 紅林みお @miokurebayashi

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